もっと、教えて。 : 004

決意
”欲情している”。シャワーを浴びてリビングへと戻って来たラクツは、ファイツをひと目見た瞬間にそう思った。彼女は瞳と口を半開きにして、はあはあと荒い呼吸を繰り返している。その顔は見事なまでの緋色に染まっていた。そんなファイツを凝視したまま、ラクツはその場に硬直した。意思に反してどうしても足が動かなかったのだ。風呂上がりの彼女に「ラクツくんもお風呂に入って」とせがまれたのはつい先程のことだった。汗をかいていたこともあって承諾したラクツは、面倒だからとシャワーを浴びるだけで済ませた。時間にして5分程度だったと思う。その5分の間にファイツの色香がとんでもなく増しているように思えてならないのはいったいどういうことなのか。そしてどうして、着込んでいたはずのズボンを脱いでいるのだろうか。そんなことを呆然と思考しながら、ラクツは立ち尽くしていた。すらりと伸びる白い太ももから、どうしても目が逸らせない……。

「ん……っ」

ぐったりとソファーに身体を預けているファイツの唇から、吐息混じりの声が漏れる。濡れた髪の毛をタオルで巻いていることも相まって、この世の誰よりも大切な存在である娘はしっとりとした色香を放っていた。心臓の鼓動が、どくりと大きな音を立てる。反射的に”まずい”とラクツは思った。まるで警鐘のように鳴り響く心臓の鼓動とは対照的に、左手に持っていたはずのタオルが音もなく滑り降りた。

「……あ、ラクツくん……?……あっ……」

タオルが床に落ちた微かな音で気付いたのか、半開きだったファイツの瞳が大きく開かれる。次の瞬間、彼女の身体がぐらりと大きく傾いた。止せばいいのに、慌てて体勢を直そうとしたらしい。

「ファイツ!」

名前を口にすると同時に彼女の元に駆け寄って、細い身体を支えてやる。「大丈夫か」と問いかけると、ファイツはやや間を開けた後でこくんと頷いた。明らかに反応が悪い。

「……顔が真っ赤だが、本当に大丈夫か?」
「ほ、本当に大丈夫だもん……。あ、でも……。頭がくらくらするの……」
「長風呂でのぼせたんだろう。……だから、そんな恰好をしているのか?」
「……う、うん……。その……。す、すごく暑くて……」

瞳を潤ませたファイツが、伏し目がちにそう返した。そのファイツは、現在ラクツが貸した服を身にまとっている。生乾きの寝間着を着させるわけにはいかないと、自分の服を着るように勧めたのはラクツだ。あくまでも濡れた寝間着が乾くまでの間に合わせだったし、何よりも彼女が入浴している間に欲望を一刻も発散したくて堪らなくて。だからクローゼットにかけてあった服を、碌に吟味もせずに手渡したのだ。荒く息を吐いているファイツと、丁寧に畳まれた上でソファーに置いてあるズボンを目の当たりにしたラクツは、短慮にも程がある自らの行いをすぐに後悔した。手渡したズボンは、確かに生地が厚かったような気がする。今の季節にはそぐわない生地のズボンだ。

「すまなかったな、ファイツ。すぐに代わりの服を持って来るから」
「い、いいよ……。ラクツくんに悪いもん……」
「いや、しかし……」
「大丈夫だよ……。だって、シャツのおかげでちゃんと隠れてるし……」

隠れてるでしょうと言ったファイツは、荒い息の下でも無邪気な笑みを見せている。無垢そのものの笑みで、熱に浮かされた頭が急速に冷えていく。

(本当に愚かしいな、ボクは……)

ファイツの顔が赤いのも荒く呼吸しているのも事実だったが、それは単にのぼせてしまっている所為だ。それなのに欲情しているなどと解釈した自分自身を、ラクツは殴りたいと思った。情欲を滾らせているのは他でもないラクツ自身であって、間違ってもこの娘ではない。ファイツはただ、長風呂が過ぎただけなのだ。

「本当に大丈夫だもん……。頭だって、ちょっとくらくらするだけだから……」
「それは大丈夫とは言えないぞ。水分補給はしたのか?」
「うん……。ちゃんと飲んだよ……。コップで1杯、お水を……」
「それだけでは不足しているんだろう。……少し待っていてくれ」

