幸せの在処 : 001
それはつまり、そういうこと
ファイツは大学の構内で、恋人がやって来るのを待っていた。もう今日の講義は今しがた終わったところで、後は帰宅するだけとなっている。それは彼も同様で、だからファイツは恋人が姿を現すのを今か今かと待っていた。自分のすぐ近くを何人もの学生が通り過ぎていくのだけれど、肝心の待ち人は未だに姿を見せなかった。(まだかなあ……)
お互いの時間の都合がつく時には一緒に帰ろうねと言ったのはファイツだ。彼とは大学が同じなだけで学部は違うから、一緒に過ごせる時間を大切に過ごしたかったのだ。だけどいつもならもう下りて来てもいい頃なのに、ファイツの恋人は未だに姿を一向に現さない。どうしたんだろうと疑問に思う傍ら、別の気持ちが段々大きくなっているのを感じ取って、ファイツは少しだけ俯いた。柱に背中を預けてそっと溜息をついた。
(もしかしたら何かの用で先生に呼ばれて、それで遅くなってるのかなあ……。……それとも、それ……とも……)
思わずそう考えてしまって、ファイツはぎゅっと目を瞑った。何を考えてるのと、心の中で自分自身に言い聞かせる。こんなことを考えるなんて、自分のことを好きだと言ってくれる彼に対する裏切りでしかない。だけどいくらそう言い聞かせたところで、心に渦巻く不安は消えてはくれなかった。もしかしたら、彼は自分以外の女の子を好きになったのかもしれない。それで、彼は今この瞬間にその女の子と会っているのかもしれない。ファイツがこのような考えを抱くようになったのはこれが初めてではなかった。その度にファイツは自分自身を叱りつけて、そして激しい自己嫌悪に陥るのだ。
(こんなことじゃ……ダメ、なのに……)
きっと、彼はもうじきやって来るだろう。それなのに、大好きな彼と今から一緒に帰るのに、だけど自分は今こんなにも暗い気持ちになっている。これではいけない、彼に釣り合うような女にならなければと先日誓ったばかりではないか。いつだって優しくて、自分のことをいつだって気遣ってくれる。そんな彼に相応しい彼女になりたいと願ったのはファイツだった。これじゃあまた余計な気を遣わせちゃうよと、心の中で呟いた。落ち込むのはもう終わりにしなくちゃ、後もう少しだけ時間が経ったら顔を上げよう。ファイツはそう決めて自分の足元に視線を落とした、昨晩は雨だったから靴にはところどころに泥が跳ねてしまっている。その様は、まるで自分の心みたいだとファイツは思った。
「……ファイツ?」
「きゃあっ!」
突然自分のすぐ近くで名を呼ばれて、ファイツは思わず悲鳴を上げた。何人かの学生の視線が自分に集まったことに気付いて、更に身体を竦ませる。やっぱり慣れない、こればかりはどうしようもない。流石に高校生だった頃に比べれば幾分良くなっているとは思うのだけれど、他人にじろじろと見られるのはどうにも怖い。心には不安と焦りばかりが募っていくが、ファイツは声を出すことすらも出来なかった。せっかく目の前に待ちわびた恋人がいるというのに、嬉しいという気持ちよりも怖さの方が勝っていた。
「……帰るぞ、ファイツ」
黙っていた彼は溜息をついた直後にそう言ったかと思うと、ファイツの手を握って歩き出した。恋人に手を引かれることとなったファイツは驚いて名前を呼んだが、彼が歩みを止めることはなかった。ファイツが放してと頼んでも、彼はそうしてはくれなかった。結局そのままキャンパスを出るまで、彼はずっと自分の手を握ったままだった。
「……あの……。ラクツ、くん……?」
「何だ?」
恋人と共にキャンパスを出たファイツは、おずおずと彼の名前を口にした。キャンパスを出るまで無言だったラクツはその呼びかけに足を止めて、自分の呼びかけに答えてくれた。
(ああ良かった、振り向いてくれた……)
そのこと自体は嬉しかったし何よりホッとしたのだけれど、ファイツの戸惑いが消えることはなかった。だって、彼は自分の「放して」という頼みを聞いてはくれなかったのだ。何度そう頼んでも放さないばかりか、逆に強く握られる始末だった。それが嫌なわけじゃない、むしろ嬉しい。おかげですれ違う人にじろじろと見られてしまったわけだけれど、彼に手を握られているおかげかさっきまでの恐怖心は感じなかった。だけど何しろこんなことは初めてだったから、ファイツはすっかり戸惑ってしまった。
「えっと、もしかして……。今、怒ってる……?」
「……否定はしないな」
「やっぱり……。あたしがこんな性格、だから?」
「……いや。キミが何を考えているのは知らないが、ボクは自分自身に怒っているだけだ。ファイツを怖がらせるなんて何をやっているんだ、とな」
「そんな!ラクツくんは悪くないよ、あたしが勝手に悲鳴を上げて……勝手に不安になってるだけだもん!」
「不安、か。先程複数の人間に見られたことが、か?」
