幸せの在処 : 002

我慢の限界
浴室から出てリビングへとやって来たラクツは、両手を膝の上に乗せた状態でソファーに座っている恋人の姿を視界に捉えて思わず苦笑した。基本的に行儀がいいファイツだが、それでも普段ならもっとリラックスしてソファーに座るはずなのだ。だが、今は不自然な程に背筋を伸ばした状態で行儀良く腰かけている。そんな彼女の顔は見るからに赤く染まっていたし、膝の上でピンと伸ばした両腕は小刻みに震えていた。彼女が今とてつもなく緊張していることは明らかで、しかしラクツはそれを察してもこれから行うことを取りやめる気はなかった。彼女の了承は既に得ているし、何よりもうラクツ自身の我慢が限界だった。この娘を抱きたくて抱きたくて、もう堪らなかったのだ。

「……ファイツ」

ラクツは、心底惚れているその娘の名を静かに呼んだ。ソファーに腰かけている彼女は、ラクツが名を呼んだ瞬間に大きく身震いした。ソファーの真正面に置かれたテレビの画面から視線を外さないまま、ファイツは小さく「はい」と答えた。呼びかけてから数秒の間隔をおいて発せられたその声は、どう聞いても震えているとしか言いようのないものだった。ファイツは膝の上に乗せた自分の手をぎゅっと握り締めたが、その拳も見事なまでにかたかたと震えている。全身で緊張を表現しているファイツに向けて、ラクツは”そんなに緊張するな”とは言わなかった。正確に言えば言えなかったのだ、何しろラクツだって緊張しているのだ。彼女のように震えることこそなかったものの、平素の自分と比較したらその差は歴然だ。だがそれは仕方ない、どうしたって仕方ない。心から愛している女をこれから抱こうというのだ、これで緊張しない男がいたらぜひともお目にかかりたい。

「…………」

ラクツは改めて恋人を、それも熱を込めた視線で見つめた。一度自分の家に帰って荷物を持って来たファイツは、現在ワンピースタイプのパジャマを着ている。布面積が特別小さいわけではない普通のパジャマだけれど、それでも充分過ぎるくらいに艶めいて見えた。普段結ばれている髪の毛は下ろされているし、おまけにファイツの身体からは仄かにいい香りが漂っていた。自分だって同じ石鹸を使ったはずなのに、何故彼女ばかりこうもいい香りがするのだろうか。そんな疑問を抱いたものの、すぐに些細なことだと考え直す。今はそんなことよりも、これからする行為の方が自分にとっては重要だ。早くこの娘を押し倒して、欲望のままに抱きたいとラクツは思った。流石に初めてのそれをソファーでするのはどうかと思うし、何よりいきなり押し倒すのは良くないと思うから行動には移さなかったけれど。

(……ファイツが、欲しい)

身体からいい匂いを振りまいているパジャマ姿の彼女を目にした所為なのだろう、ラクツはいよいよ限界が近いと思った。目を閉じて、深く息を吸う。そしてゆっくりと目を開けて息を深く吐き出して、ファイツを見据えたままラクツは言葉を発した。

「……ファイツ、いいか?」

シャワーも歯磨きも互いにもう済ませているし、いよいよ今から事を行うつもりでラクツはそう尋ねた。あれも既に用意してあるから、後はこの娘を寝室に連れて行けばいいだけになっている。しかし肝心のファイツが先程から動かないのだ。彼女はまるで石になってしまったかのように、身動き1つ取らなかった。おまけに唇さえも動かなかった。どうしたものかと、ラクツはソファーに座っている恋人を黙って見つめた。今すぐこの娘を抱きたいと思う、しかし同時に本当にこのまま致していいものかと思ってしまう。自分の我慢が限界に近付いていることは当然自覚しているものの、完全に天秤が傾いたわけではないのだ。ほんのわずかとはいえ、ラクツの理性はまだ残っていた。
本当に嫌なことは嫌だと断れるものの、この娘は基本的に押しに弱くて流されやすい性質をしている。それに相変わらず鈍感なところも、高校生だったあの頃から少しも変わっていない。しかし彼女がいくら鈍いとはいっても、流石に自分の言いたいことはきちんと伝わっただろう。そうに決まっている、そうでなければ「もらってください」なんて言葉はおそらく出て来ないはずだ。