言うが早いが、ラクツは床に落ちたタオルには目もくれずにキッチンに向かった。食器棚からコップを取り出して、乱暴に蛇口を捻る。冷たい水で満たされたコップを持って、ファイツの元へと足早に駆け寄った。

「……ありがとう」

手渡したコップを両手で受け取ったファイツの声は、酷く弱々しいもので。相当に喉が渇いていたのだろう。コップに口をつける彼女を、ラクツは無言で見下ろした。やはりというべきなのか、真っ先に目についたのは上下に動く喉と色白の首筋だった。そこから強引に動かした目線を彼女の顔で留める。どう見ても、普段よりかなり赤みが差しているように思えてならなかった。

「美味しかった……」

並々と注いだ水をひと息で飲み干したファイツは、大きく息を吐くと恥ずかしそうにえへへと笑った。はにかんでいる娘をラクツはなおも見つめ続けた。実に不思議でならない、どうしてこの娘はこんなにも可愛いのだろうか。そう思えない部分が存在しない彼女が落ち着いたと判断出来たところで、愛おしくて堪らない娘の額に向かって手を伸ばす。

「……んんっ!」

簡易的に熱を測る意味で、額に手を当てた瞬間だった。それ以外の意図などまったくなかった。しかし、その瞬間にファイツは声を漏らすと同時に身体をびくりと震わせた。大袈裟な反応と何よりもその声で、抑え込んだはずの欲望がぶり返す。つい先程、この娘を可愛くて堪らないと思ったことは事実だ。しかし今のファイツは、可愛らしさと色香が見事に同居している……。

「あ、ごめんね……っ。えっと、その……。び、びっくりしちゃって……っ」

依然として顔を緋色に染め上げたファイツが、しどろもどろに言葉を紡ぐ。”手が触れたことで感じてしまったのだろうか”。反射的に解釈した自分自身に向けて、ラクツは内心で思いつく限りの毒を吐いた。ファイツはただ、驚いただけなのだ。それなのにこんなことを思う自分は、本当にどうかしている。やはり、後で自らを殴るべきだろうか。そう思いながら気を引き締めると、内心とは裏腹に苦笑を浮かべた。元々よく謝る娘だったが、今日のファイツはどうにも謝り過ぎているような気がしてならない。

「キミを責めているわけじゃない。それより、驚かせて悪かった。単に熱を測りたかっただけだったんだが」
「ご……。ごめんなさいっ!ね、熱なら多分、ないと思うから……っ!……えっと、本当にごめんなさい……っ」
「何故謝る?」

ラクツは眉をひそめた。色々な意味ですまないと謝るべきなのは、むしろこちらの方なのだ。何せこの娘が入浴しているのをいいことに、ラクツは自室でまたしても自身を慰めたのだから。今夜二度目の行為は、やはり堪らない快感をもたらした。例によって思い浮かべた娘は言うまでもなくファイツだった。とても口には出せないことを思い浮かべた傍で、ファイツが「だって」と言いにくそうに言葉を紡いだ。

「……だって。水を汲んでもらっちゃったし、お風呂まで貸してもらっちゃったし……。それに、服だって……。ごめんね、せっかく貸してもらったのに……」

そう言いながら、目を伏せたファイツが着ているシャツの裾を軽く持ち上げた。あまりにも無防備で、ともすればこちらを誘っているのかとすら思える行動を取った彼女に、ラクツは頭を抱えたくなった。

(目のやり場に困るんだが……)

”シャツの丈が長いおかげで充分隠れるし、別の服を持って来てもらうのは悪いから”。これが、あられもない恰好をしているファイツの言い分だった。確かに下着こそどうにか隠れてはいるが、色白の太ももは隠せていなかった。上だけ着込んでいるその姿はあまりにも目に毒だった。欲望を発散させたばかりの自分には、特に。

「…………」

見えるか見えないかのギリギリのところで隠された、おそらくは上とお揃いの桃色であろう下着と。その下着に覆われた秘められた箇所に、優しく指を這わせたい。指だけでなく舌でも愛撫して、彼女の準備が出来たら自身を突き入れて。そして、この娘の中で果てたい。こんなことを想像してしまうのは、やはり男の本能なのだろう。

