もっと、教えて。 : 003
波紋
「温かい……」湯船の中で三角座りをしたファイツは、心地良さから来る溜息を漏らした。芯から冷えていたはずの全身は、石鹸のいい匂いとじんわりとした温かさに包まれていた。言うまでもなくそれは、ラクツがお風呂を貸してくれたからに尽きるわけで。お湯の温かさと何よりわざわざお湯を張ってくれた彼の優しさが全身に染み渡って、そっと吐息を漏らす。
「ラクツくん……」
ほとんど無意識に、馴染んだ音が唇から零れ落ちる。ファイツが好きで好きで堪らない人の名前だ。本当に不思議だった、どうしてこんなにも好きなのだろうか。そしてどうして、あんなにも彼は優しいのだろうか?
(ラクツくんって、本当優しい……)
最早数え切れない程思ったことを、ファイツは懲りずに心の中で呟いた。ラクツは超がつくくらいに真面目な人で、それはそれは大人びていて。そして、本当に本当に優しい人なのだ。ラクツは雨でずぶ濡れになった自分が抱き付いたことを一言も責めなかった。それどころか、「ゆっくり浸かってくれて構わない」と言ってくれたのだ。ファイツが大好きな、耳にするだけで無条件に安心出来るあの穏やかな声で、そう言ってくれた。ラクツの優しさはそれだけに留まらなかった。わざわざ洗濯機と乾燥機まで使わせてくれた上、パジャマが乾くまでは服を貸してくれるとまで言ってくれたのだ。生地が薄い下着はすぐに乾いても、パジャマはそうもいかないだろう。だからファイツは、彼の優しさに全力で甘えさせてもらうことにしたのだ。
(本当、夢みたい……)
ものすごく優しくて、ものすごく穏やかで、ものすごくかっこよくて。そんなラクツが自分の恋人であるという事実を、ファイツは時々信じられなくなる。素敵でも何でもないこんな自分が、あんな素敵な人とおつき合いしていていいのかと思ってしまう。想いが通じ合ってからいくつもの季節が巡ったというのに、ふとした時に夢か幻ではないかと疑ってしまうのだ。ついこの前のことだ。思い切って彼にそう告げてみたら、それはおかしそうに忍び笑いを漏らされたことは記憶に新しい。ちょっとだけ悔しかったから本人には言っていないけれど、苦笑した姿さえも素敵だと思ったのは秘密だ。
「……くしゅんっ!」
ぞくぞくと身体が震えて、我慢出来ずに発せられたくしゃみの音が、清潔さが保たれた浴室内に響き渡る。何となく恥ずかしくなったファイツは、気恥ずかしさを紛らわすかのように勢いよく身体を沈めた。充分に温まったと思っていたのに、予想以上に身体は冷えていたらしい。傘を差すのももどかしいと思ってしまう程に、ラクツへの気持ちが膨らんだ所為だ。
大好きな彼に、どうしても今すぐ会いたくて。膨れ上がったその気持ちのままに暗い夜道を走って走って、たどり着いた彼の家のチャイムを何度も鳴らして。やっとのことで会えたラクツに、ファイツは思いのままに抱き付いた。大好きな大好きな彼に抱き締めて欲しいと、愛の言葉を囁いて欲しいと。最初はそう思っていたはずだったのに、いざ大好きな人の顔を見たらどうしてか抱き付きたくて堪らなくなってしまったのだ。自分がずぶ濡れになっていることにはまったく気が回らなかった。
「ラクツくんは大丈夫なのかなあ……」
そっと呟いたファイツは、大好きなラクツとの押し問答を思い出した。その内容は、”お風呂に入るか入らないか”というものだった。風邪を引くから入ってくれと懇願する彼と、そこまでしてもらうのは悪いからと断る自分と。玄関からリビングに続く廊下で行われた数秒間の押し問答は、ファイツが盛大なくしゃみをしたことであっさりと決着がついた。「だから言っただろう」と呆れ混じりに零した彼に押し切られたとはいえ、のほほんとお風呂に入って本当に良かったのだろうかとファイツは思った。こうしている間にも、ラクツは寒さで身体を震わせているかもしれないのだ。考えてみれば、酷くずぶ濡れの服を着た状態で抱き付いてしまったのだ。彼が濡れていないはずがないではないか。万が一ラクツが風邪を引いたとしたら、それは間違いなく自分の所為だ。そうなった暁には全身全霊で看病するつもりでいるけれど、それでも彼に迷惑をかけたという事実は消えることがないわけで。またラクツくんに迷惑をかけちゃったなと、ファイツはそっと目を伏せた。今に始まったことではないけれど、何だか迷惑ばかりかけているような気がする。そんなマイナス思考すら浮かんで来る始末だった。
「はあ……」
顔を見るなり抱き付いた自分のことを、彼は果たしてどう思っただろうか。俯いたファイツは、ふとそう思った。口に出さなかっただけで、本当は嫌だったのではないか。やっとのことで感じられた彼の温もりを感じられなくなったショックで今の今まで忘れていたけれど、つい先程のラクツは何かを耐えるかのように眉根を寄せていたではないか……。ファイツは目を見開いた。ラクツを想ったことでしまりなく上がっていた口角は、今やわなわなと震えていた。優しい人だから言わなかっただけで、きっと心の中では不快に思っていたに違いない。最早後の祭でしかないのだけれど、ファイツは彼に抱き付かなければ良かったと思った。思い切り眉根を寄せた大好きな人の顔が、脳裏に蘇る。
「…………」
