幸せの在処 : 003
恥ずかしいけど幸せで
恋人に手を引かれて彼の寝室へと足を踏み入れたファイツの心臓は、過去最大級にどきんどきんと高鳴っていた。これからいよいよラクツと初めての夜を過ごすのだから仕方ないけれど、それにしたってうるさい。あまりにうるさくてうるさくて、息苦しささえ覚えてしまう。痛いくらいに高鳴っている心臓を胸に手を当てて何とか宥め始めたファイツは、ふと視線を感じてはっと我に返った。自分の一歩前にいたはずのラクツがいつの間にか振り返っていて、そしてファイツのことをじっと見つめているのだ。その視線にファイツの背筋はびくんと震えた。決して怖いとは思わなかったけれど、だけど身体はかたかたと震えてしまう。「……服を脱いでくれるか?」
じっとこちらを見つめていた彼は、静かな声でそう言った。彼の吐息混じりのその声がとても色っぽいと思ったのは多分自分の思い違いではないだろう。どきどきと心臓が耳に鳴り響いている中で彼の言葉をどうにか理解したファイツは、何も言わずに小さく頷いた。息苦しくて堪らなくて、「はい」と返事をする余裕もなかった。すぐにベッドに押し倒されてしまうのかもしれないなんて思ったのだけれど、どうやらそういうわけでもないらしい。ちょっとだけ安心したような、いっそのこと早く押し倒されてしまいたいような……そんな矛盾した気持ちを抱きながら、ファイツはパジャマのボタンに手をかけた。その指は、情けない程にふるふると震えている。とんでもなく緊張している所為で、たった1つのボタンを外すという何でもない行為に長い時間をかけてしまった。それでも何とか胸元のボタンを全て外していよいよパジャマを脱ごうと腕を交差させたファイツは、だけどその格好のまま固まった。まっすぐにこちらを見ている恋人の視線が気になって気になって、もう仕方なかったのだ。しばらくの間彼と視線を合わせていたファイツは、さっと目を逸らした。
「あの……。ラクツくん」
「ん?」
「そんなに見られてると、脱げないよ……。だから、後ろを向いててくれる?」
「ああ……なるほど。それで、そんな恰好のままで固まっていたのか。てっきり、ボクに脱がせて欲しいと暗に言っているのかと思った」
「え……」
ファイツは瞳を瞬いて、頭の中で彼が言った言葉を繰り返した。程なくしてから視線を下に落として、彼の足元にある茶色いゴミ箱を見ながら口を開く。
「ラクツくんの、えっち……」
「それは仕方ないだろう、ボクだって歴とした男だぞ?もっとも、こんな考えを抱くのはキミに対してだけだがな。……それで、どうするんだ?いつまでもそのままの格好でいるなら、ボクが脱がせるぞ」
「じ、自分で脱ぐよっ!だ、だ、だから……あっち向いてて!」
ファイツは涙目になって、珍しくも強い口調でそう言った。「はいはい」と言いながら忍び笑いを漏らした彼の態度で、ファイツは自分がからかわれたことを悟った。
(余裕がないなんて言ってたけど、そんなの絶対嘘だよ……!)