(だが……本当にいいのだろうか)

流されやすいファイツのことだ、あの場の雰囲気に流されてしまった可能性は大いにある。今更”やっぱり嫌”とは言えずに、今になって内心後悔を募らせているのかもしれない。そんな後ろ向きな考えを抱いてしまうのは、彼女に”ずっと不安だった”と告げられた所為なのだろうか。
ラクツは今日まで、ファイツに手を出したことは一度たりともなかった。もちろん、ファイツに女としての魅力がないからなどという理由からではない。むしろまったくの逆で、ファイツはラクツにとってはとてつもない程魅力的に映っていた。いや、それは自分だけではないはずだ。高校生だった頃とは違ってこの娘とつき合っている事実を隠していないのにも関わらず、何人かの男が時折ファイツを下卑た目で見ていることをラクツは知っていた。今日だってそうだ、この娘の全身をまるで物色するように見ていた男があの場には複数人いたのだ。そういう気持ちで異性を見てしまうのは同性としてまあ分からないでもないが、その対象がファイツであるという事実は何とも不快なものだった。まったく、実に腹立たしい。本当に腹立たしかったから、キャンパスの外までファイツを強引に連れ出してしまったくらいだ。あえて言わなかったものの、そもそも当の本人はそういう目で見られていた事実にまるで気付いていなかった。流石にこの時ばかりはその鈍感さに感謝したし、別れると言われなくて良かったと心底安堵したものだ。けれど安堵したのも束の間、ファイツは「もっと魅力的にならないと」なんて、ラクツからすればとんでもないことを告げて来た。本当にとんでもないと思う、これ以上魅力的になられたら本気で理性が持たない。思わず、”ボクが日頃、どれ程我慢していると思っているんだ”と言いそうになったくらいだった。そうしなかったのは人が行き交う外で話すような話題ではないと思ったからだが、もう1つ、思うところがあった為だ。それは即ち、ファイツがこのような発言をしたのはラクツ自身にも原因があるのではないかという考えだ。

(多分、ファイツは悪い方向に解釈したのだろうな……)