「違うの、そうじゃなくて……。……あっ!」
余計なことを言っちゃったと、ファイツは口を手で覆った。これは彼には内緒にしておこうと思っていたのに、いったい何を言っているのだろうか。ラクツが訝しげに眉をひそめたところをばっちり目撃して更なる気まずさに襲われたものの、ファイツはとうとう観念した。これ以上隠し通すなんて芸当は、自分にはとても出来るはずもないと思ったのだ。元々隠し事は苦手な上に、彼相手なら尚更だった。
「あ、あのね……。歩きながら話すけど、いい?」
「ああ」
大学の正門前で話すのは気が進まなかった、こうしている今だって通りがかった人間の視線が突き刺さっているのだ。彼に確認を取って、ファイツはゆっくりと歩き出した。大学から最寄り駅までは徒歩で数分の距離だから、早歩きだとあっという間に駅に着いてしまう。彼と少しでも長く話していたいが為に普段だってそうするのだけれど、今日は殊更ゆっくりと歩いた。それは単にどう話を切り出せばいいのか悩んでいたからなのだが、彼が自分を急かすことはなかった。一向に話を切り出さない自分を待ってくれているのだと悟ったファイツは、隣を歩く恋人の顔を見上げた。やっぱり彼は優しい、泣きたくなるくらいに優しい。
「……言いたくないことなら、無理に言う必要はないんだぞ」
「……ううん、大丈夫」
自分の視線を受けた彼が、静かな声でそう告げて来る。その言葉に思わず甘えてしまいそうになったけれど、ファイツは何とか踏み止まった。もう数え切れないくらいに甘えている現状、今更と言えば今更なのだが、それでも自分から”話す”と言った以上はちゃんと言わなくちゃいけないと思った。とうとう意を決したファイツは大きく息を吸った。
「……あたし、ね」
「ああ」
「あたし、ずっと……。ずっと、不安だったの。ラクツくんが、あたし以外の女の子を好きになったんじゃないのかなって……」
「……何故、そう思うんだ?」
ついさっきまでは静かだったはずのラクツの声は、明らかに低い。優しい彼を怒らせてしまったその事実だけで涙が出そうになったものの、ファイツはぐっと堪えて口を開いた。
「だ、だって……っ。ラクツくんってすっごく優しいし、おまけに大人びててかっこいいし……。あたしには本当にもったいないくらい、素敵な人なんだもん……!そんなラクツくんとあたしがつき合ってるっていうのが、今でも信じられなくて……」
「それで……。何故ボクが他の女に気があるという話になるんだ?ボクが好きなのはお前だけだと、何度も言っているだろう。つい先程も告白されたが、ボクははっきり断ったぞ」
「……今日遅かったのは、告白されてたから?」
「ああ、面識がない女にな。もちろん面識があったところで断るが。まったく……ボクが好きなのはファイツだけなんだがな」
「…………」
俯きがちになったファイツは、足元にある小石を蹴飛ばした。爪先に当たった小石が転がって、落ちている緑の葉が宙に舞った。
(やっぱり……。やっぱりラクツくんって、今でもモテるんだ……)
そういう星の下にでも産まれたのか、大学生になっても彼はよくモテていた。だが彼とつき合っている身としては複雑な気持ちでしかない。わざわざ言わないだけで、きっと頻繁に好きだと告げられているのだろう。自分にもっと女としての魅力があったらこんな事態にはならなかったのかもしれないし、彼に迷惑をかけることもなかったのかもしれない。そんな後ろ向きな考えが頭に浮かんで、ファイツは目を伏せた。
「うん……。そう、だよね……。ラクツくんは、あたしにいつも好きだって言ってくれるよね……。それが嫌だっていうんじゃないんだよ、むしろすごく嬉しいくらいなんだけど……。でも、どうしても不安になっちゃうの」
そう言いながら、自分はなんて臆病でわがままなのだろうとファイツは思った。日頃からあれだけ彼に愛の言葉をもらっている癖に、その言葉を素直に受け取れないばかりか不安なのだと打ち明けるなんて、わがままにも程がある。
「……ごめんね、こんなこと考えちゃって。これじゃあ、彼女失格……だよね」
「ファイツ。……まさかお前、ボクと別れたいのか?」
ラクツの問いかけに、ファイツは立ち止まって目を見開いた。自分でも嫌な娘だと思うが、それでも彼と別れるなんて絶対に嫌だった。ふるふると、何度も首を横に振る。その勢いと風によって髪の毛が思い切り乱れたけれど、それには構わなかった。
「わ、別れるなんて嫌だよ!だって、あたしはラクツくんのことが好きだもん!」
「ボクも同じ気持ちだ。ファイツのことが好きで堪らないし、お前と別れるのは嫌だ」
「……うん」
「……不安にさせて、すまない」
