school days : 167
にげあし
最寄りのスーパーで買い物を終えたヒュウは、「まじかよ」と呟いた。出入口近くに陳列されているチョコレート売り場で、少女がぽつんと立ち尽くしているのが見えたのだ。あの特徴的な髪型をした彼女には見覚えがある、ライバル兼友達が”幼馴染”だと言っていたファイツだ。(あーもう、何でなんだよ……!)
ファイツの存在に気付いたのは他でもない自分なのだけれど、ヒュウは眉間にぐぐっと皺を寄せてそう毒づいた。それもこれも、あのハートが悪いのだ。チョコレート売り場に飾られているハートのディスプレイが気になって目をやったら、その流れで彼女がいることに気付いてしまったというわけなのだ。ぶつぶつと”何でなんだよ”を連呼しながら、大小様々のハート達を思い切り睨みつけてやる。いかにも女子が好きそうな赤とピンクのハートを見ているだけで、何だか眩暈がしそうな程だった。
(こんなもん飾りやがったのはどこのどいつだよ……!まったく、バレンタインなんて下らねえイベントがあるからいけねえんだ……!!)
ヒュウの文句はスーパーの店員とバレンタインデーそのものにまで飛び火した。そう、そもそもハートのディスプレイが飾られているのはバレンタインデーが近付いているからなのだ。世間一般的には女子が男子にチョコレートを渡して愛を告白する日であるらしいが、女子に興味がない自分にはまったくもって下らないイベントでしかないと言える。唯一嬉しいのは妹が一生懸命作ってくれた手作りのチョコレートを食べることだけで、それがなければバレンタインなんてイベントはこの世から消えてもいいとすらヒュウは思っていた。バレンタインという日は下らないイベントランキングで2位にランクインしている。ちなみに堂々の1位はホワイトデーだ、まったくもってどうでもいいけど。
「……帰るか」
よせばいいのに、バレンタインデーについて考えてしまった所為なのだろう。憂鬱感とバカバカしさが一気に込み上げて来て、ヒュウははあっと深い溜息をついた。この場からさっさと離れようと足を一歩踏み出したちょうどその時、立ち尽くしていたファイツがチョコレートに手を伸ばすのが見えた。既製品ではなく板の方を手に取ったところからすると、どうやら彼女はチョコレートを手作りするつもりであるらしい。
(やっぱ、バレンタイン用にか?……あいつ、ラクツにやるのかな……)
自分の友達がファイツに対して熱と切なさが入り混じった目を向けていたことを思い出して、ヒュウは慌てて首を横に振った。幼馴染なんていないヒュウだけれど、あの目は幼馴染に対して向けるにしては度を超えていると自分の勘が言っていた。記憶に新しいあの記憶は、出来ることなら綺麗さっぱり消してしまいたかったのに。それなのに何で思い出しちまうんだよと、ヒュウは誰にともなく毒づいた。
(あーもう、ごちゃごちゃ考えんのは止めだ止め!さっさと帰るぞ!)
自分にそう言い聞かせたヒュウは、けれど10秒経ってもこの場所を後にすることはなかった。やって来た他の客がチョコレート売り場に置かれているそれを手に取る度に、どういうわけか肩を跳ね上げさせて大袈裟に驚くファイツの反応が気になって仕方がなかったのだ。怪訝そうにファイツを見る客に、ヒュウは全面的に同意した。今の彼女を見れば、誰だって”こいつ、変だ”と思うに決まっている。何度目かの肩の跳ね上げでびくつき過ぎたらしいファイツが板チョコを床に落としたことで、ヒュウのイライラはとうとう爆発した。自分が短気であることとは関係なく、彼女の全てが気に障って仕方なかった。じろじろと他の客に見られるのにも構わずに大股でずんずんと近付いて、ファイツが落とした板チョコを拾うや否や彼女の眼前に突き付けてやる。
「……おいお前!何やってんだよ」
単純に彼女の反応に対しての怒りと、手に持った板チョコをさっさとかごに入れればいいのにそれをしないことに対しての呆れを滲ませた言葉を刺々しく言い放ったヒュウは、ポカンと口を半開きにしているファイツを見下ろした。自分より随分と背が小さい彼女は、突き出した板チョコを受け取ることなく呆然と立ち尽くしている。ファイツに対してヒュウが抱いていたとろい女という印象は、この反応でますます強まることとなった。
「何だよ。お前、これを買うんだろ?」
「あ、その……っ」
「違うのか?何度も手に取ってただじゃねえか」
「……あ、えっと……っ。か、買います……っ」
蚊の鳴くような声でそう言ったファイツを一瞥したヒュウは、息を吐くと板チョコを彼女が片手で持っているかごの中に入れた。何でオレがこんなことをやらなきゃいけないのかという声が頭の中で聞こえて、ヒュウはまったくだと全面的に同意した。それでも手を出さざるを得なかったのは、彼女にやらせると落としそうな気がしてならなかったからだ。ファイツに向けていたはずの怒りの感情は、今やすっかり呆れ一色になっていた。
「買うならさっさとかごに入れろよな。挙動不審過ぎて、他の客に変な顔して見られてたぜ。ああ、もしかしたら店員にも変な勘違いをされたかもな」
そうは言いつつも、こいつが盗みを働くようなことはないだろうなとヒュウは思った。やたらとびくびくする彼女にそんな度胸があるようにはとても見えなかったのだ。
「そ、そんな……!あたし、違います……っ!!」
「だろうな。お前、すげえびびりみたいだし」
「あ、あの……」
そう言ったきり一向に話さないファイツを見て、ヒュウはまたしても眉間に皺を寄せた。こうも煮え切らない態度を取られると、こっちの気まで滅入ってくるというものだ。
「お前なあ、頼むから普通に喋ってくれよ。そう怯えられるとオレが悪いみてえだし、お前だって悪いことはしてないんだろ?堂々としてりゃあいいじゃねえか」
「ご、ごめんなさい……!あたし、男の人って苦手で……」
「何だよ。ラクツとは普通に話してたじゃねえか」
そう言った途端、ファイツは今までの態度が嘘のように素早く身を翻した。すれ違いざまに「ごめんなさい」と呟いた彼女の瞳には、どういうわけか溢れんばかりの涙が溜まっていた。顔を赤くしながら逃げるように立ち去ったファイツの背中を、ヒュウは何なんだよと呟きながら呆然と見送った。