その先の物語 chapter B : 003

危ういこの娘
感情を理解する機能を始めとした人間であれば通常備わっているはずのものが、自分には色々と欠如している。それだけではなく善悪すらも基本的には理解出来ない自分は、どう解釈しても普通ではないのだろう。その自覚は大いにあるラクツだったが、倫理観という名前のそれが完全に欠如しているわけではなかった。あくまで基本的には理解出来ないだけで、何事にも例外というものは存在するのだ。例えばフタチマルが自分の行いで気分を害したとしたら素直に謝るし、元プラズマ団の少女を手錠で拘束した時に口にした「すまない」という言葉は本心からのものだった。任務遂行の為なら人権を侵害してもいいと教わっているものの、一線を超えるどころか過度な暴力を奮ったことすら一度たりともないわけで。自分の中にあるそれが世間一般からするとかなりずれているのかもしれないけれど、ラクツは自分なりの倫理観をきちんと持ち合わせていたりするのだ。
そんなラクツは先程の行いに対して、つまりは邪な目でファイツを見てしまったことに対して、”この家から直ちに辞去するべきだ”という結論を出した。こんな自分ですら眉をひそめるような発言を彼女がしたという事実と、今が夜遅い時間帯であるという事実。更にはファイツが性的に魅力的である娘なのだと本能的に理解してしまったという事実。これら3つの事実は、ラクツに警鐘を鳴らしていた。ないとは思うが、このままでは大なり小なりの性的な行為を強いる可能性がある。考え過ぎだと、杞憂だと思いたい。だけど絶対にしないとは言い切れない。何せ自分は男で、そしてファイツは女で、更には無防備にも程がある娘なのだから。そんな結論に至ったラクツは顔を歪めたものだった。同意もないのにそういう行為に及ぶのは、歴とした犯罪だ。したいかしたくないかではなく、してはいけないことだと理解していた。そう思えるのは、自分が警察官だからなのだろうか。
とにかく、”そういう”目でこの娘を見てしまった以上は一刻も早くこの家から辞去するのが正しい選択なのだろう。変わることのない結論を出したラクツだったが、結局その考えを実行に移すことはなかった。とはいえ、何もしなかったわけでは決してない。事実として、ラクツは軽率にも程がある彼女に向けて「すぐにホテルに帰る」と告げたのだ。そんなラクツが今もなおファイツ宅に留まっているのかといえば、それは偏に根負けしたからだ。帰ると告げた途端に泣きそうになった彼女を見ていたら、何故だか嫌な予感がしてならなくて。気が付いたら、ラクツは「分かった」と口走っていたというわけだ。それは完全に無意識下で出た言葉で、発言を後悔した時には既に手遅れだった。今の今まで泣きそうになっていたことを微塵も感じさせないような、花が綻ぶような笑顔で。それはもう嬉しそうにしている彼女を目の当たりにしたラクツは、「発言を撤回する」と告げるのを諦めた。要は、自分自身を律すればいいのだ。

「待たせちゃってごめんね、ラクツくん……っ」

その声で、物思いに耽っていたラクツは思考を中断させた。家の主がリビングに戻って来たのだ。はあはあと息を切らして、例の如く頭を下げながらやって来たファイツが持っているのは救急箱だ。ファイツは当初、「本当にホテルに帰っちゃうの?」と懲りずに言い放った。つまりは暗に泊まることを勧めて来たのだ。間違いなく純度100%の善意から生まれたであろう言葉を、ラクツは即座に却下した。それでも当初の予定通り、食事だけはしていいかと尋ねたら、落ち込んでいた彼女は「急いで作っちゃうから待っててね」と意気込んだ。そのままの勢いでキッチンに向かったファイツを途中で制止して、ラクツは救急箱を持って来るように言い渡したのだ。料理より先に、やるべきことがあるだろう。そう告げたらファイツはわけが分からなかったようで、不思議そうに小首を傾げて来た。何気ないその仕草に、抑えなければと必死に言い聞かせていたはずの”何か”が鎌首をもたげたのは記憶に新しい。数秒間の葛藤の末にどうにか封じ込めたラクツは「手の傷を手当てするから」と、改めて言い直したのだ。

「あ、あの……。あのね……っ。ごちゃごちゃしてるのは救急箱だけでね……!だから、その……。全部が全部、散らかってるわけじゃなくて……!」

押し問答に敗れたファイツがこう切り出したのは、救急箱の中身が一目で乱雑だと分かるからだろう。包帯やら薬箱やら、更には綿棒が入った箱やらが、それぞれ未開封の状態で無造作に突っ込まれている。彼女の性格を思うと意外としか言えない光景だったが、多分忙しかったからなのだろうなとラクツは勝手に当たりをつけていた。

「ただ、その……。疲れてて……。それで、ずっとそのままにしてて……」
「分かっている。キミは多忙だからな。それより、早く右手を出してくれ。指示通りに水で洗い流したか?」
「う、うん……。綺麗なハンカチで水気も拭き取ったけど……」
「そうか。思った以上に傷も浅いし、手当ても最小限で済むな」

おずおずと伸ばされた右手に、そっと触れる。途端に心臓が激しく音を立てたが、ラクツは素知らぬ顔を貫き通した。

(余計なことを考えるな)

絶対に胸元を見ないようにしながら、心の中でそう何度も言い聞かせる。それが功を奏したのか、時間こそかかったものの鼓動が落ち着いたことを感じ取る。意識を切り替えたラクツは、爪の形をしている血で汚れてしまっている彼女の手の平に、救急箱から取り出した絆創膏を貼り付けた。赤いハートが書かれているそれは、自分なら絶対に買わないデザインだ。

「よし、これで完了だ。後は自然に傷が治るのを待ってくれ」
「…………」

そう告げても、ファイツは動かなかった。右手を伸ばしたまま、ポカンと口を半開きにしている。

「えっと……。その、ありがとう……。でも、これで終わりなの?」
「その通りだが、どうした?」
「あ!その、消毒液は使わないのかなあって……」
「使わないぞ。必要な細胞まで消毒してしまうからな」
「そう、なんだ……。あたし、何でもかんでも消毒すればいいのかなって思ってた……」
「まあ、昔はその説が主流だったようだがな。……さて、ファイツくん。ボクは何をすればいい?」
「はえ?」

またしても小首を傾げたファイツは、実に不思議そうにしていた。脈絡もなく何をすればいいかなどと訊いたのだから無理もないが、もっと察しが良くても罰は当たらないのにとラクツは思った。この娘に過去に感じたガードの固さも、そしてこちらの正体を見抜いた察しの良さも。そのどちらともが、今となっては綺麗に消失している。

「こんな時間だからな、夕飯の支度を手伝うと言ったんだ。一応断っておくが、大したことは出来ないぞ」
「え!?そんな、いいよ!だって、ラクツくんに悪いもん……っ!」
「ボクは別に構わない。……というより、本音を言えばそうさせて欲しい」
「あたしはいいけど……。でも、どうして?」
「ん?……いや。ダケちゃんがボクに気付く前に食事を済ませたいだけの話だ。それに、キミは危なっかしい娘だからな」

告げた言葉に嘘偽りはないが、この娘のことだ。”危なっかしい”に込めた本当の理由には絶対に気付かないに違いない。予想通り「酷いよ」などという抗議の声が背後から聞こえて来たが、ラクツは聞こえない振りをした。