その先の物語 chapter B : 004
クッキング・パニック
”キミは危なっかしい娘だから”と、ラクツは事も無げにそう言った。さらりと告げられた言葉を脳内で呟いたファイツは、情けなさと恥ずかしさからそっと溜息をついた。まな板の上に転がっているにんじんの輪郭がぼやけて見えるのは、断じて気の所為ではない。恥ずかしさと悔しさと悲しさと情けなさ。色々な感情がごちゃ混ぜになって、何だか涙が零れそうだった。(はっきり言われちゃったよ……。分かってたけど、やっぱりショック……)
自分でも実に不名誉だと思うが、そういう類の言葉を他人に告げられたことはこれが初めてではない。基本的には優しいものの意地悪なところもあるヒュウならまだしも、優しくて温和なペタシにすら同様の言葉をやんわりと投げかけられた時はかなりの恥ずかしさを感じたものだった。指摘される対象は、同い歳の男の子のみならず歳上の先輩にまで及んでいた。それは、仕事中に何もないところで無様にも転んでしまった時のことだった。例によってやっぱり優しいホワイトにまで、「ファイツちゃんっておっちょこちょいよね」と言われてしまったのだ。もちろん、ホワイトには悪気などなかったであろうことは理解している。だけどくすくすと笑っている先輩の姿を目の当たりにしたファイツは、恥ずかしさのあまり涙を零しそうになった。困らせるだけだと分かっているから、実際には泣かなかったのだけれど。
(あたしって、どうしてこんなにドジなんだろう……)
何度も口にした言葉を、声に出さずに独り言ちる。どういうわけかそう指摘されてしまうのだけれど、あくまでファイツは真剣そのものなのだ。だけど時々、いやかなりの頻度で”ドジ”だとか、”おっちょこちょい”だとか、そういう類の言葉を投げかけられてしまうのは本当に何故なのだろうか。自分がドジだという自覚はある。だからこそ、改めて他人に指摘されるというのは辛いことだった。これでも自分なりにドジを踏まないようにしようと日々気を付けているのだが、改善される兆しは一向にない。またしてもそういう言葉を告げられてしまったという事実が、辛さと情けなさに拍車をかけた。
つい今しがたのことだった。ラクツに面と向かって”危なっかしい”と言われたファイツは、現在進行形で落ち込んでいた。口でこそ「酷いよ」と文句を言ったが、ファイツ自身本気でそう非難しているわけではなかった。これから料理をするというのに、曲がりなりにも血が出ているというのに、手当てをするのを忘れていたわけで。多分そんな自分を見かねたであろうラクツに「手当てをするから」と言われるその瞬間まで、右手を怪我していることを綺麗さっぱり忘れていたくらいなのだ。いや、傷付けたのは他でもないファイツなのだけれど。
ともあれ、悲しいことに自分がドジな娘であるというのは覆しようのない事実なのだ。だけど、事実だからと言って何も感じないでいられる程ファイツは図太くなどなかった。今が料理中でなければ盛大に嘆いていたところだ。そう断言出来るくらいに落ち込んでいることが自分でも分かって、そっと目を伏せる。言葉こそ微妙に違うものの、ヒュウやペタシ、果てはホワイトにまでドジだと指摘される。もちろんそれ自体が辛いことなのだが、とりわけラクツに指摘されるのが一番辛かった。現実逃避をしているわけではないけれど、絶賛落ち込み中のファイツは目の前のオレンジ色をした物体をぼんやりと見つめながらどうしてだろうと小首を傾げた。どうしてラクツに”危なっかしい”と言われただけで、涙が出そうになる程落ち込んでしまうのだろうか。それが、どうしても分からなかった。
(ラクツくんがすごくしっかりした人だから、なのかなあ……)
ラクツに対してどんな印象を抱いているのかと問われれば、まず最初に挙げられるのがその真面目さだった。少なくとも自分はそうだ。ヒュウやペタシを始めとした、トレーナーズスクールでのラクツしか知らないクラスメイト達が仮に知ったらそれはそれは驚かれるだろうが、とにかく真面目な人というのが彼に対して一番強く感じる印象だった。その次に印象として挙げられるのが、”しっかりしている人”とか”落ち着きのある人”辺りだろうか。もっともそうでなければあの歳で警視なんてとても務まらないだろうから、ある意味では当然だと言えるのかもしれないけれど。とにかくラクツという人は、同い歳とは思えない程にしっかりしていて、落ち着きのある人なのだ。そう、自分とは真逆な程に。そう考えてしまったファイツの唇から、意思とは関係なく吐息が漏れた。
(そっか……。あたし、ラクツくんとあたし自身を比べてるんだ……)
