その先の物語 chapter B : 001
花舞う夜に
風が強い夜のことだった。ファイツはポカンと口を半開きにして、呆然とその場に立ち尽くしていた。いったい何がどうなっているのかがさっぱり理解出来なかったのだ。ドアノブに手をかけた状態で、眼前の光景をまじまじと見つめる。視界には半開きになった玄関のドアと、風に吹かれて靡く自身の髪の毛と、そして1人の男の人が映っていた。角度はきっちり45度、こちらに向けてそれはもう深々と頭を下げているのは、自分がついさっきまで頭の中に思い浮かべていた人物だった。つまりはラクツその人だ。「えっと……。その、ラクツくん……?」
顔を見るなり被っていたサンバイザーを取って、「すまなかった」と口にして。それから深く頭を下げたラクツに、ファイツは小首を傾げて話しかけた。だけど、彼は何も言わなかった。動かないのは口だけではなかった。45度の角度を保ったまま、彼はその場に立ち尽くしている。時折風が強く吹く所為で髪こそ靡いているものの、爪の先までしっかりと伸ばされた指はぴくりとも動かなかった。まさに完璧としか言いようのない、それは綺麗な礼だった。警察官として活動している所為なのだろうか。
「…………」
ラクツの所作に目を奪われていたファイツは、はっと我に返った。綺麗な礼だなどと、のんきに見とれている場合ではない。「すまなかった」と言った彼が口どころか指先すら動かさないのは、自分が何も言わないからだということにようやく気が付いたのだ。
「あ、あの……。……頭、上げて?」
わけが分からなかったことと気まずさから、おずおずと話しかける。すると、ラクツは声に応じて地面に向けていた顔を上げた。流れるようなその動作も、本当に綺麗だとファイツは思った。
「…………」
「…………」
顔こそ上げてくれたラクツだが、その口はしっかりと結ばれたままだった。相変わらず押し黙っているラクツを真正面から見つめながら、ファイツはどうしようと心の中で呟いた。やっぱりわけが分からなかった。
(何がどうしてこんなことになったんだろう……。えっと、確か……)
現実逃避をしたわけではないけれど、とにかく現状を整理したかったファイツは過去に思いを馳せた。そうだった。自分の部屋で散々思い悩んだ末に、ファイツは1つの道を選択したのだ。それは、フタチマル用のお菓子に使うきのみを採るのを朝まで先延ばしにすることだった。”善は急げ”という言葉通り、すぐに家を出ることも一度は考えた。だけどカーテンの隙間から見える黒色を何気なく見たファイツは、その考えを改めた。
”今すぐに家を出たら、きっとあたしは多くの人に迷惑をかける”。根拠も何もないけれど、そんな思いが脳内に浮かんだのだ。何故なのかは分からないけれど、そんな気がしてならなかった。もちろん、フタチマルに早くお菓子を作ってあげたいという気持ちは大いにある。だけど突如として湧いた、この確信めいた予感を捻じ伏せてまで採りに行く気にはどうしてもなれなかった。これが正しい選択なのかは分からなかった、そしてどうしてこんな考えが浮かんだのかも分からなかった。だけどとにかく、ファイツはきのみを採りに行くのを朝まで待とうと決めたのだ。
出発を朝まで延ばすと決めたまでは良かった。さりとて眠る気にもご飯を食べる気にもライブキャスターを見る気にもなれなかったファイツは、何をするでもなく部屋の中で物思いに耽っていた。玄関のインターホンが鳴ったのは、まさにラクツのことを思い浮かべていた時だった。自分がそれはもう酷い顔をしていることは、鏡を見るまでもなく理解している。無視してしまおうかとも思ったけれど、一定の間隔でピンポンピンポンと何度も鳴るチャイムに根負けして、のろのろと立ち上がった。正直言って出たくはなかったのだけれど、寝入っているダケちゃんを起こしたくはなかったのだ。こんな時間にインターホンを鳴らすのは、いったいどこの誰なのだろう。もししつこい訪問販売だったらどうしようと思いながら、ファイツは憂鬱な気分で玄関に向かった。そうなのだ、ドアを開くまでファイツは酷く憂鬱だったのだ。だけど玄関前に立っていた人物を見た瞬間に、その憂鬱な気分はすっかり吹っ飛んでしまった。
(……どうしてラクツくんがここにいるの?)