ラクツが基本的には眉根を寄せた、どちらかといえば険しい表情をする人だということはとっくの昔に知っている。例外らしい例外は自分と一緒にいる時くらいで、それはファイツにとってはちょっとした自慢の種だった。はっきり言ってしまえば、ある種の優越感を感じていたのだ。だけど、本当にそうなのだろうか。自分と一緒にいる時の彼は、本当にいつも穏やかな顔付きをしていただろうか……。
「……違う……」
ファイツはぽつりと呟いた。よくよく振り返ってみれば、それは違うと言い切れた。本当に時々だけれど、ラクツが険しい顔付きをする瞬間が確かに存在していたのだ。
「そうだよ……。さっきだって、あたしはラクツくんに……」
上手く言葉になったのはそこまでだった。そうだ、自分はラクツに明確に拒まれたのだ。それは、ついさっきのことだった。具体的に言うなら、玄関で思い切り彼に抱き付いた時だ。両肩を掴んだラクツに身体を押される形で距離を開けられたことを思い出したファイツは、深い絶望感に襲われた。
(きっと、きっと……。あたし、ラクツくんに嫌われちゃったんだ……)
その恐ろしい言葉を心の中で呟くと同時に、膝の前で繋いだ手と手が力なく離れる。その動きに合わせて湯船に広がっていく波紋を、ファイツはぼんやりと眺めた。きっと、いや間違いなく自分はラクツに嫌われたのだ。考えてみれば自分は日頃から迷惑ばかりかけているのだ、嫌われても不思議じゃないとファイツは思った。むしろ今まで嫌われなかったことが奇跡だと言えるだろう。
(怖い……)
ファイツは今、とてつもない恐怖感と寒気に襲われていた。現在進行形でお湯の温かさに全身が包まれているはずなのに、寒くて堪らなかった。歯がかちかちと鳴り出したことを感じ取る。ファイツは恐怖感と寒気と一緒に、強いマイナス思考にも捕らわれていた。脳裏に蘇ったのはあの悪夢だ。自分よりずっと綺麗な人を伴ったラクツが、自分から離れて行くという、想像するのも恐ろしい程の悪夢だ。お風呂から上がった途端に、彼に別れを告げられるのではないだろうか。そう思うと、ファイツは怖くて堪らなくなった。
「…………」
虚ろな瞳で、ファイツは自分の身体を見下ろした。湯気と涙でぼやけた視界に自分の胸が映り込む。ラクツと連れ立って歩いていたあの人は、自分なんかよりずっと綺麗な人で。そして、自分よりずっとずっとスタイルが良かったのだ。唐突にその映像を思い出したファイツは、あの人のものよりずっと小さい自分のそれに指を這わせた。どうしてそうしようと思ったのは自分でもよく分からなかった。
「……ん、……ん……っ」
両胸をゆっくりと揉み込んでいくうちに、ファイツの唇から、自然と吐息が漏れる。自らの意思でそうしておきながら、ファイツは”どうしてあたしはこんなことをやっているんだろう”と思った。何となく恥ずかしいし、出来るなら止めたい。頭ではそう思うのだけれど、どういうわけか胸を揉むという行為を止められなかった。そして、その瞬間は唐突に訪れた。
「……あんっ!」
夢中で胸を揉んでいたファイツの指先が滑って、爪が先端を掠めたと同時に、唇からは勝手に声が飛び出した。戸惑いと衝撃で、行為を中断したファイツはバシャンと音を立てて身体を沈めた。どきどきどきと心臓が高鳴る。誰もいないのは分かっているけれど、ファイツは忙しなく辺りを見回した。当たり前だが、辺りをいくら見回しても自分以外の人影が映るはずがなくて。ホカホカと湯気が立ち上る綺麗そのものの浴室を眺めたファイツは、ホッと安堵の息を吐き出した。本当に良かった、さっきの声は誰にも聞かれていない……。
「…………」
心の底から安心したファイツは、もう一度自分の胸を見下ろしてみた。淡い桃色をした先端をじっと見つめる。そこに爪が掠めると同時に唇から勝手に飛び出した声は、自分でも何かの間違いだと思うくらいの甲高い声だった。言ってみれば、それはいやらしい以外の何物でもなくて。だけど、さっきのあれは何かの間違いだとファイツは思った。そうだ、あれはきっと聞き間違いだ。だって、自分があんなにいやらしい声を出すはずがないではないか……。戸惑いと羞恥心でそれはそれは胸をどきどきさせたファイツは、ごくりと唾を飲み込んだ。震える指先をお湯で濡れた胸に伸ばして、その先端をそっと押し潰す。
「きゃあん……っ!」
先端を押し潰した途端に、ファイツの身体を何かが駆け抜けた。例えるならそれは、稲妻に打たれたような衝撃だった。戸惑いながら、恥ずかしいと思いながら、だけど先端を何度もくにくにと押し潰す。そしてその度に、ファイツの身体は否応なしに跳ねた。そして同時に、その動きに合わせて波紋が何重にも広がった。
「あんっ、やあん……っ」
波紋が広がったのは湯船だけではなかった。得体の知れない”何か”が全身を駆け巡るファイツの唇から、断じて聞き間違いなどではないいやらしい声が引っ切りなしに飛び出した。一度目は意図しなかった。本当に、まったくの偶然だった。二度目は好奇心と確認の意味だった。そして三度目は、紛うことなき自らの意思だった。自分の全身を襲う何かの正体が快楽であることを、ファイツは知らない。ファイツに分かるのは、今の自分がとてつもなくいやらしい声を出していることと。そして”これ”が、とてつもなく恥ずかしい行為であることと、だけど同時にどういうわけか気持ちよくて堪らないということだけだ。人生で初めて味わう快楽に全身をすっかり支配されたファイツは、顔をとろけさせながらお湯の中でただただ身悶えるばかりだった。