「…………」

”したい”と、ラクツは思った。ファイツを抱きたくて仕方ないと思った。自分がこういった欲望を抱くのはこの娘だけなのだ。他の女では欠片すら思わないのに、だけどファイツが相手だとふとしたことでどうしようもなく欲情してしまう。いや、そもそも恰好からして到底ふとしたことではないのだが。そんな自分の心情を知らないファイツが、ぐぐっと心配そうに眉根を寄せた。

「今更だけど、ラクツくんはちゃんと温まった?すぐ出て来たような気がするけど……」
「……あ、ああ。シャワーで済ませただけだからな。ボクは元々、入浴にはあまり時間をかけないんだ」
「そう、なんだ……。うう、何かごめんね……。先に譲ってもらっちゃって……」
「いや、ゆっくり浸かって欲しいと言ったのはボクだからな。もう気にするな」

それはもちろん彼女の身体を気遣った為だが、同時に時間が必要だったというのも長風呂を勧めた理由に含まれていた。元々の体質なのか、それとも行為の回数を重ねたからなのか。理由は分からないが、達するまでにはそれなりに時間がかかるのだ。容易に反応する癖して、達するのに時間がかかるというのは始末が悪い。服を手渡した瞬間でさえもしっかりと反応していたことも、そして彼女が入浴している間に自室で欲望を発散していたことも。そのどちらとも、ファイツには気付かれていないと思いたい……。

「くしゅん!」

ファイツが唐突にくしゃみをしたことで、欲望にまみれた思考が強制的に止まる。あの時もそうだった。雨に濡れたこの娘が玄関で盛大なくしゃみをしてくれたおかげで、ラクツはどうにか理性を取り戻せたのだ。助かったと思ったラクツは、急いで脱衣所へと向かった。その途中で床に落ちたままだったタオルをかごに放り込むのも忘れなかった。リビングへと戻って来た自分が手にする物体に気付いたファイツが慌てるのには構わずに、ラクツは彼女の手を引くとゆっくりと立ち上がらせた。

「ラ、ラクツくん!そんな、悪いよ……っ」
「いいから座ってくれ」

ほとんど強引にソファーから椅子に座らせてから、ドライヤーの電源を入れる。移動してもらわないとコンセントが使えないのだ。制止する彼女の声は、ドライヤーの温風の所為で聞こえない振りをした。髪の毛をまとめているタオルを取って、丁寧に風を当てていく。すっかりおとなしくなったファイツは、「ごめんね」とすまなそうに言葉を漏らした。

「どうして謝るんだ?」
「だって……。こんなことまでさせちゃって、ラクツくんに申し訳ないよ……」
「気にするな。それより風は熱くないか?」
「うん、大丈夫だよ。……それ、ちゃんと使ってくれてるんだ?」

手にしているドライヤーは、ファイツから贈られた物だ。きっかけは何気ない会話だった。髪はタオルで適当に乾かしているだけだと言ったら、数ヶ月後の誕生日に「はい」と手渡されたのだ。それまではタオルと自然乾燥で済ませていたラクツに、ドライヤーを使う習慣が身についた。他でもないファイツからもらった物を使わないわけにはいかない。そう告げたら、ファイツは「嬉しい」と呟いた。

「しかし、キミからドライヤーを贈られるとは思わなかった」
「ラクツくんが風邪を引いたら嫌だし、髪だって痛んじゃうもん。せっかく綺麗な髪なのに、もったいないよ……」
「それはキミの方だろう」

苦笑しながら髪を梳く。艶のある髪の毛は、毛先までさらさらだ。手入れの行き届いたファイツの髪が、ラクツは好きだった。自分なら適当でいいが、ファイツの髪の毛を適当に扱うわけにはいかない。

「ファイツ、どうだ?他人の髪を乾かした経験はないからな。勝手に乾かしておいてなんだが、本当にこれで合っているのかが正直言って分からない」
「うん、大丈夫だよ。あのね……」
「ん?」
「ラクツくんにしてもらうの、すっごく気持ちいいよ……?」
「……っ」