また彼にからかわれるのは避けたかったファイツは、今度は声に出さずにそう呟いた。自分がお願いした通りに、ラクツが後ろを向いてくれていることを今一度確認してから、今の今まで着ていたパジャマを緩慢な動作で脱ぎ去った。自分の一番のお気に入りである淡い青色のパジャマを手に持って、そっと息を吐く。今身に付けている下着も一番のお気に入りのものだ。
「脱いだ服は、そこのかごに入れておいてくれ」
「う、うん……」
服を1枚脱いだ為なのだろう、急に心許なくなったファイツは声を震わせながら返事をして、彼が指差した方向に置いてあるかごの中に水色のパジャマを畳んで入れた。まだラクツに見られていないとはいえ、男の人と一緒にいる場で下着姿になるのはどうにも恥ずかしくて。だからファイツは、腕でしっかりと胸を隠しながらそっとベッドに腰かけた。本当なら彼のベッドに敷いてあるシーツを身体に巻き付けたかったのだが、流石に勝手に拝借するわけにもいかない。
「……ファイツ。そろそろ振り向いてもいいか?」
「ど、どうぞ……」
ゆっくりと振り向いたラクツと、下着だけになった自分の目がしっかりと合う。最初こそ自分の瞳を見つめていた彼の視線はすぐに胸元へ、そして更に下へと移って行った。つまり今の自分は恋人に全身をじっと見られているわけで、その事実にファイツの顔は見る見るうちに赤くなった。顔だけではなく、全身が燃え滾るように熱くなる。彼のまっすぐな視線にとうとう耐え切れなくなって、自分の裸足を見ながらファイツは口を開いた。
「そ……」
「…………」
「そんなに、見ないで……っ」
「無理なことを言うな。それに、キミはボクの好きにしていいと言っただろう。だからいくら懇願したところで、その頼みは聞いてやれないぞ」
「そ、そんなあ……」
確かにそう言ったのは紛れもない自分自身なのだけれど、だけどあまりに恥ずかしくて仕方がなくて。それでも好きにしていいと告げた以上、もう「見ないで欲しい」とはいえなかったから、代わりにファイツは腕で胸を覆い隠した。先程よりしっかりと隠しているつもりなのだけれど、やっぱり恥ずかしくて堪らなかった。腕がもう2本くらいあればいいのにとファイツは思った。
「そんなに思い切り隠さなくてもいいだろう。今のファイツはいつも以上に綺麗だぞ」
どこか呆れ混じりに告げられた彼の言葉は確かに耳に届いたものの、はいそうですかと素直に腕を動かす気にはとてもなれない。
「で、でも、恥ずかしいんだもん……。お、お願いラクツくん!」
「……何だ?」
「せめて……。せめて、電気を消させてください!こ……。このままじゃ、あたしは恥ずかし過ぎて死んじゃいますっ!」
あまりに緊張した為に思わず敬語になったけれど、そんなことは今の自分にとっては極々些細なことだ。いくら彼に笑われようと、それで電気が消されるなら大歓迎だ。ラクツは熱い視線を送りながらも目と口元を柔らかく細めたのだが、下を向いているファイツがそれに気付くことはなかった。
「それは困るな。……正直言ってかなり残念だが、今日は暗い中ですることにしようか」
「きょ、”今日は”って……。あの……そのうち、明るいところでするつもりなの?」
「そのつもりだ。今日はファイツの意思を汲むが、いつかは電気を点けたまましたいと思っている。やはり、その方が隅々までよく見えるからな」
「…………」
自分の斜め上から彼の声が聞こえることからも、多分彼はこちらをしっかりと見つめたまま今の言葉を言ったのだろう。だけどとてもそうする気になれなかったファイツは、眉根を寄せて先程と同じ言葉を口にした。ほんの少しだけど、彼のことを恨みがましく思った。
「……ラクツくんの、えっち」
「キミ限定で、な。……じゃあ、もう消すぞ」
「あ……」
ファイツの小さな声は、ラクツが電気を消したパチンという音に飲み込まれた。真っ暗になった為に自分の下着姿をそれ程気にしなくて良くなったとはいえ、ファイツの心臓はもう壊れそうなくらいに激しく高鳴ってしまった。とうとうもうすぐ始まってしまうのだという意識が、ファイツの脳内を瞬く間に埋め尽くしていく。
(ど……。どうしよう、すっごく恥ずかしいよ……)
