その先の物語 : 040

運命の分岐点
真っ暗な部屋で、椅子に腰かけたファイツはただひたすら涙を零していた。ここでこうしていたところで、何の意味もないことは分かっている。だけど、今は何をする気にもなれなかった。頭の中で、彼に告げられた言葉が何度も何度も鳴り響いていたからだ。思い切り目を瞑っても、痛くなるくらい耳を塞いでも、その言葉はどうしたって消えてくれなかった。とうとう堪らなくなって、ファイツは机の上に突っ伏した。それでもやっぱり、深く突き刺さった言葉は消えてくれない……。

「……迷惑、だったんだ。あたしのして来たことは、全部迷惑だったんだ……」

ぶるぶると震える唇から、勝手に言葉が零れ落ちる。迷惑という言葉は、彼に、ラクツに面と向かって告げられた言葉だった。
記憶に新しい、夕方の出来事が色鮮やかに蘇る。元々不機嫌だなとは感じていたのだ。だけどあそこまで彼の機嫌が悪くなるなんて、夢にも思わなかった。いったい何が彼の機嫌を損ねたのかが、まるで分からなかった。瞬きもせずにこちらを見つめて来る彼のことが、いつの間にかそうは思わなくなった彼のことが、怖くて堪らなくて。問いかけに答えることもせずに、わけも分からず立ち尽くしていたら、それは深い溜息をつかれた。そして、迷惑だと告げられてしまったのだ。
”キミといると、迷惑だ”。ラクツの口から放たれた言葉がこれだった。そしてそれを聞いた瞬間に、ファイツの頭は真っ白になってしまった。足の感覚が戻るや否や、ファイツは彼から逃げ出した。ラクツを”怖い”と思ってしまったことも、そして自分の所為で彼を苦しめていたという現実にも、これ以上向き合いたくなくて。だからラクツに背を向けて、文字通り彼を置き去りにしたのだ。「迷惑をかけてごめんね」と、謝ることも出来なかった。ただただがむしゃらに走って、気が付いたらこの部屋でひたすら泣いていたというわけだ。

(……あたしがいると、迷惑なんだ)

一筋の涙が、頬を伝ってぽたりと落ちる。いったい何度、こうして泣いたことだろう。いったい何度、自分の行いを後悔したことだろう。だけどどれだけ深く後悔したところで、突き付けられた現実が変わることはないのだ。

(……ラクツくん)

心の中で、ファイツは散々迷惑をかけてしまった相手の名前を口にした。直接声には出さなかった。こんな自分が彼の名前を声に出して呼ぶなんて、とても赦されないような気がしたのだ。

(ラクツくんは、今何してるんだろう……)

酷く打ちのめされていたファイツは、時計を確認する気にもカーテンを閉める気にも部屋の電気を点ける気にもなれなかった。だから今が何時なのかは分からないが、外が真っ暗なことからするとあれからかなりの時間が経っているのだろう。そんな中で彼はどうしているのだろうと、1人思いを馳せる。真面目な彼のことだ。今頃はトレーニングに励んでいるかもしれないし、フタチマルがしていたように道具の手入れをしているかもしれない。あるいは既に寝てしまっているということも考えられる。間違っても自分のように現実に打ちのめされているとか、何をするでもなくただ泣いているなんてことはないだろう。少なくともそれだけはなさそうだとファイツは思った。”絶対にない”と断言出来ないところに、彼との距離を今一度突き付けられたような気がして、そっと目を伏せる。

(結局……。あたしはラクツくんのことを、よく知らないままだったんだなあ……)

こんなことなら、ラクツくん自身のことをもっと訊いておくんだった。心に浮かんだ気持ちを胸中で呟いてしまってから、ファイツは自分自身を嘲った。こんな状況だというのに、どこまでも自分のことしか考えていないではないか。そんなことだから、彼に迷惑だと言われてしまうのだ。

(いつから……。いつから、迷惑だと思われてたのかな)

この1ヶ月と少し、ファイツは1日も欠かさずにラクツと顔を合わせていた。再会した当初は無表情か呆れるかで、目付きばかり鋭かった彼が、日増しに笑うようになっていったことが嬉しかった。自分が作った失敗ばかりの料理を、彼が残さず食べてくれるようになったことが嬉しかった。彼が食事にかける時間が、目に見えて長くなったことが嬉しかった。ラクツ自身ですら分からないと言っていた、彼の嫌いな味が判明したことが嬉しかった。ラクツと、ついでに自分の為にご飯を作るというのは大変だったけれど、それ以上にファイツにとっては嬉しいことばかりで。だから自分のしていることは、きっとラクツの為になるに違いないはずなのだと。ファイツは本気でそう思い込んでいたのだ。心の底から、そう信じていた。
今となっては思い違いも甚だしいと、ファイツはまたもや自分を嘲った。特に、自分の料理がラクツの好む味付けを探す手がかりになるなんて信じ込んでいたことは、まったくのお笑い種だ。烏滸がましいにも程があるとファイツは自らを毒づいた。ラクツと、フタチマルと、そしてダケちゃんと一緒に食卓を囲んだあの時間は、自分にとっては確かに楽しかったと言えるけれど。だけどそう思っていたのは、きっとファイツだけだったのだ。彼の口から告げられたことがその証拠だ。ラクツに迷惑をかけていたことも知らずに、のんきに日々を過ごしていた事実を思って、顔をくしゃくしゃに歪める。彼への申し訳なさで、またもや瞳からは涙が溢れた。ラクツに迷惑だと思われているなんて微塵も思わなかった。いったいどこで間違ってしまったのだろう?