自分が知っている他の誰よりも、ラクツがしっかりしている人だと考えていて。そしてそんな人が今は自分の傍にいて、おまけに自分がドジだからこそ。だからこそ、彼と自分を比べてしまっているのだろう。そんな結論に至ったファイツはまたしても息を吐くと、いつまで経っても形の変わらないにんじんを意味もなく指で弾いた。分かっている、これはちょっとしたやつあたりなのだ。彼と自分が違う人間である以上は比べても無意味だし、だいたい自分と比べること自体がラクツに失礼だ。それなのにどうして比べてしまったのだろうと思ったファイツは、先程よりも強くにんじんを弾いた。まな板の上に横たわっていたにんじんが、その勢いでころころと転がっていく……。
「ファイツくん」
「……はえ?」
完全に意識をにんじんに向けていたファイツが我に返ったのは、その直後だった。気付けば肩越しに振り返ったラクツが、こちらをまじまじと見つめているではないか。左手に金属で出来たへらと、右手に黒いフライパン。それぞれ調理器具を手にした彼の顔には、深い皺が刻まれているのがはっきりと見て取れる。その光景で、彼方に飛んでいたファイツの記憶が瞬く間に蘇った。そうだ、確かラクツは野菜炒めと、ハンバーグの焼成を担当してくれていたはずだ。そしてにんじんを切るのは自分の役目だったはずだ。改めて眼前の野菜に目を通す、丸のままのにんじんには切れ目の1つすら入っていなかった。それどころか皮すら剥いていなかった。今更だけどファイツは慌てた、それはもう大慌てだ。急いで作るねなんて意気込んだのは他でもない自分なのに、いったい何をやっているのだろうか。すぐに切るからと言って、ファイツは猛烈な勢いでにんじんを刻んだ。直前まで自覚していたのにも関わらず、結局皮を[D:21085]いていないことに気付いたのは作業が終わった後だった。やっちゃったと失態を嘆いたファイツの耳に、またしてもラクツの声が飛び込んで来た。
「ど、どうしたの?」
「いや……。先程からずっと、ボクはキミを呼んでいたんだが……」
「え……?……嘘!?」
反射的にファイツはそう叫んだ。ずっと呼ばれていたなんて寝耳に水だ。我に返った今はともかく、ぼんやりしていた時は声どころか音すらまったく聞こえなかったのだ。信じられないとばかりに彼を見つめると、更に深い皺を刻んだラクツが溜息をついた。その態度から自分が呆れられたと直感したファイツは、慌てて頭を下げた。本当に自分は勝手な娘だ。こんな時でも呆れられたなどと、自分のことばかり考えている。
「ご、ごめんなさい!」
今日は謝ってばかりだと思いながら、何度も何度も頭を下げる。今日だけで、一生分は謝ったような気がしてならない。心に浮かんだのは自分に対する激しい嫌悪感だ。それは酷く落ち込んでいたからというのは確かな事実だが、文字通り何もしないで突っ立っていただけではないか。こんな風にぼんやりしているから、面と向かって危なっかしいと言われてしまうのだ。役立たずを通り越して、ただただ迷惑をかけているだけのような気がする……。
「本当にごめんね、あたしったらぼんやりしてて……っ!」
何を言えば赦してもらえるのだろうか。いや、そもそも自分はお客さんであるラクツに料理を最早丸投げしてしまったのだ。これはどうあっても赦してもらえないような気もする。そんなことを考えながら、ファイツはそれでも頭を下げ続けた。実に勝手な言い分だが、出来れば赦して欲しいというのが本音だった。しかし、耳に飛び込んで来たのは思ってもみない言葉だった。
「いや。謝るのは、ボクの方だと思う。すまないな」
「……え?」
「……焦がした」
眉根を寄せたラクツが、簡潔にも程がある言い方で会話を締め括った。その言葉に導かれるようにしてフライパンを覗き込んだファイツの目に映ったのは、黒焦げの何かだった。焦げ具合は生半可なものではなく、元が何の食材だったのかがファイツ自身ですら分からない程だった。辛うじて分かるのはピーマンくらいで、それすらもほんの一部分という有様だ。鼻につく臭いがキッチン中に立ち込めていたことに今更気付いたファイツは、硬直しながら困り果てた。こういう時、いったい何を言えばいいのだろう?
「……すまない、焦がしたのはこちらもだ。更には形が崩れた」
黒焦げの何かが入っているものとは別のフライパンを、おそるおそる覗き込む。黒焦げになっている何かの正体は、記憶が正しければハンバーグだったはずだ。しかしどうしてこうなったのか、今や原型がない程に崩れている上、中は見事に生焼けだった。
「あの、えっと……。……うん、こういうこともあるよね」
しっかりしていると思っていたラクツが見るからに困っているというのは、珍しいことだった。煙が目に染みたことと後片付けを考えてしまったことで内心で涙目になったファイツは、眉根を寄せた彼に向けて大丈夫だよと言った。