崩れた境界線 : 003

どきどきが止まらない
ただ唇同士を触れ合わせるだけだと言ってしまえば確かにそうなのだけれど、ファイツにとってキスとは大好きな人との愛を確かめ合う大切な行為に他ならなかった。ラクツにキスをされるだけで、ファイツはものすごく幸せな気持ちになる。日だまりの中にいるような温かさが心の奥底から溢れ出て来て、とにかく満ち足りた気持ちになれるのだ。だけどそれはあくまで平常での話であって、普段とは比べ物にならない程緊張していたファイツは大好きな人とのキスでものの見事に身体を硬くさせることとなった。

「ん……っ」

「優しくするから」と告げてくれたラクツがその言葉通りに優しく、だけど何度も唇を重ねて来る。啄むようなその口付けはむしろいつも以上に優しいと言えるものだったのだけれど、それでも胸の高鳴りは少しも治まってくれない。目を瞑ったことで視界が真っ暗になっている為なのか、このどきどきがやけに大きく聞こえるような気がしてならなかった。

「あ、ふ……っ」

いつも以上に優しいキスを、しかしいつもとは違って何度も落とされていることが大きいのだろう。いつの間にか自分の唇からは吐息が漏れ出ていて、その事実もまたファイツの胸の高鳴りを強くさせるのだ。触れるだけのキスでこんなにもどきどきしてしまうなんて、それこそ彼に初めて口付けられた時以来ではないだろうか?唇同士を触れ合わせるだけのキスを数回されただけなのに、既に息苦しくて仕方がない。これから行うキス以上のことが、どうしたって頭に思い浮かんでしまう所為なのだろう。

「んあっ……!?」

身体をがちがちに硬くさせながら彼のキスにどうにか応じていたファイツは、これまでとは違うぬるりとした感触を唇に感じたことでびくんと肩を跳ね上げさせた。思い切り閉じていた瞳をそろりと開くと、少しだけ目を見開いている大好きな人の顔が間近に映る。その彼に自分の唇を舐められたのだと数秒遅れて察したファイツの顔には、自然と熱が集まった。ラクツとは既に数え切れないくらい口付けを交わして来たわけだが、唇を舐められたのはこれが初めてだったのだ。小さなことだとはいえどうにも恥ずかしくて、右手を口元に押し当てる。そんな自分の反応を見て柔らかく目を細めたラクツに今度は小指を優しく食まれて、ファイツの肩はまたもや跳ね上がった。

「ん、ふ……っ」

柔らかい唇で指先を挟まれるだけでも何とも言えない気持ちになってしまうのに、神経が集中している指先をざらついた舌で刺激されたらもう堪らなかった。恥ずかしいと思いながらも、ファイツはラクツの舌の動きに合わせて身体をびくびくと震わせた。程なくして口に含んだ指を離したラクツに「気持ちよかったか」と囁かれて、顔を赤らめながらこくんと頷く。大好きな人に指を舐められたというだけで恥ずかしさが込み上げて来るのだけれど、その行為は自分にとって確かに気持ちいいものだったのだ。

「そうか、感じてくれて嬉しいぞ。……今しがたの反応からすると、どうやらお前は随分と感度がいいらしいな」
「ラ、ラクツくん……っ!そんなにはっきり言わないで……っ」

大好きな人にはっきりとそう告げられたファイツは、恥ずかしさで目を潤ませながら弱々しく反論する。だけど自分の恨みがましい視線を受け止めたラクツは、くすくすと忍び笑いを漏らすだけだった。

「別に恥ずかしがる必要はないだろう?むしろファイツが敏感で良かったとボクは思っているくらいだ、お前には存分に気持ちよくなってもらいたいからな。……さあ、身体の力を抜いてくれ」
「う、うん……」

大好きなラクツが顔を近付けて来たことで自分が次にされる事柄を何となく察したファイツは、どきどきと胸を高鳴らせながらも身体の力を意識的に抜いた。するとその直後に柔らかい何かが口内に入り込んで来て、予想通りの展開に胸のどきどきが強くなった。言うまでもなくその何かとは、大好きな人の舌だった。

「ん、んん……っ」

彼のざらざらした舌に歯列をなぞられて、今度は背筋がぞくりと震える。自分の口内を這い回っている舌が大好きな人のものである以上は嫌悪感など覚えるはずもないけれど、何とも言えないその感触に身体が勝手に反応してしまうのだ。初めて味わう大人の口付けに、ファイツはただただ戸惑うばかりで。あたしはいったいどうすればいいんだろうと固まっているうちに舌を彼のそれに絡め取られて、またもやファイツの背筋はぞくぞくと震えた。吐息とはまた違う鼻にかかったような甘ったるい声が自分から漏れていることに気付いて、顔中がかあっと熱くなったのを頭の片隅で感じ取る。酸素不足と何より恥ずかしさで頭がくらくらとし始めた頃、濃厚な口付けをもたらしていたラクツが唇をゆっくりと離した。

「……はあ……っ」

産まれて初めての濃厚なキスからようやく解放されたファイツは、涙目になりながらも酸素を求めてはあはあと荒い呼吸を繰り返した。ラクツが唇を離すのがもう少し遅れていたら、ものの見事に気絶していたかもしれない。そうならなくて本当に良かったとファイツは思った、この歳になってキスだけで気絶したなんてことになったら情けないにも程がある。

(あれが、大人のキスなんだ……。あんなすごいキスを、ラクツくんとしちゃったんだ……)

彼と自分との間に出来た、互いのものが混じり合った細い銀糸状の唾液に目を留めながらファイツは心の中でそう呟く。自分達が舌を絡ませ合う濃厚なキスをした証拠とも言える唾液が、重力に従って胸元にぽたりと落ちた。

(どうしよう、どきどきが止まらないよ……っ)

自分でも情けないなと思うのだけれど、あんなキスをされてすぐに平常心を取り戻せる程大人びていないのだ。こんな自分を待っていてくれているラクツの視線をその身に受けながら、ファイツはただひたすら深呼吸を繰り返した。