(……ごめんね、ラクツくん)

ラクツに嫌がられていたという事実に気付きもせずに、そしてラクツに謝りもせずに、こうして泣くことしか出来ない自分がほとほと嫌になる。そんな自分を戒めるかのように、無造作に伸ばした右手を力の限り握り締めた。爪が手の平に食い込むのを感じたが、ファイツは構わなかった。食い込んだ爪によってとうとう血が滲んだその時、ことりと微かな音が聞こえて来て、ゆっくりと振り返る。涙でぼやけた視界に朧げに浮かんだのは、大切な友達の姿だった。

「ダケちゃん……」

いつの間にずり落ちたのか、小さな身体を枕に寄りかけたダケちゃんは、鼻から風船を膨らませてすうすうと寝入っていた。上手く働かない頭で、ぼんやりと記憶を辿ってみる。今の今まで忘れていたけれど、そういえばダケちゃんはずっと怒っていたような気がする。だからきっと、怒り疲れて寝てしまったのだろう。実に気持ちよさそうに眠っているダケちゃんに向かって、ファイツはごめんねと呟いた。優しいダケちゃんはこんな自分の為に何時間も怒ってくれたようだけれど、自分にはそんなことをしてくれる価値もないとファイツは思った。大切な友達が聞いて呆れる、自分はその友達のことを気にもかけなかったではないか。

(……今、何時なんだろう)

逃げ帰ってからというもの時間を確認する気にもなれなかったファイツは、ここで初めて時計を見た。手を伸ばせばすぐに確認出来るライブキャスターではなくて壁にかけてある時計を見たのは、ラクツからの着信があるかどうかを確認するのが怖かったからだ。どこまでも臆病で、どこまでも自分勝手だ。そう思いながら目を凝らして暗闇に浮かび上がる時刻を確認すると、短針が9を指しているのが辛うじて確認出来た。つまり、今は夜の9時ということになる。道理でお腹が空くはずだと、ファイツは1人納得した。普段なら、とっくにご飯を食べ終えている時間なのだ。あの出来事さえなければ、今日だって夕食を食べていたに違いない。そう、彼と一緒に。

(……ラクツくん)

ぼんやりとした頭で思うのは、やっぱり彼のことだった。ラクツは、そしてフタチマルは、お腹を空かせていやしないだろうか……。彼と彼のポケモンに思いを馳せた時、ファイツはあることに気が付いた。

(そういえば、フタチマルくんにお菓子を作るんだった……)

自分の作る料理はラクツにとって迷惑だった、悲しいけれどそれは真実だった。だけど、これだけはきっと迷惑にはならないだろう。だって、だって。……だって、他でもないラクツに頼まれたのだから。

(どうせ眠れそうにないし、今から材料を採りに行こうかな……)

お腹は空いているけれど、どういうわけか食欲は湧かなかった。それに、眠気すらも欠片も湧いて来なかった。それをいいことに、材料のきのみを採りに今すぐ出かけようかという考えが浮かんだ。フタチマルの為に、そしてラクツの為に。珍しいきのみを使った、豪華なお菓子を作るのだ。ふっと浮かんだその考えは、今のファイツにとって実に魅力的だった。

(でも……。でも、もし何かあったらどうしよう……)

情けないことに、運動神経が良くないという自覚はある。それに、あんなにも寝入っているダケちゃんを連れて行く気にはなれなかった。そんな自分が夜に単身外出したとして、果たして無事に帰って来られるのだろうか。我が身可愛さではなく何かあった場合に周囲に迷惑をかけるという恐怖感が、立ち上がりかけたファイツを引き留めた。誰かに迷惑をかけるのはもう嫌だった。ゆっくりと目を閉じる、果たしてどうするのが正解なのだろうか?

「…………」

目を瞑ったまま、ファイツは自分の為に怒ってくれたダケちゃんを思った。こんな自分に懐いてくれたフタチマルを思った。ホワイトの、ヒュウの、ペタシの、そして母親の顔を思い浮かべた。一番最後に浮かんだのは、眉間に皺を寄せた彼の顔だった。ファイツは閉じた時と同じく、ゆっくりと瞳を開いた。そして、自らの運命を決める一歩を踏み出した。