もっと、教えて。 : 002
煩悶
「……っ!!」ベッドの上で、限界に達したラクツは荒い息を吐き出した。唇から漏れ出る荒い呼吸音に混じって、窓が風によって打ちつけられる音が部屋中に木霊していた。そういえば、オレンジ色に染まった空が厚い雲に覆われていたような気がする。そんな至極どうでもいいことを快感で麻痺した頭で薄らと思考しながら、ラクツは全身を襲う快楽の波に身を委ねた。いつものことといえばそうなのだが、自身を慰める行為の後はどうしたって気持ちいいと感じてしまうのだ。眉根を寄せて、感情のままにベッドに倒れ込む。快楽の発生源である自身と、そして枕に押し付けた頬が、平素とは比べ物にならないくらいに熱を持っていた。それは今夜がどこか蒸し暑い夜だからというのもあるけれど、ただ偏に興奮していたからだ。しかし快感の余韻に素直に浸っていられたのも、ほんのわずかな間だけだった。
「…………」
ラクツの身体を次に襲ったのは、言いようのない気怠さと虚しさと。そして、すさまじい程の罪悪感だった。いつだってそうなのだ。事を終えて冷静さを取り戻した途端に、ラクツは決まって罪悪感に襲われる。大切で堪らないあの娘を想いながら、煮え滾る欲望を吐き出す行為。ともすればそれは、愛おしいあの娘を汚すにも等しい行為とも呼べるだろう。穢れを知らない純粋無垢な彼女に悪いと、申し訳ないと、こんなことをしてはいけないと頭では思うのに。けれどどうしても止められない、どうしてもこの欲望を我慢出来ない。その行為に着手し始めたのは、いったいいつのことだっただろうか?最初は数日に1回のペースで済んでいたのに、月日が経つにつれてその頻度が増しているのは明らかだった。昨晩も欲望に負けた上、一昨日だって行為に没頭したことは記憶に新しい。ついでにいうなら一昨昨日も行っていたわけで。ここ最近は、それこそ毎日のようにしているのではないだろうか。
「ファイツ……」
この世の誰よりも愛おしくて、大切で大切で堪らなくて。しかし同時に滾る欲望を向ける対象である娘の名前を、ラクツはそっと呟いた。何をおいても大切にしたいと、護りたいと頭では思うのに。けれど同時に無防備で無垢なあの娘を、滅茶苦茶にしてやりたいとも思ってしまうのだ。どうしようもなくそう思ってしまうのは、自分が男であるが故の本能なのだろうか……。
「…………」
そんなことを考えた所為なのだろうか。しまった、と思った時には既に後の祭で。眉間に深い皺を刻んだラクツは内心で舌打ちした、せっかく脳内から消し去ったはずの映像が鮮明に蘇ってしまったのだ。こちらが愛撫する度に艶やかな髪を振り乱して、桜色の唇から艶めかしい声を漏らして。しなやかな肢体を扇情的に捩る一糸まとわぬあの娘の姿を、ラクツは自身を慰める行為の度に決まって脳内に思い浮かべる。つい先程思い浮かべた想像の中のあの娘は、首筋を舌で刺激する度に甘い声を上げていた。刺激する部位の対象が首筋だったのは、今日の昼間に蒸し暑いからと勢いよく水分を摂った彼女の姿が強く印象に残っていた所為なのだと思う。一歩間違えれば盛大にむせそうな程、あの娘は喉を鳴らして水を飲んでいた。そしてそんな彼女に苦笑しつつも案じる言葉を投げかけたその裏で、ラクツの目線は上下する喉に釘付けになっていた。あの白くて細い首筋に、欲望のままに舌を這わせてやりたい。実行することこそなかったものの、そう熱望した事実は消せやしない。想像の彼女に首筋への愛撫を執拗な程に強いたのは、我慢しなければと必死に耐え忍んだ反動なのだろう。
ファイツとつき合い始めた当初こそどうにか制御出来ていた欲望が、ここ最近は特に膨れ上がっている。認めたくないけれど、その事実を認めざるを得ないとラクツは思った。何を隠そう、ラクツは今朝だって常日頃から抱いている願望が反映された夢を見ているのだ。こんな自分を想ってくれているあの娘を、同意もなしに無理やりに組み敷いて。そして怖がるあの娘に思うままに欲望を浴びせるという内容の、思い浮かべることすら憚られるような酷い夢だった。別に初めて見たわけではないが、内容としては今までで一番過激だったと思う。そのような夢を見ること自体は、男である故に仕方ないことなのだろう。男として人生を送る以上は最早割り切るしかないと理解はしているが、その一方で割り切れないこともある。