崩れた境界線 : 002
この世で、唯一
自室兼寝室の掃除を一通り済ませたラクツは、緊張感と高揚感が入り混じった溜息を吐き出した。愛する娘とすぐにでも事に及びたいという欲望を抑えつけながら掃除をするのは中々に骨が折れて、予想していたより遥かに長い時間がかかってしまった。けれどあの娘は心の準備をする為の時間を必要としていたに違いないはずだから、却って良かったのかもしれない。焦らなくてもファイツは逃げたりしないと自分に言い聞かせながら、ラクツは最終確認とばかりに部屋を見渡した。そして、ベッドメイクが施された寝床で目を留める。常日頃から清潔を保つように心がけているから然程汚れていないとは思うが、何の掃除もしないまま大切な彼女をベッドに寝かせる気には流石になれなかったのだ。心から愛する娘に「えっちしよう?」と頬を染めながら直接的に誘われたというのにすぐに押し倒さなかった自分は、称賛されてもいいのではないだろうか。(ようやくファイツを現実で抱けるのか。これまで、長かったな……)
愛してやまない娘と初めて肌を重ねるからなのだろうか、脳裏にはこれまでの様々な苦労が勝手に蘇って来て少しだけ感慨深い気持ちになる。日に日に美しく成長していくあの娘は信頼の証なのか無防備な姿を頻繁に晒すから、ラクツは素知らぬ振りを貫きながらも内心で頭を抱えたものだった。ファイツを思いのままに抱いてしまいたいと、何度思ったことだろう。ファイツの裸体を思い浮かべながら、何度膨れ上がった欲望を1人で処理したことだろう。それらの回数は最早ラクツ自身にも分からなくて、あの娘限定とはいえ自分がこんなにも性欲が強かったなんて思わなかったなと密かに苦笑する。どちらかと言えば淡白な方だろうと思っていたのだが、その認識はどうやら間違っていたらしい。
今日だっていつも通りに欲望を抑えつけるつもりでいたのに、気が付いたらラクツは大切で堪らないファイツをソファーに押し倒していたのだ。普段とは違ってダケちゃんが彼女の傍にいなかったというのもあるが、何よりもあの娘がシャンプーのいい匂いを漂わせた状態で傍にいたことが今にして思えば大きな要因なのだろう。蒸し暑かった所為か薄手のパジャマの裾を際どいところまで捲り上げていたファイツは実に無防備だったから、欲望と理性の狭間で葛藤しながら”実はボクを誘っているのかもしれない”と半ば本気で考えてしまったくらいなのだ。あまりに艶めいている彼女から発せられた色香に結局耐え切れず、喉から出かかった言葉を口に出すより先に押し倒してしまったわけだけれど。
(……しかし、まさか本当に誘われるとはな)
あのおとなしいファイツがまさか明確に自分を誘ってくれるなんて思わなかったと、つい先程の衝撃な光景を思い返したラクツは深く嘆息する。盛大に押し倒しておいて何だが、あの娘に限ってそれはないだろうと思っていたのだ。胸元をはだけさせたファイツは何を思ったのか白い太ももを惜しげもなく露出させた上、実に悩ましそうな目線を投げかけて来る始末で。その結果、わずかに残っていたひとかけらの理性は呆気なく砕け散ることとなった。婚前交渉はしないと決めていた手前実に情けないが、ファイツのあの姿はラクツにとってあまりにも魅惑的だったのだ。挑発的に肌を見せつけられただけでも堪らないのに、止めとばかりにあのような眼で見つめられたらもう抗えるはずがなかった。薄い青色の下着から覗いたあの娘の胸の谷間と眩しい程の白い太ももが脳裏に鮮明に浮かんで、思わず喉を鳴らして唾液を飲み込んだ。
(……早く、触れたい)
興奮によって再び息を荒く乱しながら、愛する人に想いを馳せる。人並み外れておとなしい彼女が自分の為にそんな行動を取ってくれたことへの申し訳なさは確かにあるものの、けれどラクツはそれ以上に嬉しいと思った。それこそ気絶してしまう程に恥ずかしかっただろうに、それでもこちらを思いやってくれたあの娘が愛おしくて仕方がなかった。気遣ってくれた礼というわけではないが、ファイツには存分に気持ちよくなってもらおうとラクツは考えていた。国際警察官として働いていた頃に教えを受けたお陰で、実体験こそないものの知識はそれなりに有しているのだ。
「待たせて悪かったな、ファイツ。もう入って来ていいぞ」
これ以上待たせるのも悪いし何より自分自身が既に限界だったラクツは、部屋の前で自分を待っていてくれているであろうあの娘に向けて声を投げかけた。すると、数秒の間が空いた後で真っ赤な顔をしたファイツがそろりと姿を現した。緊張しているのかそれはゆっくりとした足取りでこちらに1歩ずつ近付いて来る彼女がいじらしくて、ラクツは柔らかく目を細める。
