その先の物語 : 039
引き金
片手を曖昧に上げて、「じゃあな」と挨拶を交わしたヒュウと。彼とは対照的に、ぶんぶんと両手を振ったペタシが遠ざかって行く。人混みに紛れた2人の背中が、段々と小さくなって行く。2人の姿が曲がり角の向こうに消えた瞬間に、ファイツははあっと深い溜息をついた。「……行ったね」
「ああ」
ぽつりと呟いたファイツは、また深い溜息をついた。ヒュウとペタシは大事な友達なのだけれど、同時に2人と離れられたことでホッとしている自分がいることも事実だった。
(良かった……。やっと行ってくれたよ……)
そう、これがファイツの本音だった。友達に対してこんなことを思うのはあまりにも失礼だということはよく分かっている。だけど、ファイツとしてはそろそろ限界だったのだ。何せこの数時間、ボロが出ないようにずっと気を張っていたわけで。もちろん久し振りにヒュウやペタシとお喋り出来たことや、美味しいケーキを食べられたこと自体はとても楽しかった。けれどどちらかというと、この数時間は自分にとって気疲れする時間だったと言える。その要因の一つである彼を、ファイツは何も言わずにちらりと見やった。
「……どうした?」
視線を向けてから間を置かずに返って来た問いかけに、ファイツはまたしても息を吐き出した。それが安堵から出た溜息であることは言うまでもない。ヒュウとペタシが背を向けた時点では確かににこにこと笑みを浮かべていたはずのラクツは、いつのまにか無表情に戻っていた。おまけに眉間の皺も復活している。それは共に日々を過ごすうちに、すっかり見慣れてしまった彼の姿だった。ヒュウとペタシは知らなくて、自分は知っているラクツが帰って来たのだ。”ああ、良かった。いつものラクツくんだ”。そんな言葉を声に出さずに呟いて、ファイツは「何でもないの」と返した。彼が元に戻ってくれたということはつまり、彼が演技を止めてくれたということなのだ。そのことが、何だか無性に嬉しかった。
「何だ、その忍び笑いは」
「え?……あたし、今笑ってた?」
「ああ。忍び笑いというには大き過ぎる程にな。また思い出し笑いか?」
腕組みをしつつポケモンセンターの看板に寄りかかったラクツは、どう見ても呆れていた。自分としては笑ったつもりはなかったのだけれど、どうやら彼によると思いっきり笑っていたらしい。恥ずかしいからごまかそう。反射的にそう思ったファイツは、だけど唇を開いた。下手に隠し立てしたところで、多分ラクツ相手では無意味な結果に終わるだけだろう。
「思い出し笑いっていうか……。あのね、ホッとしたの」
「何故だ?」
「だって。ラクツくんが、ラクツくんだったんだもん」
「…………」
この場に沈黙が流れた。痛い程の沈黙だった。その重みに耐えられなくなったファイツがおずおずと隣を見ると、彼としっかり目が合った。やっぱりと言うべきなのか、ラクツはそれはそれは呆れた顔をしている。ヒュウやペタシと話していた時には、欠片も浮かべなかった表情だ。
「えっと……。ラクツくん?」
「キミの意味不明な言動には、ある程度慣れたつもりだったんだが。ファイツくん、キミは熱でもあるのか?キミの頭の中を覗いてみたいとこれ程強く思ったのは、これが初めてだ。いったいどういう思考回路をしているんだ。まさかキミは、ここにいるボクが偽者だと思っているのか?」
「ち、違うもん!そういうわけじゃなくて!ただ、ラクツくんがいつものラクツくんに戻ってくれたから、とにかくホッとしたの!」
彼に呆れられるのはよくあることなのだけれど、それでも好き好んで呆れられたいわけではない。ファイツはただ、ラクツと普通に話したいだけなのだ。だけどよくよく振り返ってみれば、今の発言では言葉が足りていないことも事実だったから。だから、それに関しては反省しなくちゃとファイツは思った。ラクツくんがラクツくんだったなどと告げられても、彼の立場になって考えてみれば確かに意味不明だろう。身振り手振りも加えて説明すると、ラクツは納得がいったらしく、「なるほど」と返した。
「いつものことだが、キミは言葉が足りていないな」
「うう……。そう、なんだよね……。これでも、自分では気を付けてるつもりなんだけどな……」
「気を付けている?どこがだ」
ラクツの言葉はこれ以上になく辛辣だった。ファイツは酷いと思ったが、まったくもって彼の言う通りでしかなかったので反論はしなかった。その代わりに、がっくりと肩を落とす。
「いつまでそうしているつもりだ。帰るぞ」
「……うん」
頭上から降って来る声に同意して、のろのろと顔を上げる。ラクツの言葉によって追い打ちをかけられたのは事実なのだが、ファイツは素直に従った。何しろ自分達が今いるところはポケモンセンターの入口付近なのだ。いつまでもここにいるわけにはいかない。
「邪魔になっちゃうもんね……。行こっか」
「ああ」
言うが早いが、ラクツはすたすたと歩き出した。その速さにポカンと呆気に取られていたファイツは、はっと我に返ると慌てて走り出した。数秒間のこととはいえのんきに口を半開きにして立ち尽くしていた所為で、彼とはかなりの距離が開いてしまっていた。
「ラ、ラクツくん!待って……!」
早くも息が絶え絶えになりながらも、人の波を掻き分けるようにして、必死でラクツを追いかける。数回訴えたところで、遥か先を歩いていたラクツがようやくその歩みを止めた。肩越しに振り返った彼の眉間には、最早お馴染みとなった深い皺がしっかりと刻まれている。
「遅いぞ」
「ご、ごめんね……。あたし、ぼうっとしてて……」
ファイツははあはあと荒く息を吐き出しながら、どうにか言葉を紡いだ。数秒間の遅れで、まさかこんなに全力疾走する羽目になるとは夢にも思わなかった。
(ラクツくん、歩くの速過ぎるよ……!)