欲望にまみれた夢から醒めた時、今の今まで続けられていた行為が現実ではなかったことにラクツは”良かった”と思った。大切なあの娘に実際に暴力を強いたわけではなかったのだと、安堵したものだった。そしてそんな自分がいる傍らで、別の自分が存在していることもしっかりと認識していた。どうしてこれが現実ではないのだろうと、どうしてファイツを抱けないのだろうと。あくまで夢でしかなかったことに、安堵しつつもどこかで失望する自分が確かに存在したのだ。願望が反映された夢を見る度に、ラクツは恐怖に襲われる。今朝見たあの夢が現実のものになる。そのことを、ラクツは最も恐れている。このままでは、現実世界のあの娘を襲うのも時間の問題だ……。
(ファイツを、傷付けたくない……)
冷水をかけられたかのように冷えた頭で強く思う。頬と自身に感じた熱は、いつの間にやら冷めていた。愛おしい娘を思いのままに抱けたらどれ程いいだろうと、ふとした時にラクツは思う。あのような夢を幾度となく見ている以上、まず間違いなく満たされることだろう。その欲望を満たしたいという思いはあるが、やはり自分はファイツを大切にしたいのだ。出来ることなら泣かせたくはないし、傷付けたくなどないし、汚したくはなかった。ましてや自らの手で傷付けるのは絶対に嫌だった。ただでさえラクツには、あの娘から大切な物を奪った前科があるのだから。その筆頭である記憶は、ファイツが目覚めてから数年経つというのに未だに戻らないままだ。
「…………」
あの娘への罪悪感で眉間に皺を寄せたラクツは、溜息をつくと身体を起こした。気怠さは感じていたが、床に放り投げた行為の形跡をはっきりと示す物体をいくら何でもそのままにしてはおけない。着衣の乱れを直してから、いつも通りに後始末を行う。これも最早すっかり手慣れたものだった。後始末を済ませて再びベッドに寝転がったところで、ラクツはまたしても深く嘆息した。来訪者を知らせるチャイムが耳に届いたのだ。
(……こんな時間に、誰だ)
内心で舌打ちをする。誰だか知らないが、こんな時にいい迷惑だ。一度は無視をしてしまおうかと考えたラクツが再び起き上がったのは、度重なるチャイムの音に根負けしたからだ。いったい何事かと隣の部屋から怪訝そうに顔を覗かせたフタチマルを制して、重い足取りで玄関へと向かう。こうしている間にもチャイムは規則正しい感覚で鳴り続けているのだからまったくもってうんざりする。本当にいい迷惑だ、この際文句の一つや二つくらいつけても罰は当たらないだろう。心当たりがなかったラクツは眉間に皺を寄せると、憂鬱な気持ちでチェーンロックを外した。
「……っ」
玄関のドアを開けたラクツだったが、驚愕から息を飲んだ。当然誰かしらいるとは思っていたが、まさかそれがこの娘だとは夢にも思わなかったのだ。来訪者に対する疎ましさと苛立ちが、一瞬で霧散する。この世の誰よりも大切な存在であるファイツが、玄関先で所在なさげに立っていた。
「ファイツ、どうした?何かあったのか?」
「…………っ」
大粒の雨が降っているというのに、どういうわけかファイツは傘を差していなかった。それどころか、鞄などの手荷物すらも持っていなかった。彼女の身に何かがあったのは明らかだ。努めて優しい声で問いかけてみても、ファイツはその場に立ち尽くしたままだった。こちらを見つめたまま微動だにしない彼女の頬は、涙とも雨ともつかない雫で濡れている。
「……そのままだと風邪を引くぞ」
こちらの声に相変わらず何も返さないファイツの手を、ラクツはそっと握り込んだ。自分のそれよりずっと小さいそれは、どう解釈しても冷えている。この期に及んでも何も言ってはくれない彼女の手を優しく引いたラクツは、そのまま家の中へと招き入れた。いったい何があったのかと気になって仕方がなかったことは確かだが、今はそれより彼女の身体を温めてやりたかった。ファイツの身体が冷えていることは明らかだ。まずはタオルを渡して、それから大急ぎで風呂を沸かさなければ。自分の対応が遅れた所為で風邪を引くなんて事態になったら最悪だ。
「ファイツ、そこで待っていてくれ」
そう告げて、掴んだファイツの手を音もなく放す。言うまでもなくそれは迅速に脱衣所に向かう為だったのだが、しかしラクツが洗面所に向かうことはなかった。ラクツくんと、実に密やかな声で名前を呼ぶ声が鼓膜を震わせたからだ。
