その先の物語 chapter B : 002
微笑みの爆弾
「……そうなの、あたしったら全然気付かなくて……。本当にごめんなさい……っ」”ごめんなさい”を何度も口にしている娘が、ライブキャスターに向かって何度も何度も頭を下げている。壁を背にしたラクツは、その様子を遠目から眺めていた。万が一にも通話相手からは絶対に見えない角度だ。男の自分が異性であるファイツの家を訪れているというのは、普通ではないことなのだ。ないとは思うが、このことが相手にバレたら面倒極まりないことになる。
(これで5回目か。……謝罪が過剰だな)
先程といい今といい、今日の彼女は謝ってばかりだ。他でもない自分自身が関わっている前者は言うまでもないが、後者に関しても謝り過ぎだとラクツは思った。そんな思考を抱いているうちにまたしても謝罪の言葉が聞こえて来て、内心で嘆息する。この短時間で通算6回目、どう考えてもこれは謝り過ぎだ。あまりにもぺこぺこと頭を下げる所為で、彼女の髪がその動作に合わせて揺れている。毛先まで艶めいている髪が右へ左へと揺れる様を、ラクツは何も言わずに見つめていた。その動きはしなやかだ。よく手入れされている髪だ、とラクツは思った。
「うん、うん……っ」
こくこくと頷くファイツの背中が丸まって見えるのは、多分気の所為ではないだろう。それに加えて”ごめんね”ではなく”ごめんなさい”と言う辺りに、彼女がかなりの罪悪感を抱いているであろうことがしっかりと表れている。そうこうしているうちに7回目の”ごめんなさい”が聞こえて来たことで、ラクツは眉をひそめた。このままの勢いだと、通話が終わるまでに二桁に突入するのではないだろうか。
「……そんな、何言ってるの!?ヒュウくんが謝ることないよ!」
会話の流れなのかファイツの口から通話相手の名が飛び出したが、ラクツは何も思わなかった。”ヒュウくん”という単語を彼女が口にした結果として、得も言われぬ黒い何かに酷く揺さぶられたのは記憶に新しい。あれから数時間が経過しているとはいえ、それと同じことが目の前で起こっているというのに、今は不思議と何も感じなかった。端的に言えば彼の存在に気を回すどころではなかったのだ。何せラクツは、今もなお混乱と驚愕の渦中にいるのだから。
(……またか)
多分、混乱と驚愕の渦中にいると考えたことがいけなかったのだろう。とある光景がまたしても脳内に蘇ったことで、深く溜息をつく。それは今から5分程前のことだった。”ラクツくんともっと一緒にいたい”、などと。ファイツが口にした音の羅列が、そして同時に顔を赤らめながらそう口にしたファイツの姿が、脳内に焼き付いて消えてくれないのだ。どくんどくんと心臓の音が鳴り響いてうるさくて、顔が燃えるように熱くて、何より胸が苦しくて。左手で心臓の辺りを押さえたラクツは、思い切り眉毛を寄せた。
彼女の爆弾発言を耳にした瞬間の衝撃と言ったら、それこそ言葉では言い表せない程のものだった。それに比べれば、ヒュウの名前をあの娘が口にしたことなど些事でしかない。自分でなければ誤解を生みかねない言葉を口にしたファイツは、相変わらずの低姿勢で「ごめんなさい」と言い続けている。彼女が次に発する言葉が何なのか、ラクツには分かるような気がした。
「……もうっ!だから、”ごめんね”はあたしの方だよ!ヒュウくんがそんなに謝ることないんだってば!……え?えっと……。じゃあ、あいこってことでもいい?」
