school days : 170
金剛・真珠・白金
「ありがとうね、パール~。オイラだけじゃ絶対無理だったよ~」ベルリッツ家を出るや否やぺこりと頭を下げたダイヤモンドに、パールは頬を掻きながら「別にいいって」と返した。幼馴染兼親友兼漫才コンビの相方が相手とはいえ、こうも素直に面と向かってお礼を言われるとどうしたってむず痒い気持ちになるのだ。女の子達にチョコレート作りを教えるという一大イベントを終えたからなのか、それともお礼を言ってすっきりしたからなのか、はたまた別の要因か。とにかく今のダイヤモンドは晴れ晴れとした顔付きをしているとパールは思った。そのダイヤモンドが、相変わらずのんびりとした調子で「そんなことない」と続けた。
「パール。オイラ、すっごく感謝してるんだよ~」
「あー……。だからさ、礼はもういいって。オレは別に大したことしてないし」
「え~。……そうかなあ」
「そうだよ」
珍しく食い下がったダイヤモンドに、パールはそう言い切ってみせた。”別に大したことはしていない”。それは卑下や謙遜から飛び出した言葉ではなくて、心から思っているからこそ出た言葉だった。どうせ暇だったし、何よりもダイヤモンドの頼みだということもあって、パールはチョコレート作りのつき添いを二つ返事で引き受けた。だけど終わってみれば、自分がつき添った意味は果たしてあったのだろうかとパールは思った。ダイヤモンドとは違ってお菓子作りが得意でも何でもない自分がしたことといえば、精々皆の様子を眺めるとか、後は同じ陸上部であるサファイアと話したくらいだ。これなら手伝えそうだと思った後片付けだって、ほとんど女の子達がやってしまった。こんなことなら、むしろ自分は来なかった方が良かったのではないか。今更遅いけれど、感謝してくれているダイヤモンドには悪いけれど、パールは冬の寒空の下を歩きながら内心でそう思った。
(このチョコだって、すっげえ高いやつなんだろうしなあ……)
はあっと溜息をついたパールは、右手に持った黒い紙袋をちらりと見下ろした。それは帰る前になって、「せっかく来てくださったのですから」と、ベルリッツ家の使用人達に渡された物だった。見るからに高級そうな漆黒の紙袋には、金色の文字で”ミアレ”と印字されている。そこまでお菓子に詳しくないパールだって知っている、高級なチョコレートを取り扱っているブランドだ。
パールはまたしても溜息をついた。白い息が、冬の空に浮かんで消えた。チョコレートが嫌いなわけではなかった。むしろどちらかといえば好きな方なのだけれど、日頃口にしているそれはコンビニやスーパーで売っている、いわゆる安物なのだ。一庶民である自分がこんな高級チョコレートを食べる機会は後にも先にもないだろう。1個30円のチョコレート菓子である超・ライジングサンダーならともかくとして、ほとんど何もしていない自分がミアレのチョコレートを本当にもらっていいのかと、やっぱり気が引けてしまう思いだった。そうは言ってもそこは食べ盛りの身だし、何よりせっかくの好意を無碍にするわけにもいかないから、ありがたく食べるつもりでいるけれど。
「……って、ダイヤ!お前、もう食ったのか!?」
何気なく、本当に何気なく隣を見たパールは人目を憚らず叫んだ。感傷にどっぷり浸っているうちに、ダイヤモンドは渡されたお土産を全て平らげてしまったらしい。そうだった、いつもおっとりのんびりしているダイヤモンドだけれど、こと食べる速さに関しては自分以上なのだ。口の周りをチョコレートでものの見事に汚している親友に対して、パールは呆れ混じりにポケットティッシュを差し出した。「女の子の家に行くんならこれくらい持ちなさいよ」と、母親に半ば無理やり押し付けられたティッシュがここに来て役立った。
「だって~。すっごく美味しいチョコなんだもの~。オイラ、食べる手が止まらなくなっちゃったよ」
「お前なあ……。まあ、ダイヤらしいといえばそうか……」
「パールは食べないの~?」
「いや、オレは家に帰ってから食うよ。こんな高級品、味わって食わなきゃもったいないしさ」
宣言するように言い切って、パールはぐぐっと伸びをした。そしてぶるりと身震いする。コートとマフラーをしっかり身に着けているとはいえ、冬空の下で歩くのはやっぱりかなり寒かった。