「どうし、た……」
他ならないファイツによって引き留められたのだとすぐに悟ったラクツが、そう言いながら向き直った瞬間だった。不意に感じた感触と体温に、思考と身体が硬直する。言いかけた言葉を最後まで口にすることなく、ラクツはその場に呆然と立ち尽くしていた。耳元で聞こえるファイツの「ごめんなさい」が、どこか遠くで聞こえたような気がする。至近距離にいる所為なのだろう。雨の臭いに混じって甘い匂いが鼻腔を優しくくすぐった。
「こんな時間に、ごめんなさい……。でも、どうしてもラクツくんに会いたくて……っ」
身体を震わせたファイツが、涙を滲ませた声でそう言った。恋人に思い切り抱き付かれているという事実を痺れ始めた頭で認識したラクツは、細い両肩を押すようにして彼女から半ば強引に離れた。何せ自分は、つい先程までふしだらなことを考えていた身なのだ。愛おしい彼女だからこそ、このまま抱き付かれているというのは色々な意味で良くない。
「話は後だ、ファイツ。とにかく……」
”早くタオルで髪を拭いて、風呂で温まってくれ”。ラクツはそう続けるはずだった。それが出来なかったのは、ファイツがとんでもない恰好をしていることに気付いたからだ。あまりの驚愕で、思わず息が止まる。
「…………っ」
何かを勘違いでもしたのだろうか。とうとう涙を零したファイツは、何度も「ごめんなさい」と呟いた。しかしラクツは消え入りそうな声を発した恋人に応えてやるどころではなかった。ファイツが身にまとっている服は、驚くことにどう見ても寝間着だった。雨でぴったりと貼り付いている所為で身体のラインが強調されてしまっている上、布地が透けたことで下着が完全に見えてしまっている。ともすれば誘っているのかと思われても仕方ない程に、今のファイツはあられもない姿をしていた。間近に存在する桃色のレースの下着に覆われた2つの豊満な膨らみに、ラクツは釘付けになった。すぐに目を逸らさなければいけないことを頭では理解しているのに、どうしても目を逸らせなかった。心臓の音が、平素とは比較にならないくらいに大きくなっていく。瞬きもせずにそんなことを考えるラクツの前で、ファイツが打ちひしがれたように床にへたり込んだ。その拍子に、色白の太ももが顕わになる。
「ラクツくん、ラクツくん……っ」
毛先まで艶のある髪の毛から、雫を止めどなく滴らせて。そしてしゃくり上げながら名前を連呼する今のファイツは、あまりにも強烈な色香を放っていた。普段は服で隠されている太ももを惜しげもなく晒して、口を半開きにしている彼女の瞳は、涙で潤んでいる。そんな彼女の姿を呆然と凝視するラクツの脳内に、今朝見た夢の内容が鮮烈に蘇った。自分の愛撫に逐一反応するファイツだ。涙をぽろぽろと零しながら、血色のいい頬を更に紅潮させて。そして何度もこちらの名前を呼びながら、甘い艶声を唇から絶え間なく漏らして。あまりにも魅惑的な身体を、いやらしく捩るファイツだ……。
「…………」
ラクツは改めて、ファイツの持つ見事な膨らみに目線を向けた。その桃色のレースの下着に覆われた2つの膨らみに今すぐ触りたい、自然とそう思うのを止められなかった。いや、膨らみに触れるだけでは最早足りない。柔らかい膨らみを優しく揉みしだいた後は、固くなった先端を指で思うままに弄りたい。そして出来るならざらついた舌で執拗に舐め上げたい。他には唾液で濡れたそれを、指や舌で様々な方向に押し潰すとか、舐め回してやるのも良さそうだ。あるいは、爪で優しく引っかいてやるのも手かもしれない。快楽の色に全身を染め上げたファイツが、それはもう気持ちよさそうに身体を捩る姿が脳内に浮かぶ。この娘にとっての最も感じる愛撫とは、いったいどんな種類のものなのだろうか?
”愛おしくて堪らない娘を押し倒して、自分の愛撫による甘い悲鳴を今すぐにでもあげさせたい”。男として本能的にそう思ったラクツは、身体の一部がとてつもない熱を持っていることに気が付いた。急速に沸騰した脳内に一瞬だけ浮かんだのは、ファイツの無垢な笑顔だった。その笑顔が、瞬く間に扇情的な表情へと変化する。ラクツはへたり込んでいるファイツを見降ろした。本能と理性との間で揺れ動く天秤が完全に傾くまでには、然程時間はかからなかった。