school days : 164
惚れた弱味
「えっと……。うん、ラクツくんはその椅子に座ってくれる?」きょろきょろと部屋を見回したファイツは、そう言いながらデスクに備えつけられている椅子を指差した。その言葉に倣ったラクツが椅子に腰を下ろすと、彼女は向かい側にあるベッドの縁に浅く腰かけた。好きな娘の部屋に自分がいて彼女と2人きりなのだと思うと、もうそれだけでどうしようもなく緊張してしまう。不意に何とも言えない甘い匂いに鼻腔を優しくくすぐられることとなったラクツは、少々失礼だとは思いつつも部屋の中を軽く見回してみた。器に盛り付けられた桃から漂う匂いとはまた違う甘い香りに、単純に興味を引かれたのだ。白と青を基調にした部屋は綺麗に片付けられているし、動物のぬいぐるみやら花柄の小物入れやらが並べられているところにも彼女の性格が窺えた。だけど、肝心な甘い匂いの出所は結局見つけられなかった。つまり、これはファイツの部屋の匂いなのだろう。
道理でいい匂いだと思ったわけだと合点がいくと同時に、心臓が激しく音を立てていることに今更ながらに気が付いた。ファイツが今着ている服がクリスマスデートの時に身にまとっていたものと同じだと気付いたけれど、それについて話そうという気がどういうわけかまったく起こらなかった。早い話が、ラクツはものすごく緊張していたのだ。彼女も何を話すでもなくベッドに腰かけたままでいるから、自然とこの場には沈黙が満ちることとなった。
(……気まずいな)
自分は元々他人と話すより黙っている方が心地いいと感じる性質だったから、この沈黙自体は別に嫌ではなかった。だけど、ひたすら気まずかった。そう感じてしまった主な原因は、好いた娘と彼女の部屋に2人きりというこの状況と、ファイツが腰かけている場所にある。座る場所として部屋に1つしかない椅子を勧めるのも、寝る場所であるベッドを異性の自分に勧めないのも、この娘の性格を加味して考えれば至極当然のことであるのだと理解出来る。けれどラクツは頭を抱えたくなった、「どこに座っているんだ」とファイツに向かって言いたかった。
(せめて、あれにでも座ってくれればいいものを……っ)
ファイツから目を逸らしてカーペットの上に置かれた丸いクッションを見ながら、ラクツは声にならない叫びを胸中で上げた。ある程度目線が合うようにしたのか、ただ単に目についただけのことなのか。彼女が自分の座る場所としてベッドを選択したのは、多分後者の理由からなのだろうとラクツは思っている。きっとこの娘は深く考えずにベッドに座ったに違いないのだろうが、自分はと言うとそういうわけにもいかなかった。男であるが故に色々と、それはもう色々と考えてしまった。脳裏には、ファイツをベッドに押し倒す自分の姿が実にはっきりと映し出されていて。それだけで済めばまだしも、あろうことかラクツはその続きをこれまた鮮明に思い浮かべてしまった。自分の手によって服を脱がされた想像の中の彼女は、恥ずかしがりながらも実に艶めかしい声を上げ始めたのだ。
自分で想像しておきながらその扇情的な映像に居たたまれなくなったラクツは、とうとう口元に手をやった。そういうことへの興味は人並みにあるし、今まさに自分の目の前にいる娘を想いながら欲望を発散させたことも数え切れないくらいあるわけで。普段以上に可愛い恰好をしているファイツと部屋で2人きりという時点で既にかなり危ないというのに、あろうことか彼女はベッドに腰かけているのだ。罪悪感がじわじわと心を蝕んで来たものの、この状況でそういう想像をしない方がおかしいとラクツは思った。自分だって、健全な男子高校生なのだから。
「……ラクツくん」