(飯をご馳走になったとはいえ、それでも寒いよなあ……)
パールは空を見上げた。雪こそ降っていないが、今日が寒い日であることに変わりはない。腹いっぱい食ったのに冷えるぜと、心の中で呟いた。特に何もしていないパールは、チョコレートを冷やしている間に振舞われたベルリッツ家での豪勢なランチに気後れしながらも舌鼓を打ったものだ。焼き目が程良くついたオマール海老のクラブハウスサンド、それに野菜たっぷりのコンソメスープ。軽食で申し訳ありませんがとプラチナは言っていたが、自分達に振舞われたランチはパールが今までに食べたどのランチよりも美味いと言い切れるものだった。
それでもこれ以上厚かましくはなれなかったパールは、実に美味かったランチを食べ終えてひと休みした後で、用事があると言ってダイヤモンドと一緒にベルリッツ家を後にしたのだ。実際嘘ではなかった。日曜日の夕方にやっているいつもの漫才番組を、親友と一緒にリアルタイムで観たかったのだ。「ご自宅まで車で送りますよ」と言ってくれたパカと名乗った運転手の申し出を、高級にも程があるランチとチョコレートを頂いた上にそこまでしてもらうのは悪いからと丁重に断ったのは自分だ。だけど今から思えば送ってもらえば良かったかなと、パールは自分の選択をちょっとだけ後悔した。パカとよく似ていたウージにも「今日は冷えますから送りましょうか」と言われたのだけれど、ダイヤモンドだけでも送ってもらうべきだったかもしれない。
「なあ、ダイヤ。……いや、ダイヤモンド」
「なあに~?」
「悪かったな、オレにつき合わせちゃって。寒いだろ?」
「いいよ、別に~。パールが断ってくれたおかげで、すぐにミアレのチョコを食べられたんだし~」
自他共に食いしん坊であると認めるダイヤモンドでも、流石にリムジンの中でチョコレートを食べる気にはなれなかったらしい。彼らしい答に、パールは「相変わらずだなお前は」と言って笑った。並んで歩きながら、親友の歩く早さに合わせて寒空の下をゆっくりと進む。陸上部であるパールは歩くより走る方が好きなのだけれど、たまにはゆっくり歩くのも悪くない。そんなことを思いながら歩いていると、ダイヤモンドが名前を呼ぶのが聞こえたから。だからパールは「何だよ」と返した。今のやり取りは、さっきとは逆だ。
「……皆、上手くいくといいよね」
彼にしては珍しく、しんみりとした口調でダイヤモンドがそう呟いた。彼の言葉が何を指しているのかを悟って、パールは「そうだな」と頷いてみせた。バレンタインデーは間近に迫っている。自分にはあまり縁がないイベントだけれど、恋に燃える女子達にとっては死活問題と言ってもいいだろう。女子達の恋の成就を素直に願えるその優しさは、自分にはないものだ。ちなみにその女子達は、まだベルリッツ家に残っているはずだ。今頃はお互いのチョコレートを味見し合っているんだろうなとパールは思った。
「……ああ、でもあれだよな。別に特別どうこうってわけじゃないけど、ファイツって子はちょっと心配だよな」
おとなしくて人見知りだから。事前にワイが言っていた通り、ファイツという名前の彼女は妙におどおどとしていたように思う。どこか上の空で、既に溶けていたチョコレートをいつまでもへらでかき混ぜていた姿が印象的だった子だ。プラチナに指摘されなければ、いつまでもそうしていたのではないだろうかとすら思える程の身の入らなさだった。そんな彼女は声が小さくて、態度だって小さくて。ワイが台風なら、ファイツはそよ風と言ったところか。ランチの際も妙にぼんやりしていたファイツの姿を思い出したパールは、大丈夫かなと心の中で呟いた。
(オレが話しかけただけですごいびびってたし……。好きなやつがいるっぽいのはあの反応で丸わかりだけど、あの様子じゃあそもそも渡せるかどうかって感じだよな)
そうなのだ。あまりに上の空だったことが心配で話しかけてみたら、ものすごい勢いで悲鳴を上げられたのだ。ついでにあからさまに後ずさりされた。そのすぐ後で頭を下げられたから別にもう気にしてはいないのだけれど、ちょっとだけ傷付いたというのが本音だった。
「あ、パールもそう思う~?実はオイラもなんだ~。オイラが話しかけたらびっくりしてたし、ファイツさんはかなりの恥ずかしがりやみたいだね~」