「……おいで」
言動全てが可愛いファイツの左手をそっと握って、ベッドまで優しく導く。足を止めたところで、どこか俯きがちだった彼女が何かに気付いたようにぱっと顔を上げた。困ったように眉根を寄せたファイツは見るからにおろおろしている。
「どうした?」
「ラクツくん、あの……。フ、フタチマルは……?」
「…………」
今更な問いかけに、ラクツは軽く目を見開いた。こんな時間に掃除をし始めた自分を見た彼は事情を悟ったらしく、こちらが頼む前に進んで退室してくれたのだ。部屋の前で待っていた以上この娘もその場面を見ていたはずだが、今尋ねるということは気付いていなかったのだろう。そんな彼女が何とも可愛らしくて、思わず忍び笑いが漏れる。
「彼ならとっくに部屋を出て行った。今はリビングにいると思うが、どちらにせよ今夜はボクの部屋に戻って来ることはないから安心してくれ」
「そ、そうなの……?」
「ああ。そういえば、ダケちゃんはどうした?お前の部屋にいるのか?」
「うん……。今日の仕事で疲れちゃったみたいで、今もあたしの部屋でぐっすり寝てると思う……」
「そうか、つまり余計な邪魔は入らないということだな」
「じゃ、邪魔って……」
「ん?そうとしか言えないだろう。……それとも、彼が見ている前でするか?」
「そ、そんなの絶対ダメ!」
こちらの冗談を真に受けたのか、ファイツは慌てた様子で首を思い切り横に振った。「絶対絶対ダメだからね」と早口で捲し立てる彼女の顔はもう真っ赤で、その反応にラクツはまたもや喉を鳴らしてくすくすと笑った。いつものことだが、この娘は本当に可愛いなと思ったのだ。
「冗談はさておき、ファイツ。ボクとしてはそこの明かりを点けた状態でしたいと思っているわけだが、お前はどうだ?」
「……えっ!?」
”もっと明るいところでファイツの裸体をじっくりと眺めながらしたい”というのが偽りならざる本音なのだが、流石に初めての行為でそれを強いる気にはなれなかった。妥協案としてサイドテーブルに置かれた電気スタンドを指し示すと、ファイツはその一点に目を留めたまま固まってしまった。
「お前の気持ちも分かるが、後学の為にも多少は明るいところでしたいんだ。どこにどう触れたらお前が感じてくれるのかを、しっかりと頭に入れておきたくてな。もちろん、ボクがファイツの身体を見たいと思っていることは否定しないが」
「…………」
電気を点けたまま行為をするのは流石に抵抗があるらしい彼女は、中々答を返さなかった。うんうんと唸っている彼女に、「無理ならはっきり断ってくれていいぞ」と苦笑混じりに告げる。
「……あ、あの……」
「ああ」
「い、一番暗くしてくれるなら……。その、いいよ……?」
「……ありがとう」
悩んだ末こちらの要求を飲んでくれた彼女にしっかりと礼を言ったラクツは、電気を消す為に足を踏み出した。電気のスイッチがある場所までは決して遠くないのに、そのわずかな距離が何故だかやけに離れているように思えて仕方がなかった。パチンという微かな音が鳴ると同時に部屋を照らしていた明かりがその機能を失ったが、真っ暗な中でも正確に目的の場所にたどり着いたラクツは電気スタンドを点けると即座に明るさを調整した。すると、ほのかな明かりに照らされたファイツの姿がぼんやりと浮かび上がる。
「……これでいいか?」
「うん……」
薄暗くなったことでますますそういう雰囲気になったと感じたのは、どうやら自分だけではないらしい。途端にそわそわと忙しない様子を見せ始めたファイツに目を細めつつも、「服を脱ごうか」と呼びかける。恥ずかしがりやなこの娘の為にもまずは自分が脱いでしまうのがいいだろうと判断したラクツは寝間着を手早く脱ぐと、床に置かれたかごに放り込んだ。続けてズボンに手をかけたところで、彼女の蚊の鳴くような「待って」がかかった。
「……えっと……。あのね、全部は脱がないで欲しいの……」
「……何故だ?」
「だって、何だか恥ずかしいんだもん…。だからラクツくんはまだ脱がないで…?その、今は上だけで……」
「ボクは別に構わないが、お前はそれでいいのか?自分だけ裸体を晒す方が、余程恥ずかしいと思うが」
「い、いいの!……待っててね、すぐ脱いじゃうから………。……あっ!」
胸元までボタンを開けたままの寝間着を脱ごうとしていたファイツは、またもや何かに気付いたような声を上げた。別に急かしているわけではないが、2回目のそれに「今度はどうした」と問いかけてみる。
