もっと、教えて。 : 001

悪夢
「……っ!!」

ぐっすりと眠っていたはずのファイツは、声にならない叫びを上げて飛び起きた。真っ暗な闇の中で唇から漏れた荒い息遣いが響く。まるで全力疾走をした時のように心臓が上下に激しく動いていた。胸が痛くて息苦しくて、ファイツはぎゅっと眉根を寄せた。お風呂に入ったはずだったのに、だけど全身からはものの見事にじんわりとした汗が滲み出ていた。皺になるのも構わずに、汗で湿ってしまったパジャマの裾を思い切り強く掴む。風に叩き付けられた所為で、窓がかたかたと音を立てていた。今夜は酷い大雨になるでしょうとテレビで言っていたことを、ファイツはぼんやりと思い出した。

「…………」

ベッドの上で胸を押さえたファイツの脳裏に、つい今しがたまで見ていた夢の内容が蘇る。現実逃避はそこまでだった。世界で一番大好きな人に別れを告げられるというそれは、まさに悪夢だとしかないもので。急に背筋が寒くなって、今度は目を思い切り強く瞑った。あれはあくまで夢でしかなくて、現実に起こったことではないと頭では理解している。だけど、身体が否応なしに震えてしまうのは何故なのだろうか。夜だとはいえポカポカとした実に春らしい陽気であるはずなのに、今は寒くて仕方ない。小刻みに震える身体を両腕で抱き締めたファイツは、悪夢を見たという事実を振り払うかのように頭を横に振った。暗闇の中で目を瞑ってから、どれくらいの時間が経ったことだろう。そっと溜息をついたファイツは、ゆっくりと目を開けると伸ばしていた足を下ろした。喉が酷く渇いていることにようやく気が付いたのだ。

(良かった……。よく寝てる……)

最低最悪の気分だったが、不幸中の幸いだったのはダケちゃんを起こさなかったことだ。元々よく眠る子ではあるのだけれど、多分仕事で疲れた所為でもあるのだろう。ベッドが軋むくらいの弾みをつけて飛び起きたのにも関わらず、枕元でいるダケちゃんが起きる気配は微塵も見られなかった。膨らんだり萎んだりを繰り返している鼻提灯を認めて口角を上げたファイツは、音を立てないようにしなければと言い聞かせながらそっと立ち上がった。足音に置いたスリッパを履いて、そろりそろりと歩き出す。電気を点けるわけにはいかなかったが、目が慣れたおかげなのか暗闇の中でも歩く分には困らなかった。

(そ~っと、そ~っと……。ダケちゃんを起こさないように……)

そう心の中で呟いて、慎重に歩を進める。自室のドアを閉める時だけはひやりとさせられたものの、終わってしまえば後は早かった。それでも万が一のことがあっては悪いと一歩ずつ慎重に歩いた所為で、目的地であるキッチンに着くまでにはそれなりに時間がかかったように思う。キッチンの電気を点けて、コップから溢れるのにも構わずにコップに勢いよく水を注いで。そしてそれを、一気に飲み干した。冷たい水が喉を急速に潤していく。喉の渇きからようやく解放されたファイツは、はあっと溜息をついた。

「…………」

空になったコップを見つめていたファイツは、そっと目を伏せた。水分補給をしたことで飢えは満たされたが、心の方は満たされたとはとても言いがたかった。思い出さないようにしなければと、自分自身にいくら言い聞かせてもダメだった。脳内には未だに悪夢がちらついている。大好きな人が自分から離れて行くという、大好きな人に「さよなら」を告げられるという、考えるだけでもおぞましい程の悪夢が。

「本当に、夢……なんだよね……?」

弱々しい掠れた呟きが、唇から勝手に飛び出した。無意識に出た言葉は疑問形だった。もちろんファイツは、そうなって欲しいと思っているわけでは決してなかった。あの夢が現実になるだなんて、ファイツにとっては耐えがたいことだった。そんな未来が訪れることはあってはならないと、単なる夢であって欲しいと。心の底からそう願っているのは、他ならないファイツ自身であるはずなのに。だけど同時に、今にも別れを告げられるのではないかと思ってしまう。心に渦巻く不安に飲み込まれるのではないかと思ってしまう。ファイツは再び震え出した両腕を抱き締めた。

