崩れた境界線 : 001

絶対に変わらないもの
ワンピースタイプのパジャマを着たファイツは、リビングのソファーの上でただ呆然としていた。それが起こったのはあまりにも突然のことで、何が起こったのかが分からなかった。歯磨きを終えてお風呂から上がったファイツは、大好きな人と一緒に夜のひとときをのんびりと過ごしていただけなのだ。それだけなのに、特に何をしたわけでもなかったのに。だけど気が付いたらファイツは、その大好きな人の手でソファーの座面に背中を押し付けられていたのだ。自分の身体の上に覆い被さっている彼を、ファイツは信じられない思いで見つめていた。

(い……。いったい何が、どうなってるの……?)

ソファーの前に置かれているテレビからは音声が流れているわけなのだけれど、その内容はまるで頭に入って来なかった。それどころか、何の番組を見ていたのかさえ最早思い出せない程だった。もうファイツの頭の中は、状況を整理することで精一杯だったのだ。熱に浮かされたように上手く働かない頭でどうにか導き出した答を、心の中でゆっくりと呟いてみる。

(や、やっぱりそうなんだよね……?あたしは今、ラクツくんに押し倒されてるんだよね……?)

背中にはソファーの柔らかい感触があって同時に白い天井が見えているわけなのだから、やっぱりこれはそういうことなのだろう。夢でも幻でも何でもなくて、自分は確かに押し倒されているのだ。幼い頃から想ってやまない、彼に。

「…………っ」

”大好きな人に押し倒されている”という事実を遅れながらもようやく理解した瞬間、ファイツの心臓がどきんと大きく高鳴った。それと同時に顔だけに留まらず全身がかあっと熱くなる。瞬きも呼吸も出来ないまま、ファイツはこちらを見下ろしている恋人をぼんやりと見上げた。拘束されているわけではないから両手は共に自由なのだが、指先1つ動かすことすら出来なかった。荒い呼吸を繰り返している彼の瞳はどこか虚ろで、そして何だか自分以上の熱がこもっているように見えるのだけれど、それはやっぱりそういう意味なのだろうか……。

(ど、どうしよう……っ)

完全にパニック状態に陥ったファイツは思わずさっと目を逸らして、頭の中でどうしようと繰り返し呟いた。何しろこういうことをされるのは産まれて初めてだったし、こんな彼を見たのも初めてなのだ。それに加えて自分の性格を思えば、この状況下で混乱するなという方が無理な話だった。それでもファイツは恋人に押し倒されているという状況の意味を知らない程無知ではないし、この期に及んで「具合でも悪いの」と尋ねる程不躾でも鈍感でもないつもりだった。自分の読みが正しければ、まず間違いなくラクツは”そういうこと”を望んでいるに違いないはずなのだ。

(ラクツくんもあたしも、17歳になったんだもん……。もう、子供じゃないんだもんね……)

そう、自分も彼ももう17歳なのだ。成人までは後1年あるわけだけれど、キス以上のことをしたって別に問題はないはずだ。むしろ、6年近くもつき合っているというのにキス止まりのカップルの方が今時珍しいのかもしれない。

(もしかしたら表に出さなかっただけで、あたしの為にずっと我慢してくれてたのかも……。ただでさえラクツくんはあたしに優しいのに、何だか悪いことしちゃったなあ……)

多分数年前に起こったとある一件が原因なのだろうが、ファイツは”そういうこと”に関する事柄全般を忌避するようになっていたのだ。その事実をラクツにはっきりと打ち明けてはいないものの、鋭い彼のことだから気付いていた可能性は充分にあり得る。そんなあたしをずっと気遣ってくれていたのかなあと声に出さずに呟いて、ファイツはそっと目を伏せた。男の人がそういうことをしたがる生物であることはちゃんと分かっているつもりだ。結婚を約束しているラクツとはキスまでしかしていない関係だけれど、数年前のとある一件のことを否応なしに思い出してちょっとだけ身体が震えたけれど、それでも大好きな彼とならそういうことをしてもいいと思った。こんな自分をずっと気遣ってくれていたお礼というわけではないけれど、ラクツが自分を求めてくれているというのならその気持ちに応えたいと思った。

(……ラクツくんと夫婦になったら、そういうことも当たり前にするようになるんだろうし……。だったら、今したって同じことだよね……?)