もちろん出遅れた自分が悪いのだが、それでももう少しゆっくり歩いてくれてもいいだろうに。ちょっとだけ、いやかなりの恨めしさを込めた目線を送りつけたファイツは、必死に息を整えた。
「随分と息を乱しているな。もっと体力を付けたまえ」
「う、うん……」
確かに彼の言う通りだ。女優業は身体が資本なのよと、ホワイトも言っていたではないか。せっかく明日から休暇がもらえるのだから、皆に迷惑をかけない為にも体力作りに励んでみよう。ファイツは涼しい顔をしているラクツを見つめながら、そう決意した。
「ボクに言いたいことがあるのか?」
「えっ?……ううん、特にないけど……」
「そうか。ならば、必要以上に見つめるのは止めてくれないか。そうまじまじと見られると、気が散る」
「あ、うん……。ご、ごめんね……」
反射的に、ファイツは頭を下げた。何だか言い方が冷たいような気がするのは、自分の被害妄想なのだろうか。
「あの……。ラクツくん?」
早歩きで彼の後を追いかけながら、ファイツはおずおずと問いかけた。「何だ」と実に短い言葉で返って来た彼の返事は、やっぱりどこか冷たくて。その冷たさにちょっとだけ気後れしたけれど、ファイツはぐっと堪えて唇を開いた。訊くのが怖いけれど、気になって仕方がなかったのだ。
「……あたし、ラクツくんに何かしちゃった?」
「別に」
「……えっと、じゃあ……。嫌なことでもあった?」
「いや。……別に」
そう返す彼の声も、どこか素っ気ないような気がする。いや、明らかに素っ気ない。多分、ラクツくんは嘘をついてるんだ。ファイツは直感的にそう思ったが、彼につかれた嘘を無理に暴くつもりはなかった。言いたくないなら言いたくないでいいではないか。だけど、その内容が気にならないといえばそれは真っ赤な嘘になる。
(ケーキが美味しくなかったとか?それとも、ヒュウくんやペタシくんに何か言われたとかかなあ……。訊きたいけど、無理には訊けないよね……)
歩きながら、ファイツはそっと溜息をついた。ラクツがどうして急に素っ気なくなったのかが気になって仕方がなかった。だけど本人が話してくれない以上、無理に訊くわけにもいかない。訊きたいのに訊けない。好奇心と彼の気持ちの間で板挟みになったファイツは、ぐっと眉根を寄せた。
「…………」
「…………」
自分もラクツも何も言わない。おまけに町の外れに向かってひたすら歩いているから、自然と沈黙が満ちた。ファイツはこの沈黙が重いと思った。さっきのとは比べ物にならないくらい、沈黙が痛かった。気まずくて仕方がなかった。
「こんなことなら、ヒュウくんに頼めば良かったかも……」
唇から勝手に零れ落ちた言葉は、まさにファイツの本音だった。家まで送ってやろうかというヒュウの申し出を、こんなことなら受けておけば良かった。この場にヒュウがいてくれたなら、演技を続けるという労力を差し引いても、ここまで気まずくはならなかったに違いないはずなのだ。早く行ってくれて良かったなどと思っておいてのこれだ。ものすごく勝手な考えだと自分でも思う。ものすごく嫌な女だと、強く思う。それでもそう思わざるを得ない程、この場の沈黙が痛かったのだ。
「何故、そこで彼の名が出て来るんだ?」
自己嫌悪に囚われていたファイツは、底冷えするような声で我に返った。こちらに向けられる、実に冷ややかな視線が顔に突き刺さる。眉間に深い皺を刻んだラクツに名前を呼ばれた。ただそれだけのことなのに、ファイツの身体はがたがたと震えた。怖かった。怖くて怖くて仕方がなかった。瞬きもせずにこちらを見つめて来る彼のことを、いつの間にかそうは思わなくなった彼のことを、ファイツはただただ怖いと思った。