回想を終えたファイツは、浮かんだ疑問を改めて心の中で呟いた。どうして彼がここにいるのだろうか。それにどうして、彼は「すまなかった」なんて言ったのだろうか?自分が謝られる理由が特に思い浮かばなくて、ファイツは更に小首を傾げた。
「ど……。どうして、ラクツくんが……?」
あまりに混乱していた所為なのだろう。口から勝手に飛び出したのは、肝心の部分が抜け落ちた、何とも中途半端な言葉だった。だけど、ラクツは言いたいことをきちんと汲み取ってくれたらしい。「謝罪をしに来た」と言った彼は、眉根を寄せている。それきり口を噤んでしまった彼の顔色がかなり悪いことに、ファイツは今になって気が付いた。よくよく見れば、表情も酷く苦しそうだ。
「どうしてもファイツくんに謝りたかった。無礼は重々承知の上だ。……本当にすまなかった」
そう言うなりまたしても深々とした礼をしたラクツに、慌てて「頭を上げて」と告げる。すぐに告げた所為なのか、今度の礼はかなり短いものだった。けれど、やっぱりとても綺麗な礼だとファイツは思った。
(……って、そうじゃなくて!)
こんな状況だというのに、至極のんきなことを考え出した自分を一喝する。こんなことを考えてる場合じゃないでしょうと、ファイツは自分自身を𠮟りつけた。今しなければならないのは、彼との対話なのだ。
「だ、だからっ!どうしてラクツくんが謝るの?……あたし、わけ分かんないよ」
「ボクの発言についてだ。酷い言葉を投げかけただろう」
「…………」
その言葉で、記憶が色鮮やかに蘇る。脳内を急速に埋め尽くしたのは、数時間前の記憶だった。いつの間にか怖いと思わなくなっていたラクツのことを、怖いと思ってしまった。自分勝手な好意を押し付けていたという現実を受け止めたくなくて、ラクツの元から逃げ出した。重くのしかかる罪悪感から思わず目を伏せると、闇に浮かび上がる白い花が風に吹かれてゆらゆらと揺れているのが目に留まった。それに、履いている靴の紐も風の動きに合わせて揺れていた。
揺れ動いている物体を見つめながら、”何であたしはどうでもいいことに気を取られているんだろう”とファイツは心の中で呟いた。そうしてしまった後で、自分自身を内心で嘲った。何でだろうとわざわざ自問するまでもない。本当は分かっている、つまり自分は逃げているのだ。
「”キミといると迷惑だ”、と。ボクは告げたはずだ。……そうだったな?」
「う、うん……」
気まずさと居心地の悪さと、何より重い罪悪感を感じながら、ファイツはおずおずと頷いた。目線は未だに下に向けられたままだ。風に吹かれたことで、地面に落ちた数枚の葉がかさかさと音を立てていた。近くの木から落ちたのだろうか、花びらが音もなく宙を舞っているのが目に留まる。ひらひらと舞い踊る青い花びらの行く末を目で追いながら、どうしてあたしはこんなにも臆病なのだろうとファイツは内心で溜息をついた。夜遅い時間にわざわざ訪ねて来てくれたラクツは、こうして謝ってくれているというのに。対する自分はと言うと、彼ではなく花びらを眺めているという始末なのだ。
「その謝罪と、発言の訂正をどうしても行いたかった。あの言葉は、決して本心からのものではないんだ。虫の居所が悪くて、それで……」
ラクツの声は、実に真剣そのものだった。絞り出すようにして紡がれるラクツの言葉をぼんやりと聞きながら、相変わらず地面に視線を縫いつけていたファイツはまたもポカンと口を半開きにしていた。彼は今、ホテルの一室で”悪いことをした”と思い悩んでいたのだと言った。そして”謝罪を先延ばしにしていた”と、苦しそうな声で重ねて告げた彼の言葉を聞き取ったファイツの口は、更に大きく開かれることになった。
「…………!?」
現実からも彼からも逃げたいと思っていたことも忘れて、勢いよく顔を跳ね上げる。今の自分がラクツの目にどう映っているかということを気にするどころではなかった。
(嘘……。あのラクツくんが、あたしなんかのことで何時間も思い悩んでたなんて……)
ファイツは信じられないという思いでいっぱいだった。彼の言葉を耳にしてなお、彼の言葉が信じられなかった。聞き間違いで片付ける方が、ずっと受け入れやすかった。ファイツはそう思ったが、だけど現実はそうではないらしい。彼がファイツ自身のことで思い悩むだなんて、それだけは絶対にないと思っていたのに。
「もっと早く、ボクはここに来るべきだったんだ。本当に……」
「も、もういいよ!そんなに謝られたら、却って困っちゃうよ!」
「だが、ボクは……」
ぼんやりしている間にも謝罪が続いていることにようやく気が付いたファイツは、彼の言葉を遮った。だけど納得しきれていないのか、ラクツが相変わらずの表情で異を唱えた。このままだと、彼による謝罪スパイラルが始まりそうだ。堪らなくなったファイツは、「いいの」と何度も強く言い張った。それは事実だった。ラクツの”迷惑だ”発言でそれはそれは打ちのめされていたファイツだけれど、今となっては些細なことだと思えた。
「そ、そんなことより……っ。謝らなくちゃいけないのは、あたしの方だと思うんだけど」
「……何故キミが謝るんだ?」
ラクツは、わけが分からないという顔付きをしていた。彼にしては珍しい、歳相応の顔付きだ。そんな彼をとうとう真正面から見返して、ファイツは大きく息を吸った。
「だって……。だって、あたしはラクツくんから逃げちゃったんだもん。ラクツくんを置いて、現実から目を背けたんだもん。独り善がりの気持ちを、ラクツくんに押し付けちゃったんだもん。……あたしの方こそ、本当にごめんなさい」
そう言ってから、しっかりと頭を下げる。ラクツのそれとは比べ物にならない礼だけれど、自分なりに気持ちを込めたつもりだった。すぐに「頭を上げてくれ」と乞われたから、ゆっくりと頭を上げる。その声がどこか狼狽えているように聞こえたのは、ファイツの思い違いなのだろうか?