大好きな人に押し倒されている事実を認識してからどれくらいの時間が経ったのかは分からないけれど、ようやく意を決したファイツは緊張で震える唇を無理やりにこじ開けて深く息を吸った。大好きな人にこれから抱かれるのだと思うと、胸が壊れそうな程に激しく高鳴ってしまって仕方がなくて。そんな心臓を宥める為にも、ほんの少しだけでいいからとにかく時間が欲しかったのだ。

「ラ、ラクツくん……っ」
「…………」
「あ、あの……っ」
「……はあ……っ」
「…………」

「心の準備が出来るまでちょっとだけ待ってて欲しいの」とラクツに頼むつもりで口を開いたファイツは、しかしその言葉を最後まで言い切ることなく言葉を飲み込んだ。息を乱している彼の頬には確かな赤みが差していたし、よくよく見れば額に汗を滲ませてもいた。切なそうに眉根を寄せてこちらを見つめているラクツは酷く苦しそうで、そんな彼を見ていると何も言えなくなってしまったのだ。

(”待って”なんて、言えるわけないよ……っ)

女である以上は男の人が持つ性的な欲望についてはっきりとしたことは言えなかったが、それでも目の前にいる自分の恋人が今この瞬間も必死に欲望と戦っているであろうことがひしひしと伝わって来て、ファイツの胸はずきんと強く痛んだ。多分、彼は臆病な自分を想うが故にこんなにも我慢してくれているのだろう。そしてこちらが思っているよりもずっと、彼は自分に対して真摯な想いを向けていてくれたのだろう。そんなラクツにこれ以上”待って”なんて、とても言えるわけがない……。

「……っ」

迷ったのは一瞬だけで、ファイツはごくりと唾を飲み込むとソファーにつけていた両腕をゆっくりと持ち上げた。逃げ出しそうになる臆病な自分を心の中で叱咤しながら、ぶるぶると震える指で胸元にあるボタンを1つずつ開けていく。普段とは比べ物にならない程に時間がかかったものの、何とか下まで開け終えたファイツは恋人に見せつけるように胸元をはだけさせた。「抱いて」と言葉で伝えることも出来たのだけれど、行動で示さなければいけないような気がしたのだ。

「…………」

普段の自分からは考えられない行動に、流石に驚いたのだろう。ラクツの目が大きく開かれる様をゆっくりと見ていたファイツは、続けてパジャマの裾を軽く引っ張ってもみた。多分彼からは下着とその下の胸がある程度見えているはずだが、何となくこれだけでは不充分だと思ったのだ。自分の太ももが外気に晒されたのを肌で感じ取ったファイツは、縋るような視線を恋人に送ってみる。無言で見つめ合ってどれくらいの時間が経ったのだろう、長い間黙り込んでいたラクツが不意にはあっと溜息をついた。深い深い溜息だった。

「もう、限界だ……っ」

絞り出すようにそう言ったラクツの視線が露わになった胸と太ももに見事なまでに突き刺さっているのを感じながら、ファイツは小さく頷いた。やっぱり彼は、ずっと我慢してくれていたのだ。

「お前のそんな恰好を見せられて、これ以上我慢なんて出来るか……っ」
「……うん。我慢なんてしないでいいよ、ラクツくん。……今までずっと、我慢してくれてたんだよね?」

そうなんでしょうと尋ねれば、同じく頬を紅潮させたラクツがどこか気まずそうに頷く。そんな彼にファイツは「ありがとう」と口にした。もう何度も思って来たわけだけれど、彼のことが無性に愛おしく思えたのだ。自分の返しに眉をひそめたラクツが、今度は呆れ混じりの溜息をつく。

「……恋人とはいえ、お前は自分自身を許可なく押し倒した男に礼を言うのか。そこは一般的に言って、怒るところではないのか?」
「いいの。だって、ラクツくんなんだもん。それにあたしはラクツくんが大好きなんだから、何をされたって多分怒ったりしないよ」
「そういうことを軽々しく言わないでくれ……」

加減出来なくなると呟いたラクツにじっと顔を見つめられたから、ファイツは黙って彼を見つめ返してみた。緊張で胸の音がどんどん大きくなっていったけれど、それでもファイツは何も言わなかった。

「……ファイツ」
「うん」

大好きな人に名を呼ばれたから、ファイツは小さく頷いた。瞳に熱を讃えた彼が、どこまでもまっすぐにこちらを見つめて来る。

「筋を通す意味でも、そしてお前を大切にする意味でも、ボクはずっとお前を抱くことを我慢して来た」
「……うん」

どこまでも真剣な声で告げて来るラクツに、我慢させてごめんなさいと言いたい気持ちを堪えたファイツは短く答えて頷いた。ここで謝るのは、却って失礼な気がしてならなかったのだ。その代わりにありがとうと目で訴えてみたら、正確に意思を汲み取ってくれたらしいラクツが柔らかく目を細めたのだけれど、その笑顔が見れたのもほんの少しの間だけで。すぐに表情を真剣なものに戻した彼は軽く息を吸って、そして。

「情けないことだが、ボクももう我慢の限界なんだ。ファイツ、お前を抱いてもいいか?」
「……うん。えっち、しよう?」

大好きな人にまっすぐに欲求をぶつけられたファイツは、はにかみながらもそう返した。断れるはずがない、この人は自分にとって世界で一番好きな人なのだから。例えどれだけ月日が経とうとも、それだけは変わらないと自信を持って言い切れる。自分を起こしてくれたラクツに「部屋に行こう」と誘われたファイツは、頬を染めてこくんと小さく頷いた。