ファイツを見据えたまま、ラクツは彼女に聞こえないように息を吐いた。いつまで経っても自分に自信が持てないらしいファイツに対して、ラクツはこれまで散々可愛いとか好きだとか愛してるだとか、そういった言葉を告げたものだった。もちろん口だけではなく、ちゃんと行動にも移していた。ファイツが恥ずかしがるから家の中でするだけに留めたものの、例えば2人でソファーに並んで腰かけている時とか、例えばファイツが満面の笑みを見せた時とか、例えば何気ない会話をした後にだとか。とにかく様々な場面でラクツはファイツの身体を抱き締めたり、その唇に自分のそれを重ねたものだ。確かに数え切れないくらいのキスはした、だが逆に言えばキスだけで終わらせていた。もちろんそれ以上の関係になりたくなかったわけじゃない。言うまでもなく、ラクツはファイツのことを抱きたいと常々思っていた。実際にそうしなかったのは、ただただファイツを気遣った故のことだ。
何しろファイツは、自分に抱き締められるだけで身体を固くするのだ。流石に最初に比べればキスもだいぶ慣れたようだけれど、それでもキスをされた後は真っ赤になってしまう程にファイツは初な娘だった。そんな可愛らしい反応をする彼女に自分の欲望をぶつけるのは気が引けて、だからラクツはファイツのペースに合わせようとキスまでで止めていたのだ。だがその所為で、この娘が”あたしは魅力的じゃない”と思ってしまったとしたら何ともやるせない。つき合い始めてからそれなりの月日が経つけれど、自分達は未だにキス止まりの関係だった。彼女の性格を考えれば、そのような考えを抱いたとしてもおかしくはない。
大切な存在であるこの娘を、ラクツはそれは大事にして来た。だから今日までそういうことに関する話題すらも出さなかったのだが、それでファイツを不安にさせていたのなら本末転倒だ。初である彼女を想うが故に止めていたキス止まりの関係を、そろそろ先に進めてもいいのではないか。そう考えたラクツは、思い切ってファイツを”誘って”みたのだ。だが、流石に人が行き交う場所で大っぴらに「抱きたい」と言う気にはなれなかった。だから遠回しに誘ったのだけれど、案の定鈍感なファイツは自分の言いたいことに気付いてはくれなかった。勘は悪くないのに、どういうわけかこちらの気持ちには酷く鈍感な彼女らしい反応だ。それに苦笑しつつも真剣な表情で言葉をつけ足してみたところ、ようやくこちらの意図を察してくれたらしいファイツは真っ赤な顔をして「はい」と頷いてくれた。おまけに「どうかもらってください」なんて、可愛いにも程がある言葉を言ってくれた。
正直帰宅してすぐにファイツを寝室に連れ込みたかったのだが、ラクツは自分に我慢しろと何度も言い聞かせてその衝動をどうにか抑えた。そして彼女が作ってくれた夕飯を食べて、彼女がシャワーを浴びている間に寝室の掃除と食器洗いを終わらせて、ようやく今に至るわけなのだが。

「ファイツ、大丈夫か?」

いくらファイツの了承を得たとはいえ、心にわだかまりを残した彼女を抱くのは本意ではない。だからラクツは、ファイツの顔を見ながらそう尋ねた。もし彼女の瞳に怯えの色がわずかでも見えたなら、非常に残念だけれど今夜抱くのは止めにしようと心に決めて。だが、当のファイツは何の反応も見せなかった。自分の名を呼ばれたことにまるで気付いていない様子で、真っ黒なテレビの画面をぼんやりと見つめている。

「……ファイツ?」
「きゃあっ!?」

再度彼女の名を呼ぶと、ファイツは大袈裟な程に悲鳴を上げて身体を大きく震わせた。その拍子に彼女が今着ている水色のパジャマの裾が捲れて、白い太ももが露わになる。今しがたの彼女の反応に、可愛らしいとか微笑ましいとか。そういった感想を普段抱くラクツだが、今は流石にそうも言っていられなかった。今すぐこの娘を押し倒したい衝動に襲われながらもなけなしの理性を総動員して、何とかファイツの太ももから視線を逸らす。あらぬ方向を見ながら、ラクツは口を開いた。

「……どうする?」
「え?どうする、って……?」
「気が乗らないなら、無理強いはしないと言っただろう。心の準備が出来るまで待ってもいいし、別の日にしても構わない」
「……ラクツくんは、やっぱり優しいよね。数え切れないくらいそう思ったけど、やっぱりすごく優しい人だよ。ラクツくんは、”そんなことない”っていつも言うけど」

電車に乗っている時から今まで相槌を打つばかりだったファイツは、ようやくいつも通りの調子で話し出した。それでもその声は普段とは比べ物にならないくらいに震えていたものの、ラクツは黙って彼女の話に耳を傾けた。

「ラクツくんは、いつもあたしに気を遣ってくれるよね。でも、こんな時くらいはラクツくんが思う通りにしてくれていいんだよ?あ、もちろんラクツくんが本当にそう思ってくれてるなら、だけど……きゃあっ!!」

言葉を最後まで聞くことなく、ラクツはファイツを思い切り強く抱き締めた。驚いたらしい彼女が声を上げるのにも構わずに、耳元に自分の唇を寄せる。

「……随分と可愛いことを言ってくれるな」
「ひゃああっ!?」

ファイツは先程より大きな悲鳴を上げて、びくんと身を震わせた。その反応に思わずラクツが身体を離すと、耳を押さえたファイツの姿が目に映った。顔を更に赤く染め上げている彼女の瞳は涙でうるうると潤んでいる。

