もっと、教えて。 : 005
告白
「……落ち着いたか?」穏やかな、優しい声が右斜め上から降り注ぐ。自分が大好きなラクツの声だ。こんな自分を心配してくれる彼に向けて、こんな自分を抱き締めてくれている彼に向けて、ファイツは首を縦に振らなかった。それは紛れもない本心だった。今から「さよなら」を告げられるのだと思うと、とても落ち着けるわけがなかった。
「……っ!」
しばらくじっとしていたら、今度は溜息が降って来た。それは紛れもないラクツの溜息だった。大好きな人に溜息をつかれた。たったそれだけのことで、だけどファイツは深い絶望感に包まれた。声にならない声が勝手に飛び出した。分かっていたことだけれど、覚悟していたことだけれど、それでもあからさまに嫌っていると態度で示されるのはやっぱり辛かった。
(……でも。……仕方ない、よね)
大好きな人の温もりを感じながら、だけど同時に絶望感に苛まれてもいたファイツは自らの行いを思い返した。”耳を塞ぎたい”。それが、大好きな人に「話がある」と告げられたファイツが最初に思ったことだった。とうとう恐れていたことが、つまりは別れを告げられる瞬間が訪れたのだ。ラクツと別れることは、最早自分にとっては死刑宣告に等しいと言っても過言ではない。至極真面目にそう思えるくらい、ファイツは彼のことが好きだった。それはそれは穏やかで優しくて。それでいてかっこいい彼のことが、本当に本当に大好きだった。元々長風呂であるという自覚のあるファイツが殊更に長くお風呂に入ったのだって、その瞬間が訪れるのを少しでも先延ばしにしたいと思った為なのだ。
だけど、いつまでも入るわけにはいかない。「ラクツくんが風邪を引いたらどうするの」と何度も何度も言い聞かせて、どうにか覚悟を決めてお風呂から上がった時には、すっかりのぼせてしまっていた。だけど改めて対面した彼は温和そのもので、だからファイツは”もしかしたら”と思った。つまりは淡い期待を抱いたのだ。”もしかしたらあたしの思い過ごしだったのかな”とか、”完全に見限られたわけじゃないのかな”と思えるくらい、彼は優しい素振りしか見せなかった。本当に、別れたいと言い出す雰囲気が欠片も見当たらなかったのだ。だからこそ、ファイツはいつも通りに振舞えたのだ。ラクツに髪を乾かしてもらっている頃には、最早すっかり安心していた。”やっぱり思い過ごしだったんだ”。勝手にそう結論付けていたファイツの呼吸は、ラクツに真剣な面持ちで「話がある」と告げられた瞬間に止まった。完全に油断していた分、告げられた時の衝撃と恐怖感はすさまじかった。
「……待って……。もう少しだけ……。もう少しだけでいいから……っ!」
ラクツが腕の力を緩めたのが分かって、ファイツは涙声でそう告げた。願いを叶えてくれた優しい彼に向けて、今度は唇だけでごめんなさいと謝った。自分も彼も何も言わない。ただただ、時間だけが流れていく。それをいいことに、ファイツはまたしても回想した。完全な現実逃避だった。
「…………」
「…………」
”ぎゅってして欲しい”。怖いくらいの真剣な声で「話がある」と言ったラクツに向けて、ファイツはそんな言葉を投げかけた。用件を言われるより先に言わなきゃと焦った所為で、出した声は情けない程に震えていた。だけど彼は笑いもせずに、優しく手を引いてくれて。そしてソファーに座るように促すと、優しく抱き締めてくれたのだ。ラクツの言葉をものの見事に遮って、彼の気持ちをものの見事に蔑ろにして。ただ聞きたくないからという理由で抱き締めて欲しいなんて告げた自分は、何て勝手なのだろう。普段から迷惑をかけているというのに酷く自己中心的な考えをしているのだ。これでは彼に嫌われても仕方ないと思う、本当にそう思う。
(……逃げたい)
大好きな人の家にいるのに、大好きな人に会いたいと思ったのは自分自身だというのに、大好きな人に抱き締められているというのに。だけどファイツは逃げたいと思った。こんなことは今まで一度だってなかったのに、彼の元から離れたいと、心の底から思ってしまった。そう思う理由はちゃんと分かっている。要は、恐れているのだ。別れを告げられる瞬間が訪れることが、堪らなく怖いのだ。”ラクツくんの腕の中に永遠にいられたらどれだけいいだろう”。決して叶わない望みを、だけど胸に抱く。彼の腕の力が再び緩んだのはそんな時で、ファイツは必死に手を伸ばした。彼が着ている黒いシャツの裾を縋るようにして、強く掴む。
「もっと……っ」
「……ファイツ?」
「もっと、ぎゅってしてよぉ……っ!」