予想は的中した。聞き覚えのある音を言い連ねたファイツの声をどこか遠くで聞きながら、ラクツはぼんやりと思考を続けた。一刻も早く本来の自分に戻る手立てを考えること、それが最優先事項なのだろう。何せ一時は収まったとはいえ、ここにいる自分は延々とあの娘のことを考えているのだ。もしかしたら永遠にこのままなのかもしれない、そう思うと眉間の皺は自然と深くなった。数分程度ならまだしも、いつまで経っても治らないというのは些かまずい。いや、”些か”どころかかなりまずい。彼女は今こちらに対して背を向けている上に通話に集中している関係で、自分の顔が赤くなっていることには絶対に気付かれないとは思う。だけどそれでも、彼女が次の瞬間にこちらを見ないという保証はどこにもありはしないのだ。息苦しさや心臓の鼓動はどうにか隠せても、赤面までは隠し通せる気がしない。そう思わざるを得ない程に赤面していることは、他でもないラクツ自身が一番よく知っていた。
『……で、だ。お前、ラクツに何かされたんじゃねえだろうな』
「……え?い、いきなりどうしたの……?」
『とぼけるなよな。お前の目、すげえ腫れてるじゃねえか。まさかとは思うけど、ラクツ絡みでそうなったのか?』
ヒュウのことなんぞ気にも留めないばかりか発した言葉すら碌に聞いていなかったラクツだが、ここに来て初めてヒュウに気を取られることとなった。彼の口から自分の名が出た所為なのだろう。そんなどうでもいいことを思いながら、ラクツは背を向けたままのファイツを見つめ続けた。更に背中を丸くさせたように見える彼女からは、ありありとした緊張感が滲み出ている。それは素直な性格をしている彼女は、果たして何と答えるのだろうか。
「その、えっと……。ち、違うよ!ラクツくんは関係ないの!」
最悪の事態は避けられたとはいえ、ものの見事に言い淀んだファイツに聞こえないくらいの小さな溜息を送る。うっかり肯定しなかっただけマシだが、もう少しごまかしようがあったのではないだろうか。不審に感じたのはヒュウも同じだったようで、自分とは対照的に遥かに大きく息を吐き出しながら『本当かよ』と呆れ混じりに言っていた。彼に疑われていることをファイツも察したようで、わたわたと大袈裟に腕を動かしていた。
(何をやっているんだ、あの娘は)
せっかく言葉だけでも否定したというのに、あれではごまかした意味がまるでないではないか。ヒュウに倣ってラクツもまた盛大な溜息を送りつけたい気分になった。しかしそれは出来ない、到底出来るわけがない。そんなことをすれば、自分の存在をヒュウに気付かれる羽目になるかもしれない。
「えっと、あの……。え、映画を観てたの!もうね、すっごく感動したんだから!それで、思いっきり泣いちゃって……。そう、そうなの!」
思い切り上擦ってはいるけれど、ファイツは自分がいることを何としても隠し通すつもりでいるようだ。どうやら最悪の事態は避けられそうだと、ラクツは内心で先程とは別種の溜息を吐き出した。『そうかよ』と言ったヒュウも内心では気付いているのだろうが、それを指摘しないのは彼の優しさなのだろう。そう考えた直後に痛みが走って、ラクツは心臓の辺りを押さえた。いったいこれは何なのだろうか。
「うん、だからねっ!……うん、心配してくれてありがとう。……それじゃあ、おやすみなさいっ!」
得体の知れない胸の痛みに当惑しているうちに、ヒュウとの通話は終わりを迎えたらしい。ライブキャスターのボタンを押したファイツが、ぺたんと床に座り込んだ。
「うう……。き、緊張したよう……っ」
「随分と大袈裟な溜息だな」
「だって、本当に緊張したんだもん!」
ファイツが勢いよく振り返って、「だって」と反論する。涙目になった彼女の顔を見た瞬間に、ラクツの心臓は激しい音を立てた。おまけに、顔が燃えるように熱い……。
「……っ」
「ヒュウくんには思いっきり嘘ついちゃったし、ラクツくんのことがバレるんじゃないかってずっとびくびくしてたし……。……あれ?ラクツくん?」
「…………」
こちらの様子を訝しんだのだろう、不思議そうに小首を傾げたファイツがゆっくりと立ち上がった。一歩一歩近付いて来る彼女は、それは眉根を寄せている。