「ファイツ……?」
「な、な、な、何するのラクツくん!」
「いや、何もしていないが……」

ラクツは嘘を言ったわけではなかった。自分がしたことと言えば、ファイツの耳元で囁いただけだ。特別なことは何もしていない。

「ええっ!?そんな!……だって、今……。あたし……」

自分の言葉に納得していない様子のファイツはそわそわと身動ぎながら、何とも落ち着かない仕草で指を擦り合わせている。そんなファイツを無言で見ていたラクツは、再び彼女の耳元に唇を寄せた。そしてファイツが何かを言う前より先に、その耳元に向かって小さく息を吹きかける。

「ひゃんっ!」

ファイツが発するその声を聞いたラクツは、近付けていた身体を離して彼女の顔を見下ろした。やはり耳を押さえたファイツは赤く顔を染め上げて、ほとほと困ったような顔で自分の顔を見上げている。その顔は、”わけが分かりません”と確かに言っているが、ラクツには合点がいった。どうやら思った通り、この娘は耳がかなり弱いらしい。そしてそのことを、当の本人はよく分かっていない様子だった。どこまでも初で可愛らしい彼女のことを、ラクツは愛しさと熱を込めた瞳で見つめた。

「あ、あの……。どうしたの……?」
「……いや。それより、ボクの好きにしていいと言ったな」
「うん……」
「そうか。お前が例えどれ程嫌だと言っても、その頼みは聞いてやれないぞ。途中で止めずに最後までする。……それでもいいんだな?」
「うん。嫌だなんて、そんなことないよ」
「……それ程震えているのに、か?」
「だ、だって……。やっぱり、どうしても緊張しちゃうんだもん……。あたしは、こういうことするのって…その、初めてだから……」
「…………」

ファイツのその言葉を聞いて、ラクツの胸中には嬉しいという気持ちが込み上げて来た。例えファイツが未経験でなかったとしても、この先彼女を愛しいと思う気持ちは何ら変わることはないと断言出来る。だが、それでもやはりファイツの初めての男になれるのはどうにも嬉しい。

「ご、ごめんね?その、いつまで経っても臆病で……」
「いや、それはボクも同じだ、だからキミだけが気に病む必要はない。ボクだって経験はないし……。この際白状するが、とてつもなく緊張している」
「……え。そうなの?」
「当たり前だろう。ファイツはいったいボクを何だと思っているんだ」
「……あ、その。ごめんね、そういう意味で言ったんじゃないの。ただ、今のラクツくんが緊張してるようにはとても見えないから、意外だなって思っただけで」
「キミにはそう見えるのか?」
「うん。いつも通り、落ち着いて見えるけど」

ファイツの何ともずれた物言いに、ラクツは思わず息を吐いた。彼女の顔を見下ろして、溜息混じりに「買い被り過ぎだ」と告げる。

「言っておくが、今のボクに落ち着きも余裕もないぞ」
「……え?」
「今のボクにあるのは、ファイツを思うままに抱きたいという欲だけだ。……いいかげん、もう我慢の限界だ。今すぐキミを抱きたい、抱きたくて仕方がない」

ファイツをまっすぐに見つめて、ラクツははっきりと自分の意思をぶつけた。これ以上にない程赤面した彼女が、何も言わずにこくんと頷くのが見えた。

「だから……。ファイツの初めてを、ボクにくれるか?」
「……はい」

蚊の鳴くような声で、だけどそれでも頷いてくれたファイツに柔らかく「ありがとう」と言ってから、左手を差し出す。その手に右手を重ねてくれたファイツを、立ち眩みが起こらないようにソファーからゆっくりと立たせて。そして世界で唯一愛した娘の手を引いて、ラクツは足を前へと踏み出した。