彼の言葉に、ファイツは「ううん」と答えた。今度はさっきよりずっと控えめに、だけどしっかりと首を横に振る。あれ程不安だったはずの心は、彼の言葉1つでポカポカと温かくなった。我ながら現金だとも思うが、好きなものは好きなのだ。自分に自信がないファイツだけれど、ラクツを好きな気持ちだけは誰にも負けないと思っている。
「ラクツくんは悪くないよ、あたしが勝手に不安になっただけなんだもん。……うん!ラクツくんの為にも、もっともっといい女にならなきゃ……!彼女のあたしがもっと魅力的になれば、もしかしたら告白される回数も減るかもしれないし。あたし、頑張るね!」
「…………」
「……あれ?」
彼の反応がないことを不思議に思ったファイツは目を瞬いた。気が付けば、隣を歩いていたはずのラクツの姿がなかった。慌てて後ろを振り向くと、足を止めた恋人の姿が視界に映る。
「ラクツくん、どうしたの?」
「ファイツ……。今の言葉は本気で言ったのか?」
「え?うん、そうだけど……。あたし、何か変なこと言っちゃった?」
「ボクが……。日頃、どれ程……」
ラクツはそう呟いたきり口を閉ざした、おまけに目を明らかに自分から逸らした。自分ならいざ知らず、彼にしては珍しい反応だ。頭の中にいくつもの疑問符を浮かべながら、ファイツは彼が何か言うのを待った。さっきのお返しというわけではないけれど、どんなに彼が長い時間黙ろうとファイツはひたすら待つつもりでいた。
「……今日の夜と……。それから明日は、何か予定はあるか?」
「え……?ううん、特にないけど……」
唐突に、それも思ったより早く訊かれて不意を突かれたファイツは、慌てて予定表を思い出しながら答えた。特別な予定は何もなかった。明日は土曜日で大学も休みだから、精々家でのんびりしようかなと考えていたくらいなのだ。
(もしかして、デートに誘ってくれたのかな?)
歩き出した恋人に合わせて、ファイツもゆっくりと歩き出した。風に吹かれて靡いた髪の毛を押さえながら、道端に落ちている葉っぱに目線をやった。もう少しで5月になる、彼の誕生日まではあっという間だ。
「……そうか。それなら、ボクの家に来るか?」
「え、いいの?」
「ああ」
「じゃあ、そうさせてもらっちゃおうかな。……嬉しい!」
今年は彼に何を贈ろうかなんて考えていたファイツは、ラクツの問いかけに瞳を輝かせて大きく頷いた。彼の家でデートをするのは結構久し振りだ。
「でも、珍しいね?ラクツくんの方からそう言うなんて」
大学生になったラクツは、今現在アパートで1人暮らしをしているのだ。彼の家にお邪魔したのは一度や二度ではないものの、いつもファイツの方から「今日お邪魔していい?」と尋ねるのが通例だった。もしかして、彼がそう言うのはこれが初めてなのではないだろうか。
「……そうだな」
「あ、そうだ!せっかくだし、今日はあたしがご飯を作るね!ラクツくんは何が食べたい?」
「じゃあ、和食がいい」
「分かった!ラクツくんって本当和食好きだよね、和食の中だったら……」
「……ファイツ」
「うん、何?」
和食の中だったら何が一番好きなのと尋ねようとしたファイツは言葉を遮られて、だけど特に気にするでもなく言葉を返した。普段自分の言葉を遮ることはない彼にしては確かに珍しい行動だが、そういうこともあるだろう。
「……ボクが何を言いたいか、分かるか?」
「……え?」
どうしてか足を止めてしまった彼に倣って、ファイツもまた立ち止まった。ラクツの言葉を頭の中で繰り返してみるが、さっぱりわけが分からなかった。眉根を寄せてラクツの顔を見上げると、彼は口元に笑みを浮かべた。だが、その柔らかな笑みはどこか強張っているようにファイツには思えた。首を傾げつつも、結局彼が何を言いたいのかが分からなかったファイツは素直に口を開いた。
「ごめんねラクツくん。あたし、よく分からなくて……」
「……そうか、分からないか。……じゃあ、こう言えば分かるか?」
「……?」
「今日……。ボクの家に泊まって欲しい」
「え……っ」
「そして出来ることなら、ボクと朝まで共に過ごして欲しい」
「…………」
ファイツは目を大きく見開いて、恋人の顔をまじまじと見つめた。先程までは確かに苦笑を浮かべていたはずの彼は、今や怖いくらいの真剣な表情をしている。
「……もちろん、無理強いはしない。気が進まないなら、はっきりと断ってくれていい。ボクに余計な気を遣う必要はない」
「…………」
その場に立ち尽くした自分を、幾人もの人間が追い越していく。中にはわざわざ振り返る人もいたけれど、そんなことは今のファイツにはどうだって良かった。自分の心臓の音が耳に鳴り響いてうるさいのと、恋人の言葉の意味を考えることにばかり気を取られていたのだ。
(今ラクツくんが言ったことって……。その、つまり……そういうことでいいのかな……。い、一緒に朝まで過ごしたいってことは……やっぱりそういう意味、だよね……。多分、それ以外にないよね……?)