どきどきとうるさく高鳴っている心臓のおかげで、ファイツは声を出すどころではなかった。何度も深呼吸をしながら胸を押さえた自分の耳に、衣擦れの音が微かに聞こえた。まだ目が慣れていないからはっきりとは見えないものの、ラクツもまた服を脱ぎだしたのだとその音で察したファイツは慌てて口を開いた。
「ラ、ラクツくん!……待って!!」
「どうした?」
「い、今……。服を脱いでるでしょう?」
「ああ」
「え、えっと……。お願い、上だけにして!その、全部は、あの……」
「……どの道、後でお互いの身体を全て曝け出すことには変わりないんだぞ?」
「そ、それはそうなんだけど……。で、でも……。その、やっぱり恥ずかしくって……」
「キミがそこまで言うなら、ボクはそれでも構わないが」
「…………」
彼の好きにしていいと言ったのはこちらなのに、気が付けば色々と自分の願いを聞いてもらっている。電気を消してもらったことも、そして服を今は全て脱がないと言ってくれたことも確かにありがたかったのだけれど、それでもファイツの心にはもやもやとした気持ちが渦巻いてしまった。しかしだからといって、「やっぱり電気を点けていいよ」とも「全部脱いで」と口にするのはどうしても出来なくて、ファイツはこんな時なのに自己嫌悪に陥った。深い溜息をつくと、すぐに「どうした?」とラクツの声が飛んで来る。その優しい声に何だか泣きたくなったけれど、ファイツは泣くのを堪えてぽつりと呟いた。
「えっと……。さっきから……わがままばっかり言ってるなあって思って」
「……わがまま?」
「うん……。だって、ラクツくんの好きにしていいって言ったのはあたしの方なんだよ?でも、結局ラクツくんが折れてくれたでしょう?だから……んんっ……」
ファイツはその後ろめたさと、純粋に謝罪の意味を込めて「ごめんね」と謝ろうとした。だがその言葉が口から出ることはなかった。ラクツの唇で自分の唇が塞がれたからだと気付いたファイツはそっと瞳を閉じたものの、すぐに彼の唇は離された。
「今、また謝ろうとしただろう。何故すぐに謝るんだ」
「だ、だって……。あたしはわがままばかり言ってるから……」
「むしろ、お前はもう少しボクに甘えるべきだと思うが。常日頃から、ファイツはボクに対して過剰に気を遣い過ぎだ」
「…………」
少しだけ不機嫌そうな彼の顔が、暗闇の中でぼんやりと見える。こんな時なのに、いやこんな時だからこそかもしれない。彼に初めて”お前”と呼ばれた日のことが脳裏に蘇って、ファイツの口元は弧を描いた。時々だけど、ラクツはこちらを”お前”と呼ぶのだ。他の女の子には絶対に使わない呼称だ。特別なのだと言われているような気がして、その度にファイツの心臓は音を立てるのだ。心臓をまたしても宥めながら、ファイツは思った。自分の気持ちも彼の気持ちも分からなかったあの頃が、今では酷く懐かしい。
「……何を笑っているんだ?」
「あ……。えっと、話を聞いてなかったわけじゃないの。……あのね、ラクツくんに初めて”お前”って言われた日のことを思い出しちゃって……。確か、”卑下するな”って言ってくれたんだよね?」
「……ああ」
「何だか懐かしいな……。ラクツくんと、その、こういうことをするような関係になるだなんて、あの頃のあたしは夢にも思ってなかったんだよ?もちろん嬉しいけど……」
「そうか……」
「それとね、あたしはラクツくんの気持ちに全然気付かなかったから……。だから、不思議だなって思っただけなの」
「そうだな。ファイツの鈍さには本当に手を焼かされた。まあ、それは今も変わっていないが」
「うう……。確かにラクツくんの言う通りだけど……。で、でも前よりは良くなったもん!」
「いや、ボクからすれば然程変わったようには見えないが」
「そ、そうなの……?」
今の状況も忘れて、ファイツははあっと溜息をついて肩を落とした。確かに自分は鋭い方ではないのだけれど、それでも少しは改善されて来たはずだと密かに思っていた。だから進歩がないと恋人に言われてしまったのは、ファイツにとってはかなりショックだった。