頬を上気させたファイツが発した気持ちいいの意味に、深い意味など含まれていない。事実、ファイツは眠そうに目を擦っているではないか。決して、断じて、頭の中で想像したような意味で口にしたのではない。そう何度も言い聞かせて、ラクツはやっとのことで脳内に浮かんだ”ファイツ”を消し去った。

「言葉が抜けている。乾かしてもらうのは、だろう」
「……うん」

気を取り直して、ドライヤーの風を再び当てる。完全に乾かしきったことを確認してから、ドライヤーの電源を切ってコードを引き抜いた。すかさず飛んで来たファイツからの「ありがとう」に頷いたラクツは、彼女に未使用のタオルを手渡した。ドライヤーと一緒に持って来た物だ。

「一応持って来たんだが、使うか?」
「ありがとう……!ちょうど頼もうかなあって思ってたところなの……!」

目の前で、ファイツが髪をタオルでまとめ始めた。その動きに合わせて揺れる茶色の髪の毛は、蛍光灯の光に反射して煌めいている。相変わらず見事なものだと目を細めるラクツの鼻腔を、甘い匂いがくすぐった。不意に香った匂いに、思わず動かしていた手が止まる。

「……どうしたの?」
「いや……。乾かすことに気を取られていて気付かなかったが、キミの髪から甘い匂いがすると思ってな。何というか、この甘さは……。うん、花のような匂いだ」
「……あ。それ、あたしがいつも使ってるシャンプーの匂いだと思うな。今日は早めにお風呂に入ったんだよ。……雨の所為で、結局濡れちゃったけど」
「そうか。では、キミは二度入浴したのか」
「うん……。その匂いが残ってるのかも……」

そう呟いたファイツは、がっくりと肩を落とした。落ち込んでいるようにしか見えない彼女の態度に、ラクツは訝しんだ。

「どうした?」
「その……。あたしはかなり気に入ってるんだけど……。もしかして、ラクツくんにとっては嫌な匂いだった?」
「いや。いい匂いだ。本当に、いい……」

そこで言葉を止めたのは、いい匂いの発生源が髪だけでなく彼女の身体からでもあることに気付いたからだ。種類の違うそれは、風呂上りであることを示す石鹸の匂いだった。呆然とほのかに香る石鹸の匂いと、何よりファイツの身体から香る甘い匂いが、ラクツの情欲を急速にかき立てる。視線が、タオルでまとめたおかげで丸見えになったうなじに自然と縫い付けられた。

「ラクツくん……?」

不意に言葉を途切れさせたことを不思議がったのか、ファイツが小首を傾げながらこちらを見上げて来る。その細いうなじに、そっと指を這わせた。完全に無意識だった。

「ひゃ、あ……っ」

指先が触れた瞬間に、ファイツは肩を跳ね上げさせた。彼女の瞳が潤んでいるように見えるのは、自分の見間違いなのだろうか……。

「やん、もう……。何するの、ラクツくん……っ」
「……ん?ああ……。髪の毛が垂れていたからな」

素知らぬ顔で答える。嘘ではなかった。タオルでまとめ損ねた髪が、一房だけ垂れていたのだ。その束を代わりに入れ込んだついでに、普段は隠されているうなじを予告もなしに一撫ですると、途端にファイツは身体を震わせた。

「く、くすぐったいよぉ……。……んん、やあん……っ」

か細い声を漏らしたファイツが、身体を捩る。その拍子にシャツの裾が捲れて、どうにか隠れていた下着が露わになる。桃色のそれを認めたラクツは、深く息を吐き出した。自分の中で何かが切れる音がした。もう限界だった。

「ファイツ。話がある」
「ん……っ。は、話……?」
「……ああ。大事な話だ。どうか落ち着いて聞いて欲しいんだが」

”抱きたいと告げよう”。そうラクツは思った。理性が辛うじて残っているうちに、愛おしい娘をこの手で傷付ける前に、取り返しのつかないことをしてしまう前に。この場で今、はっきりと言ってしまおう。そう決意したラクツの目に、揺らめいているファイツの蒼い瞳が映った。