school days : 171
なみだめ
「……あ、ねえ!雪よ、ファイツちゃん!」夜道を歩いていたホワイトは、手の平に舞い落ちる存在に気付くと同時にそう叫んだ。「初雪じゃない」と言って、隣を歩いているファイツに向けてにっこりと笑ってみせる。可愛い可愛い従妹が、いつも通りはにかみながら「そうだね」と頷いた。その控えめな笑い方が可愛くて仕方なくて、ホワイトは無意識に腕を動かした。例によってファイツを思い切り抱き締めたくなったのだ。最早形骸化している”妹離れをしなくちゃ”という誓いを寸でのところで思い出したから、実際にはやらなかったのだけれど。きっと、変なポーズになっていたのだろう。不思議そうに小首を傾げた後で投げかけられた「どうしたの?」という問いかけには、曖昧に笑ってごまかした。
「初雪、かあ……。今年は降るのが随分遅かったね、お姉ちゃん」
「そうね。今年はもう降らないかと思ったわ。まさか、バレンタインの2日前に初雪だなんてねえ」
気を取り直してうんうんと頷く。白という名前の通り、ホワイトは白い色が好きなのだ。触れたら消える儚さも相まって、雪は特に好きだと言っても良かった。寒さと雪かきと移動の問題さえクリア出来れば、年中降っても構わないのにとすら思っている。
(せっかく降ったんだし、いっそ1週間くらい雪でも……ううん、それはやっぱり困るわね。ファイツちゃんは寒いのが特に苦手だもの)
自分でそう思っておきながら、ホワイトは自ら抱いた考えを一瞬で翻した。自然のことだから仕方ないとはいえ大事な従妹が困るのは嫌だったし、そのファイツが万が一雪で滑って転んだりしたら一大事だ。そう、それこそ彼女が倒れたあの事件と同じくらいの。
(……あんな思いは、もう二度としたくないものね)
白い雪が舞う中を歩きながら、そう独り言ちる。脳裏にはあの時の嫌な思い出が勝手に蘇って、ホワイトは何だか思い切り泣きたい気持ちになった。あの一件以来、自分がこの子に対してかなり過保護になっていることは自覚している。だけど、それは大目に見て欲しいとホワイトは思う。1人っ子である自分にとって、この子はいわば妹なのだ。大事な従妹兼妹を想うことのどこがいけないというのだろうか。
「お姉ちゃん!……お姉ちゃんってば!」
「え?」
改めてこの子を護らなきゃと気合を入れた時だった。その護るべき対象に話を振られたことで、ホワイトは間の抜けた声を上げた。自分の大事な従妹が、不満そうに頬を軽く膨らませている。そんな仕草も可愛いとホワイトは思った。
「……もう!あたしの話、全然聞いてなかったでしょ。”何が食べたい?”って何度も訊いてたのに……」
「ごめんね、ちょっと考え事してて……。……えっと、そうね……。全然聞いてなかったお詫びに、ファイツちゃんが決めたら?」
「え……?そんなのダメだよ、お姉ちゃんが決めなきゃ!だって今日は、お姉ちゃんの合格祝いなんだもん!」
「……ありがと。じゃあ、そうさせてもらっちゃおうかな」
「うん!あたしが払うから、お腹いっぱい食べていいからね!」
両手を握った従妹にまた「ありがとう」を言ったホワイトは、”合格祝い”という言葉の響きを存分に噛み締めた。そう、そうなのだ。受験が終わって自由を取り戻したホワイトは、つい数時間前に第一志望であるヒウン大学に通える権利を見事に手に入れたのだ。その名の通り悲運な結果に終わるのではないかと不安で堪らなかったことが、今では酷く懐かしい。苦しい受験勉強の思い出に浸りそうになった自分をホワイトは慌てて引き留めた。今度こそ、ファイツの問いかけに真正面から向き合わなければ。
(何にしようかしら……。こんなに寒いんだし、やっぱり温かいメニューがいいわよねえ)
特にこれといった好きな食べ物がないホワイトは、うんうんと頭を捻った。パッと思いつくのは甘い物で、強いて言うならアイスくらいだったが、流石にこの寒い中でアイスを食べる気にはなれなかった。