とうとう耐えられなくなって、瞳からはぽろぽろと涙が零れ落ちる。今の行動で、更に嫌われたことだろう。自分でもそう思う、だけどどうしても別れたくなどなかった。もう少しだけでいいなんて真っ赤な嘘だ。大好きな人の腕の中に、もっともっといたかった。
「好きなの……。ラクツくんが、好きなの……っ!」
ラクツを力の限り抱き締める。震える唇からは、言葉が勝手に零れ落ちた。まず間違いなく近いうちに言えなくなるであろう、彼への愛の告白だ。
「ボクも同じ気持ちだ。ファイツが好きだ」
即座に降り注いだ言葉に、ファイツの胸は苦しくなった。ラクツはこんな時まで優しかった。きっと迷惑だろうに、縋りついた自分を一言も責めないばかりか愛の言葉まで返してくれたのだ。彼のその優しさが、今の自分には却って辛かった。
「ご、ごめんね……。ラクツくんに、最後まで気を遣わせちゃって……っ」
「……最後?いったい何の話だ?」
「え……っ?」
ファイツは目を瞬いた。胸板に埋めていた顔を、ゆっくりと離す。怖くて見れなかったラクツの顔へとおそるおそる視線を移すと、驚くことに彼は困惑そのものの表情をしていた。目が合った瞬間に、彼の眉間には皺が刻まれた。深い深い皺だ。
「……ファイツ。キミは、ボクと別れたいと思っているのか?」
静かに発せられた言葉には全力で首を横に振った。別れるだなんて絶対に嫌だった。とんでもないとばかりに、ぶんぶんと否定する。ラクツは、ファイツの世界の中心にいる人なのだ。
「そうか。ボクも同じ気持ちだ」
「そう、なんだ……。良かった……っ」
心の底から、ファイツは良かったと思った。思わず、ホッと胸を撫で下ろす。どうやら最悪の未来は回避したらしい。
「しかし、”最後”とはな……。何をどう誤解したのかは知らないが、それだけはあり得ないな。……今だって、こんなにも好いているのに」
眉間の皺を消し去ったラクツが、顔を近付けて来る。「あ」と思った時には、既に唇同士が触れていた。いつも通りのキスをされたファイツの心には、熱い何かが広がった。我ながら現金だと思うが仕方ない、だって自分は彼のことが大好きなのだから。
「何度も言うが、ファイツ。ボクはキミが好きだ。キミだけしか見えていない」
「……うん。あたしだって……」
ラクツは唇が離れるや否や愛の言葉を告げて来た。安心感で胸がいっぱいになったファイツは、言葉少なにそう返す。本当はちゃんと言葉にしたかった。だけどどうしても言葉が上手く出て来なかったから、その代わりに思い切り抱き付いた。そんな自分の頭を、彼は優しく撫でてくれた。”そういえば、ラクツくんに髪を乾かしてもらったんだっけ”。そう心の中で呟いたファイツの心はまたしても熱くなった。もしかしたら最初で最後になるかもしれないと思っていただけに、その嬉しさはひとしおだ。
「……ところで、何故そんな思い違いをしたんだ?」
「あのね……」
ファイツはぽつぽつと話し始めた。疲れたから早めに寝たら、酷い悪夢を見たこと。その悪夢に、ラクツが出て来たこと。美人を伴ったラクツが、自分から離れて行く内容だったこと。不安で堪らなくなって、強引に会いに来たこと……。拙い言葉でしどろもどろに始まった説明が終わった途端に、ラクツは溜息をついた。
「何かと思ったら、まったく……。いいか、ファイツ。キミのそれはあくまで夢だ」
「でも、だって……。ラクツくんだって、夢で胸騒ぎを覚えたことがあるでしょう?現実になるかもとか、不安に思ったことはないの?もしかして、あたしだけ……?」
「……ああ、うん……。言われてみれば、確かにボクも覚えがある。現に、今朝も悪夢を見たばかりだな」
「やっぱりラクツくんも見るんだ……。……悪夢って、どんな?」
「……知りたいか?」
「うん」
彼にとっての悪夢とはいったいどんなものなのだろう。それが知りたかったファイツは、こくんと素直に頷いた。「そうか」とだけ返したラクツが続きを発するのを、黙って見守る。
「キミを無理やりに抱く夢だ。常日頃から抱いているボクの願望が現れた結果だな」
ラクツはそこで言葉を切ると、こちらをまっすぐに見つめて来た。あまりにもまっすぐに見つめて来るものだから、ファイツの心臓はどきんと高鳴った。
「ファイツ。ボクはキミを抱きたいと思っている。出来ることなら、今すぐにでも」
あまりにもまっすぐな目で、あまりにも真剣な顔と声で。そんな言葉を発した恋人の顔を、ファイツはまっすぐに見つめた。告げられた言葉の意味はよく分からなかった。どういうわけか心臓の音がどきどきと高鳴り始めた理由もよく分からなかった。どうしてこんなにどきどきしてるんだろう。それにどうして、こんなに顔が熱いんだろう……?ラクツの顔をまっすぐに見返したまま、ファイツは内心で小首を傾げた。