「あの……。ちょっとだけでいいから、部屋に戻らせて欲しいの……」
「ダケちゃんが気になるのか?」
「ダ、ダケちゃん……?……あ、えっと……。そういうわけじゃなくて……」
「……ボクとの行為が怖いのなら、正直に言ってくれていいんだぞ」
「ち、違うの!だから、あのね……っ」
寝間着を掴んでいた手を今はあたふたと動かしている彼女は、どう見ても困り果てていた。もしかしたらこう尋ねることで更に困らせるかもしれないなと思いつつも、ラクツは「出来れば理由を聞かせて欲しい」と告げてみた。彼女の様子が気になって仕方なかったのだ。軽く見積もっても10秒は経過しただろうか、黙ったままだったファイツがおずおずと「だからね」と言った。
「……も」
「も?」
「も、もっと……。色っぽいものにしようと、思って……」
「…………」
「今日すると思ってなかったから」と蚊の鳴くような声で言ったファイツを、半ば呆然と見つめる。多分自分の為に下着を換えようとしてくれているのだろうと悟りつつも、この娘はいったい何を言っているのだろうかとラクツは胸中で呟いた。ファイツの色香に抗えなかった故に押し倒したというのに、彼女はこの期に及んでも自身の魅力をまるで理解していないらしい。脱力感を覚えると同時に、唇からは盛大な溜息が漏れる。
「ご、ごめんね……。呆れちゃうよね、さっきのうちに換えれば良かったのにね……っ」
何かを誤解したらしいファイツは「本当にごめんね」と繰り返すばかりだった。今にも戸を目指して駆け出しそうな気配を肌で感じたラクツは、彼女を背後から優しく抱き締める。硬直した彼女には構わずに、その真っ赤な耳元に唇を寄せた。
「あ……っ」
「色香なら、もう充分過ぎる程に出ている。ボクへの気遣いはありがたいが、わざわざ換えて来る必要はないぞ」
「ほ、本当……?」
「ああ。特に、先刻のお前の色香はすさまじかった。寸でのところで押し止めたが、危うくあの場で行為に及ぶところだった」
ファイツを気遣って言ったのではなくて、これは本当のことだった。理性が勝つのが後少しでも遅かったら、多分自分はこの娘をあの場で抱いていただろう。背後から抱き締めている以上顔は見えないが、彼女はどこか嬉しそうに「そうなんだ」と呟いた。
「じゃあ、えっと……。ぬ、脱ぐね……?」
「……ああ」
身体をそっと離したラクツは、ゆっくりとした動作でファイツが寝間着を脱ぐ様子をじっと見つめていた。制止こそされなかったが、自分に見られながら衣服を脱ぐ行為が余程恥ずかしいらしい彼女の顔は薄暗い中でもはっきりと分かる程に赤く染まっている。これからもっと恥ずかしいことをするというのに、既にこんなにも恥ずかしがっているこの娘はどこまで初なのだろうとラクツは思った。もちろんそこが可愛くもあり、同時にこちらを酷く悩ませるのだけれど。
「……ぬ、脱いだよ、ラクツくん……」
「……ああ。かごに入れておくから、ボクに渡してくれ」
「あ、ありがとう……」
丁寧に畳んだ寝間着をかごに入れ終えたラクツは、真っ赤な顔で立ち尽くしている下着姿のファイツを見つめる。控えめな性格を表したかのような薄い青色の下着をまとっている彼女は、世辞抜きに綺麗だった。
「綺麗だな、ファイツ。よく似合っているぞ」
「……ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しい……」
はにかんだファイツの手を取って、今度こそベッドへと導く。普段自分が寝ている場所へそっと座った彼女に密着するようにして、ラクツもまた腰を下ろした。背筋を不自然な程に伸ばしてベッドに腰かけているこの娘の豊満な胸と括れた腰、そして眩しい程に白い太ももが堪らなくこちらの目を引いたものの、ラクツはすぐにでも触れたいという欲望を抑えて彼女の顔へと視線を移した。
「ファイツ」
自分に名を呼ばれたファイツが、大袈裟な程に身体を震わせてからこちらにそろりと顔を向ける。見るからに緊張している彼女を安心させるように、ラクツは口元に柔らかい笑みを湛えた。今ではこれが自然に出来るようになったのも、きっとこの娘のおかげなのだろう。
「優しくするから。……だから、いいか?」
「……うん」
実に小さな声でそう返しつつもしっかりと頷いてくれたファイツが、そっと瞳を閉じる。ラクツはそんな彼女に柔らかく目を細めて、ゆっくりと顔を近付けた。そして、この世で唯一愛する娘の唇と自分のそれを、宣言通りに優しく重ね合わせた。