「……綺麗だね、お姉ちゃん」
「綺麗だって、雪が?それともアタシが?」
「え……っ。……その、どっちも……っ。……きゃあ!」
食べたい物について思考を巡らせる傍らで今度はちゃんと従妹の声を聞き取っていたホワイトは、困りながらも話を合わせてくれた従妹の可愛さに呆気なく陥落した。そのままぎゅうっと、ファイツを思いのままに抱き締める。常日頃から妹のようにファイツを可愛がっている自分が、従妹離れをするなんて最初から無理だったのだ。開き直ったホワイトは、彼女を抱き締める腕に力を込めた。「何するの」なんて言っているファイツは、わたわたと腕を動かしている。
「お、お姉ちゃん……っ!」
「えー?別にいいじゃない。だって、ファイツちゃんが可愛いんだもの。そのコート、とってもよく似合ってるわよ」
「そ、そうかなあ……?」
「そうよ!すっごく可愛いっ!」
ホワイトは力いっぱい頷いた。実際、今のファイツはものすごく可愛いと思っている。クリスマスデートの際に着ていたピンク色のコートを身にまとった彼女だって、もちろん可愛かった。だけどおろしたての薄い水色のコートを着ている今の彼女は、あの時に負けず劣らず可愛いとホワイトは思うのだ。そして、今日はいい日だとも思った。第一志望からの合格通知を受け取ったばかりだし、こうして雪まで降っている。更には大好きな従妹とお揃いコーデでこれから夜ご飯を食べるとなれば、テンションが上がらないはずがない。
「やーねー、何謙遜してるのよ。ピンクも似合うけど、水色も同じくらい似合うわよね」
「あ、ありがとう……。お姉ちゃんだって……じゃなくてっ!いいから離れて、お姉ちゃん!誰かに見られたら困るから……っ!」
「平気よ平気。だって、ここは人通りが少ないし……」
「おや?……そこにいるのは、もしかして……」
「え?」
「きゃあ!」
不意をつかれたことで緩んだ腕から、悲鳴を上げた従妹がするりと抜け出した。間違いなく第三者の声を聞き取ったホワイトは、口をポカンと半開きにして振り返った。まさか、このタイミングで別の誰かに出くわすとは思わなかったのだ。
「もう、だから言ったのに……っ!」
一瞬で涙目になったファイツにじろりと睨まれたホワイトは、ごめんねと謝るより先に従妹の前に進み出た。ファイツが自分の背中にちゃんと隠れていることを確認してから、夜道のど真ん中に立っている人物を訝しんだ目付きで見つめる。つい今さっきまで感じていた幸せな気持ちは既になくなっていた。
(おじさん、よね。……どう見ても)
その人物の見てくれは、ところどころに無精ひげの生えた、背の高い痩せた中年男性といった感じだった。よれよれのコートを着込んで、左手にコンビニ袋をぶら下げている。半透明のビニール袋からは、缶ビールが入っているのが確認出来た。頭の中を検索してみたが、少なくとも自分にはまったく見覚えのない人物だ。怪しいにも程があるおじさんだとホワイトの直感が囁いた。怪しくて、おまけに危ないおじさんだ。かなりくたびれた古めかしいコートを着ているところとかが、特に。
「……あ!ダメよ、危ないおじさんに近付いちゃ……!アタシの後ろに隠れてなさい!」
ただでさえ街灯が立っているだけの暗い夜道だ。おまけに背中に隠した所為もあって、顔がよく見えなかったのだろう。その人物に近付こうとした従妹を、ホワイトは慌てて引き止めた。大切な従妹を不審者に近付けるわけにはいかない。この子に何か遭ったら、叔母に顔向けが出来ないではないか。
「ち、違うのお姉ちゃん。多分、あたしの知ってる人だと思うから……」
「え?」
「あ、やっぱり!」
「ああ、やっぱり!ファイツちゃんじゃないか。体調はもういいのかい?」