「…………」

ファイツは怖かった。ただひたすら怖いと思った。春だというのに寒くて堪らなかった。世界中の誰よりも彼と離れたくないと思っているはずなのに、単なる夢だからと笑い飛ばすことすら出来ない自分は酷く臆病だとも思った。分かっている、あれは自分の自身のなさが生み出した幻だ。常日頃から心のどこかで不安に苛まれているから、だからあんな悪夢を見てしまうのだ。どうしていつまで経っても自分に自信が持てないのだろう。どうしてこんな彼は自分を愛してくれるのだろう。そしてどうして、日頃から愛の言葉をくれる彼のことを信じられないのだろう。自己嫌悪に打ちひしがれるファイツに、こびりついて消えてくれない悪夢が追い打ちをかけた。
「さよなら」を告げた彼は、女の子と一緒だった。ファイツが知らない、だけど自分よりずっと可愛い女の子だ。さらさらな黒い髪の毛を結った、細い手足がすらりと伸びた女の子だった。何を言っていたのかは思い出せないけれど、自分の知らない女の子は彼が何かを言う度に笑っていて、ショックの中で明るい性格なんだとぼんやりと思ったことは憶えている。自分よりずっと可愛くて、自分よりずっと明るくて、自分よりずっとスタイルもいい女の子だ。誰がどう見ても、一緒にいて絵になる2人だと思う。そしてその女の子の肩を抱いた彼は、自分に向かって「さよなら」を告げたのだ。それは、ファイツが一番聞きたくないと思う言葉だった。

「…………っ」

立ち尽くしたまま呆然と悪夢を思い返していたファイツは、自分が涙を零していることに気が付いた。だけどファイツは、止めどなく流れる涙を拭わなかった。不安で堪らなくて、拭う気にもなれなかったのだ。ぽたりぽたりと、溢れた涙が止めどなく落ちていく。ファイツは今、深い絶望感に襲われていた。もちろんそうなって欲しいわけじゃない、彼と別れたいと思っているわけじゃない。だけど悪夢が現実になるのではないかという疑念が、どうしたって消えてくれないのだ。自分よりずっと可愛くて、自分よりずっとスタイルも良くて。自分よりずっと隣に立つのに相応しい女の子を伴った彼が、自分の傍から離れて行く。そんな未来が、いつかは訪れてしまうのだろうか……。

「やだ……。そんなの、嫌だよ……」

自分自身でそんな未来を想像しておきながら、だけどファイツは呆然と呟いた。あの夢が現実になるだなんて、絶対に絶対に嫌だった。ふらふらとリビングに戻って、辺りを必死に見回した。すると涙で滲んだ視界に、ぼやけた時計が映り込んだ。時計の短針は9を指している。隣でこそないけれど、彼の家は近所なのだ。全力で走ればものの5分もかからないだろう。

「会いたい……」

つい数時間前まで一緒にいた大好きな人に、ファイツは今すぐ会いたいと思った。ライブキャスター越しの無機質な画面越しなどではなくて、大好きな人の顔をこの目で直接見たいと思った。大好きな人に会って、抱き締めて欲しかった。大好きな人に、愛の言葉をもらいたかった。今すぐにそうされたくて堪らないと思ったから、だからファイツはごしごしと乱暴に涙を拭った。大好きな人の迷惑になると分かっているけれど、それでもこの気持ちは止められなかった。パジャマ姿であることも大雨になるであろうことも分かっていたけれど、それでも会いたくて堪らなかった。だからファイツは足を踏み出して、その勢いのままに家を飛び出した。降りしきる雨をものともせずに夜道を走るファイツの頭を占めているのは、”ラクツくんに会いたい”という気持ちだけだった。