「キミが謝る必要はない」
「……じゃあ、ラクツくんが謝る必要もないよ」
「そうだろうか。キミはそうでも、ボクには当てはまらないと思うんだが」
「そんなことないもん!それを言うなら、あたしだって……!」
拳を握って強く言い張ったファイツは、はたと我に返った。こんな場所で、こんな時間に、こんなに真剣に。お互いに”謝ることはない”、”悪いのは自分だ”と言い続けているのだ。お互いに大真面目に言い合っていることが、何だかとてもおかしかった。
「……ね。じゃあ、おあいこってことにしようよ」
「あいこ?」
「うん。あいこ。……ダメ?」
縋るような目を向けると、しばらく押し黙っていたラクツは「分かった」と答えた。そんな彼に微笑んでみせたら、困ったように微笑み返されたから。だからファイツはにっこりと笑みを深めた。絶対に見間違いではない。顔色こそ悪かったけれど、今の彼は確かに微笑んでいた。そのことが、何だか無性に嬉しかった。感慨に耽っていたファイツを現実に引き戻したのは、くうという小さな音だった。それは紛れもなく、自分のお腹から鳴る音で……。
「…………」
「…………」
沈黙がこの場に満ちた。大いに気まずさを覚えたけれど、それは昼間の時のような重苦しいものではなかった。いや、実際にはものすごく恥ずかしかったのだけれど。男の人にお腹が鳴った音を聞かれるなんてと、気恥ずかしさから瞬く間に顔が赤くなる。もう恥ずかしくて堪らなかった。眉根を寄せているラクツが笑わないでいてくれたことが、恥ずかしさに拍車をかけた。こんなことなら、笑い飛ばしてくれた方がまだ良かった。
「……こんな時間にすまなかったな。ボクはもう帰るから」
そう言って踵を返したラクツの肘を掴んだのは、ほとんど無意識だった。「どうした?」と言って肩越しに振り返った彼の瞳を見つめながら、ファイツはおろおろと狼狽えていた。どうしてラクツを引き留めたのかが分からなかったのだ。自分のことなのに、まるで分からなかった。慌てながらも小首を傾げたファイツは、はたと閃いた。
「良かったら、ラクツくんも一緒に食べない?」
「…………は?」
「あの!だ、だから、夜ご飯……っ」
こちらを見つめているラクツは、絶句している。ファイツはそう思えてならなかったのだけれど、発言を撤回しようとは思わなかった。彼も自分と同じくご飯を食べていないのではないだろうか。ほとんど思いつきだけど、そんな確信めいた考えが浮かんだからだ。
「その……。お腹、空いてるんじゃないかって……」
「いや、ボクは……」
「ダ、ダメかなあ?……何だか、ラクツくんともっと一緒にいたくて……。あれ?あたし、何言ってるんだろう……」
ファイツは呆然と呟いた。本当に、自分はいったい何を言っているのだろうか。お腹が鳴った音を聞かれた時とは比べ物にならないくらい、顔に熱が集まっているのをぼんやりと感じ取る。さっと目線を逸らしたファイツの視界に映ったのは、風に吹かれる青い花びらだった。長い長い沈黙がラクツの承諾によって破られるまで、顔を赤くさせたファイツは青い花びらを意識的に見つめ続けていた。