ファイツと、そして知らないおじさんと。2人が発した”やっぱり”は、ものの見事に同じタイミングだった。従妹の名前を呼んで朗らかに挨拶したおじさんを、ホワイトは唖然として眺めていた。ファイツもファイツで、不審人物でないと分かったからなのかホッと胸を撫で下ろしている。
「こんばんは、ハンサムおじさん。この前はお世話になりました。本当なら、おじさんのところに直接お礼を言いに行かなきゃいけないのに……」
「いやいや、いいんだよ。むしろ、キミにそこまで気に病まれると私の方が困ってしまうくらいだ。ファイツちゃんが元気で過ごしていてくれることが、一番のお礼だよ」
「ハンサムおじさん……」
感極まったらしいファイツが目尻を擦る様子を、ホワイトはやっぱり呆然として眺めていた。雪の白と、赤くなった従妹の目尻と。何故だかその2色がやけに目について仕方なかった。
「……あ。お姉ちゃん、この人はハンサムおじさんって言うんだよ。ラクツくんのお父さんで、刑事さんなの。おじさん、この人はホワイトお姉ちゃん……。……えっと、本当のお姉ちゃんじゃなくて、あたしの従姉なんです」
「ああ、従姉なのか。ファイツちゃんのお姉さんかと思ったが、よく似ているね。自己紹介が遅れたが、ハンサムという。よろしく、ホワイトちゃん」
”不安にさせてしまってすまなかったね”。その言葉通り本当にすまなそうに頭を下げたハンサムを、ホワイトはどこまでも呆然として見つめていた。
「……ところで、おじさんはどうしてこんなところに……?」
「ああ、いや。実はこれからラーメンを食べに行くところでね。この道は近道なんだ」
「そうだったんですか。確かに寒いですもんね!あたし、まさか今日雪が降るとは思わなくて……」
「同感だ。ファイツちゃん達も外食に行く途中だったのかい?」
「はい!……えっと、お姉ちゃんの合格祝いも兼ねて、です!」
「おお!それはめでたいことだ!おめでとう、ホワイトちゃん。……それにしても冷えるな。息子の……いや。ブラックが言い出したことなんだが、リクエストがラーメンで良かったと思っているよ。こんな日は温かい物を食べるに限る」
「はえ?……おじさん1人じゃないんですか?」
「はは、今日は違うよ。ブラックと一緒にラクツも来るはずだ。2人とは現地集合することになっていてね」
「え……っ」
どうしてかそれきり口を噤んだ従妹と入れ替わりで放心状態から蘇ったホワイトは、震える唇をどうにか動かした。ぶるぶると小刻みに震えているのは、決して寒いからではなかった。いや、今だって寒いことは寒いのだけれど。
「あの、あの!えっと、ハンサムさん……っ!」
「……ん?何だい、ホワイトちゃん。……ん!」
「本当に、申し訳……きゃあ!」
ハンサムがラクツの父親ということはつまり、ブラックの父親でもあるということなのだ。そうとは知らなかったとはいえ、かなり失礼なことを言ってしまった。どうしてもその非礼を詫びたかったホワイトが最後まで言い切る前に悲鳴を上げたのは、単純にこのタイミングで肩を叩かれたことに驚いたからだ。おそるおそる振り返ると、すぐ後ろに灰色のコートを着込んだブラックが立っていた。ところどころについた雪を払い落としながら、だけど不思議そうな顔でこちらを見つめている……。やっぱり彼の顔立ちはかなり整っている。心の中で改めてそう思った途端に、心臓がどきどきと高鳴った。
「誰だと思ったらやっぱり社長じゃん!……よう、社長!それにファイツも。こんなところで何やってんだ?」
「ブラック、女性に気安く触れるのは失礼だぞ。ホワイトちゃんに謝りなさい」
「ちぇー……。悪かったな、社長。……社長?どうした?」
やっぱり不思議そうな顔をしたブラックが、眉間に皺を寄せつつこちらを覗き込んでいる。そんな彼に心臓がどきどきと高鳴っていることを悟られたくなかったホワイトは、一歩も二歩も後ずさりした。そして羞恥心と申し訳なさで涙目になりながら、「アタシこそごめんなさい」と言った。