「ど、どうしたの?熱でもあるの……?」
顔が赤いよとは言われなかったものの、後半部分に付け加えられたその言葉で赤面している事実が彼女に伝わってしまったことを察する。危惧した事態が起きたのだ。ファイツと至近距離で向かい合ったラクツはどうしたものかと思案したが、どういうわけか考えが上手くまとまらなかった。
「いや……。体調不良ではない、と思うが……」
苦しい息の下で途切れ途切れに告げる。ある意味では体調不良なのかもしれないが、それを馬鹿正直に告げようとは思わなかった。素直なファイツは素直に騙されてはくれなかったようで、未だにぐぐっと眉根を寄せている。どこまでもまっすぐな目線から逃れるように、ラクツは顔を下へと向けた。
「本当に大丈夫なの?」
「ああ」
「ご飯、食べられそう?」
「……ああ」
「良かったら、あたしの家に泊まる?」
「…………は?」
激しく高鳴る心臓の鼓動と息苦しさと、そしてこれ以上にない程の赤面と。三重苦に耐えていたラクツだったが、紡がれた言葉に目を見開いた。思わず顔を上げると、相変わらず眉根を寄せたままの娘と目が合った。そんな彼女の顔は、自分に負けずとも劣らない程に赤く染まっている。
「…………」
「…………」
沈黙を破ったのはラクツの方だった。冗談なのかと訊いたら、彼女は首を横に振った。まさか本気で言っているのかと訊いたら、今度はこくんと頷かれた。
「だって、ラクツくんが心配だし……。もしかしたら、ホテルに帰る途中でまた倒れちゃうかもしれないでしょう?…………それにやっぱり、ラクツくんともっと一緒にいたいなって思ったから……」
最後の方は、ほとんど消え入りそうな声だった。警察官として鍛えられた耳はこんな時でも機能したようで、ラクツは何を言われたのかをしっかりと理解していた。しかし、理解はしても受け入れられるものではなかった。千歩譲って食事だけならまだしも、”泊まる?”は問題発言以外の何物でもない。一夜のうちに複数の爆弾発言をした娘をまじまじと見つめる。恥ずかしそうに顔を赤らめているファイツは微笑んでいたが、そのうちに口元をさっと指で押さえた。気恥ずかしさがピークに達したのだろう。
「ファイツくん」
彼女の手の平が血で汚れていることに今になって気が付いたラクツだったが、そのことを悠長に指摘する気にはとてもなれなかった。今指摘するべきことは、断じてそれではない。
「そういうことは、軽々しく言わない方がいいと思うぞ」
「軽々しくなんかじゃないよ。すっごく恥ずかしいけど、ラクツくんと一緒にいたいって本気で思ったんだもん……」
「何でなんだろうね?」という言葉で会話を締め括った彼女に、ラクツは盛大な溜息を送りつけた。”どうして”なんてこっちが訊きたい。訊かなかったけれど、他の男にもこんな軽率な発言をしているのかと訊きたい。怪我人でも病人でもない男に対してするものでは断じてない発言をしたことを、本当に理解しているのかと訊きたい。自分だから良かったようなものの、これでは襲ってくださいと言っているようなものだ……。
「…………」
そんな思考をした瞬間、ラクツは愕然とした。爆弾発言をされた時と同じくらいの衝撃だった。そういう目でこの娘を見たことなんて、今まで一度だってなかったのに。だけど今は、彼女の胸元に自然と目線がいくのだ。恥ずかしそうに、けれど不思議そうに小首を傾げたファイツの、男にはない2つの膨らみが豊かであるという事実。それに気付いてしまったラクツは硬直した。しつこいようだが、そういう目で彼女を見たことなんてただの一度だってなかったのだ。
「……ラクツくん?」
そんな自分の動揺をまず間違いなく知らないであろう彼女が、この期に及んで「本当に泊まらなくていいの?」と尋ねて来たから。だからラクツは、あまりにも無防備な彼女に向けて、それは深い深い溜息をついた。