「そこまで落ち込むことでもないと思うがな。言っておくが、別に貶しているわけではないぞ?……しかし、自分がどれ程魅力的なのかという点についてはもっと自覚して欲しいと思っているが」
「み、魅力的って……。……あたしが?」
「ファイツの他に誰がいる。……しかし、この状況下でこんな話をするなんて、キミは随分余裕があるんだな?」
「え……?そ、それは、ラクツくんもでしょう?」
「ボクは”もう我慢の限界だ”と言っただろう。思い出話をするなら事が終わった後にしてくれ。今は、ボクのことだけを考えて欲しい」
「…………っ」
その言葉を聞いて、ファイツの心臓はどきんと音を立てた。暗闇の中に浮かんだ彼の顔が、自分のすぐ近くにある。
「ただでさえ、お前を抱きたくてもう仕方ないのに……。そんな姿のファイツを目の前にして散々焦らされた、ボクの身にもなってくれ……っ!」
「ん……っ!」
いきなりのキスだった。それ自体は別に特別なことではないし、先程もファイツは恋人にキスをされたばかりだった。だけど今ラクツにされているキスはいつものそれとは違っていて、だからファイツはただただ戸惑うだけだった。普段ならば唇同士が数秒間触れ合うだけで終わるキスが、未だに続いている。焦らしたつもりはまったくないのだけれど、彼にとってはそうではなかったということだろうか。だから自分は、こんなにも熱い口付けを彼にされているのだろうか。
「んん……っ……」
いつの間にかファイツの唇は彼の舌で以って強引にこじ開けられていて、口内には彼の舌が動き回る感触が確かにあった。決して嫌なわけではないけれど、どうしても他人の舌が自分の口内を這うその感触に背筋がびくりと震えてしまったファイツは、思わず身を引こうとした。しかし、ラクツの手で後頭部をしっかりと支えられている現状ではそれも叶わなかった。いつのまに彼に支えられていたのかと考える余裕なんて、今の自分にはとてもあるはずがない。ファイツは身を固くしたまま、ラクツによってもたらされた濃厚な口付けにひたすら浸っていた。
「ん……。あ、ふ……っ」
ざらついた舌同士が絡み合う感触は、自分にとって産まれて初めてのもので。いつもと違うキスに戸惑う暇もなく、ファイツは鼻にかかったような声を出した。出したというよりかは勝手に出ていたという方が正確だろうか。やけに甘ったるい声を出してしまったことに、上手く働かない思考の中でぼんやりと”恥ずかしい”と思った。自分のものとは思えない声を出してしまったというその事実だけで、既に死にそうになるくらい恥ずかしかった。
「っは……」
「ん……っ」
まるで永遠にも感じられるくらいの長い長い時間を経て、ようやくラクツの唇から解放されたファイツは、肩が上下する程に荒く呼吸をした。自分と彼のどちらのものか分からない唾液が太ももにぽたりと落ちたけれど、そんなことを気にする余裕はなかった。心臓の音が頭に鳴り響いてうるさい、それに息が苦しい。息苦しくて仕方がなかったファイツは酸素を求めてはあはあと深呼吸を繰り返した。しかし、それが出来たのも束の間のことだった。
「あ……っ」
ラクツの両手が自分の両肩に触れたと思った次の瞬間には、もうファイツの視界は反転していた。背中に感じた柔らかい衝撃で、ファイツは自分が恋人に押し倒された事実を悟った。何も言わずに自分の上に覆い被さっている恋人の顔を、ただひたすら見つめる。
(ラクツくんでも、あんな表情するんだ……)
暗い中でもはっきりと分かる、自分を押し倒している今の彼の表情は普段と全然違っていた。眉根を切なそうに寄せて、瞳には確かな熱を湛えている。恋人に押し倒されることになって初めて、ファイツは”余裕がない”と言った彼の言葉が偽りでも何でもない事実を悟った。
「……ファイツ」
「……っ」
自分を呼ぶその声も、どこか切なさが含まれているように感じられた。その声で、いよいよこれから彼と結ばれるのだとファイツは思った。そう思うとどうしようもなく恥ずかしくなるけれど、それでもファイツはラクツのことが好きだった。好きで好きでもう堪らなかったし、彼と結ばれれば絶対に幸せになれると思った。だから何も身に着けていない彼の背中におずおずと腕を回して、ファイツはそっと目を閉じた。