熱に浮かされたようにぼうっとした頼りない頭で、それでも何とか答らしきものを導き出したファイツは、だけど何も言わなかった。直接口に出して言うなんて、とても出来そうにない。自分達はもう幼馴染じゃないわけで、自分達はちゃんとつき合っていて、だから別にそうなっても何の不思議もないと分かってはいるのだけれど。だけど頭では理解していても、心の方はついていかなかった。
(ど……。どうしよう、何にも言葉が出て来ないよ…)
頭が真っ白になった状態というのは、きっと今の自分のことを指すのだろう。何かを言わなければならないと分かってはいるものの、肝心の言葉が出て来ないのだ。ファイツが何を言うわけでもなくその場に立ち尽くしてから、いったいどれ程の時間が経ったことだろう。ずっとこちらを見つめていたラクツは、おもむろに息を吐いた。
「……無理を言ってすまなかったな、ファイツ。今の言葉は忘れてくれ。今日はいつも通りに過ごそう」
ラクツはそう言って、ゆっくりと歩き出した。ラクツは自分を気遣ってくれたのだろう、いつも通りの優しくて穏やかな声でそう告げてくれた。ほんのわずかな時間だけその場に留まっていたファイツは、程なくして足を前に踏み出した。その必要はまったくないのだけれど、気が付いたらファイツは走っていた。靴が汚れるのにも構わずに息を切らして走って、そして大好きな人の手を両手でそっと包んだ。
「……ファイツ?」
「……あ、あのっ……。ラ……ラクツ、くん!」
世界で一番好きな人の名をファイツは呼んだ、だけどそこまでが限界だった。とても彼の目を見て話すなんてことは今の自分には出来そうもなくて、だからファイツは自分が触れている彼の手を見つめながら口を開いた。何だか、彼に抱いている気持ちが分かっていなかったあの頃に戻ったような気がした。だけどもう自分達は恋人同士で、そしてファイツは、彼のことが世界で一番好きなのだ。そのラクツは多分、自分のことを求めてくれているのだろう。正直怖いという気持ちがまったくないわけではないものの、彼がそれを望んでいるならファイツも応えたいと思った。
「あ、あの……。あのね……っ。あ、あたしで良かったら、その……」
「……っ」
自分の言わんとすることを察したのか、ラクツが息を漏らしたのが聞こえた。このまま黙っていても伝わるとは思う、だけど言葉にしなければ意味がないのだとファイツは自分を奮い立たせた。心臓はもう激しく音を立てているし、頭は相変わらず熱いし、おまけに顔は自分でも分かるくらいに赤くなってしまっている。だけどそれは仕方ないと思う、何しろこんなことを言うのは人生で初めてのことなのだ。
「ど……どうか、もらってください……っ」
流石に、こんな場所で”あたしの初めてをもらってください”とはいえなかった。大きく息を吸った割には、何とか発した声は随分と小さなものになってしまった。元から声が大きくない上、恥ずかしい内容の言葉を口にした所為だろう。おまけに盛大につっかえてしまったけれど、そんな自分の声をラクツはきちんと聞き取ってくれたらしい。「ファイツ」と彼は一言、自分の名前を呼んでくれた。どきどきと心臓を激しく高鳴らせながら、ファイツは震える唇を無理やりに押し開いた。
「何?」
「いいのか?」
「……はい……」
「……本当に、いいんだな?」
ファイツは、世界で一番好きな男の人の問いかけにこくんと頷いた。正直怖いけれど、別に嫌なわけじゃない。きっと、数時間後には幸せな気持ちになっていることだろう。だけどどうにも恥ずかしくて堪らなくて、だからファイツは俯きながら歩いた。「行こう」と言った彼を見て歩くことも、彼に話しかけることも、今の自分にはとても出来そうにないとファイツは思った。