「いや、オレに比べればお前はまだいい方だろ。オレなんて後ずさりだぜ。それに向こうから話しかけられてたし。……お前はのんびりしてる優しいやつだから、あの子にとっては割と話しやすかったんじゃねえのかな」
「そうかなあ……。パールだって優しいじゃない~」
「いや、ダイヤ。いやダイヤモンド。何度も言うけど、オレよりお前の方が優しいやつなんだって。いいか、お前の心はなあ……」
”ダイヤモンド”という名前に反して円い、そう言おうとしたパールは口を噤んだ。聞こえるはずのない声が聞こえたからだ。まさかと思いながら振り返ると、1人の女の子がこちらに向かって駆けて来るのがはっきりと見える……。
「ダイヤモンドさん!パールさん!」
「お嬢さん……!?」
白いマフラーと青みがかった黒髪を靡かせながら駆け寄って来たプラチナの愛称を、パールは呆然と口にした。ピンク色のコートを着込んだプラチナは、実に苦しそうに片手で胸を押さえている。
「はあ、はあ……っ。やっと、間に合い……ました……っ」
「お嬢さん、どうしたんだよ!?……あー……。オレ、もしかしてやらかしたのか?忘れ物でもした?」
「……はい、そうです」
「げ!ごめんお嬢さん。寒かっただろ?」
「別に構いません、冬ですから。……それよりパールさんが何を忘れたのか、よく考えてもらえますか?」
そう言って、プラチナが形のいい眉を寄せた。どこか、いや明らかに不機嫌であることは確かだ。彼女の珍しい態度に焦りつつもパールはポケットや鞄に手を突っ込んだ。せっかちな性格の自分は人に比べてそそっかしいという自覚はある。だから彼女の言う通り、ベルリッツ家に忘れ物をしてしまったのだろう。必死にその”何か”を探していたパールの横では、驚き過ぎたらしいダイヤモンドがポカンと口を開けたまま立ち尽くしていた。
「……ってもなあ……。財布と携帯はあるし、チョコはちゃんと持ってるし……。ごめん、お嬢さん。オレにはさっぱり……」
「……そう、ですか。それではパールさん、両手を出してもらえますか?」
「あ、ああ……」
眉根を寄せたままのプラチナから滲み出た得も言われぬ雰囲気に押されて、パールはどもりながら両手を出した。自分と同じことを催促されたダイヤモンドは素直に両手を前に出していたが、やっぱり呆然としているように見えた。何が何だか分からないけれど、知らないうちに彼女の怒りを買っていたらしい。その正体を確認してから謝ろうと決めていたパールは、手の平にちょこんと乗った紙袋を唖然として眺めた。
「……あの。お嬢さん、これは……?」
「私が今日、初めて手作りしたチョコレートです。もちろん、そちらのチョコレートに劣る出来栄えであることは理解しています。ですが、どうしても友人であるお2人に最初に食べて欲しいと思ったものですから……」
「それで、わざわざオレ達を追いかけて来てくれたのか?」
「はい。危険だからと私を引き留めたパカとウージには無理を言って、家に残ってもらいました。ベルリッツ家の娘ではなく、私個人としてお2人に渡したかったのです。ダイヤモンドさんとパールさんは、私の初めての友人ですから」
淀みなくそう言い切ったプラチナが、初めて言葉に詰まった。その後で「迷惑でしたか?」と尋ねて来たから、パールは全力で首を横に振った。迷惑だ、なんてとんでもなかった。
「……その。ありがとうな、お嬢さん」
本当は、それ以外にも色々と言いたかった。だけど、言葉が上手く出て来なくて。酷く緊張しながらどうにかそれだけを伝えたら、プラチナはホッとしたように「受け取っていただけなかったらどうしようかと思いました」と言った。どうやら不機嫌だったのではなくて、ただ単に緊張していただけらしい。
「……ありがとう、お嬢様」
プラチナが来てからずっと黙り込んでいた親友が、ここで初めて言葉を発した。いつもの間延びした物言いではなくて、はっきりとした口調だった。まっすぐに彼女を見つめるダイヤモンドの目に確かな熱を認めたパールは、良かったなと声に出さずに呟いた。
(良かったな、ダイヤ。いやダイヤモンド。お嬢さんからの手作りチョコだぜ)
もちろんパールだって女子からの手作りチョコレートをもらったという喜びはあるが、ダイヤモンドの喜びは自分以上だろう。どうやら心配で堪らなかったらしいパカとウージが「お嬢様」と大声でプラチナを呼ぶまでの間、パールは見つめ合う2人の様子を無言で眺めていた。