長い長い沈黙を破ったのは、こちらの名を呼ぶファイツの声だった。思考の海に漂っていたラクツは、その控えめな声ではっと我に返った。素知らぬ顔をしている男が、しかし名を呼ばれるその瞬間まで自分をネタにして扇情的なことを考えていたなんて、ファイツだって夢にも思わないだろう。恥ずかしそうにしながら「あのね」と言う彼女は何だかやけに眩しく見えて、ラクツは自分の行いを密かに猛省した。欲望より罪悪感の方が勝ったのだ。とにかく今はそういうことを考えないようにしなければと何度も何度も自分に言い聞かせて、やっとのことで頭の中の映像を消し去ったラクツは「どうした」と言った。
「あたし、ラクツくんにどうしても直接お礼が言いたくて……。さっきはちゃんと言えなかったような気がするから、だから改めてお礼を言わせて欲しいの……っ」
「色々とありがとう」と言いながらぺこりと頭を下げたファイツは笑顔だったのだけれど、どうしてか無理に笑っているようにラクツには思えてならなかった。見ているだけで何だか心が癒されるような、自分が好きなあの笑顔とは程遠い顔をしていた彼女の名を気付けば口にしていた。
「ファイツ……」
「な、何?」
相変わらずどこか痛々しい笑みを見せている彼女は、自分に名前を呼ばれた数秒後にあからさまに目を逸らした。彼女の唇は閉じたままだったけれど、”何も訊かないで欲しい、これ以上踏み込まないで欲しい”とその目が確かに言っていた。
(どうもボクは、この目に弱いな)
この目に弱い、と表現するより惚れた弱みと言い表すのが正しいのだろうが、つくづく自分はファイツという存在に弱いことを改めて実感する。あのように懇願するような瞳をされたら、どうしたのかと訊きたくても訊けないではないか。告白しようとした時もそうだった、あれはとても言える雰囲気ではなかった。
「……いや、何でもない。それより話を戻そう、だからファイツはボクを部屋に招いたんだな?」
彼女の好物である桃を持参して訪問したことは確かだが、ラクツは元々ファイツの部屋に入る気はまったくなかった。応対してくれたホワイトと会話を交わしてどうやらファイツが平熱になったらしいという情報を得ても、その気持ちは変わらなかった。何しろ相手は病み上がりの女の子なのだ、余計な気も体力も遣わせない方が彼女の為になるだろう。それに基本的にガードが堅いという彼女の性格を考慮すると、そもそも自分が部屋に招かれるとも思えなかった。そう結論を出したラクツは、ホワイトに桃の缶詰と桃のジュースを渡すと即座に踵を返した。最初から長居するつもりはなかったし、用が済んだ以上は早く帰るべきだと思ったのだ。しかしそんな自分を引き止めたのはホワイトで、「ファイツちゃんに訊いて来るから帰らないでね」と言った彼女の勢いに押されたラクツは玄関で立ち尽くすこととなった。
こちらに背を向けたホワイトの姿が見えなくなった途端に想い人の顔が脳裏を掠めたのだけれど、頭の中の彼女は困り果てた表情をしていて思わず苦笑いを深めたものだ。これはやはり、直接会うのを断られるという前兆なのだろう。ラクツはそうに違いないと思っていたから、戻って来たホワイトに「ファイツちゃんが部屋で待ってるから行ってあげてくれる?」と告げられた際には本気で驚いた。彼女を幾度となく自室に招いて来たものの、自分が彼女の部屋に行くというのは高校生になってからは初めてのことで。「せっかくだから2人で食べたらどうかしら」と何故かにんまりとした笑顔でそう言ったホワイトの言葉に甘えさせてもらったラクツは、彼女が桃を切り分けている間もずっとファイツのことを考えていた。彼女の部屋に招かれることはないに違いないだろうと思っていたのに、あの娘はいったい何を思って自分を呼んでくれたのだろうか?その疑問を何度も胸中で繰り返し呟いたのだが、”自分に直接お礼を言いたかったから”というのが答であるらしい。
「う、うん……。本当はあたしがラクツくんの家に行くべきだって分かってるんだけど、早く直接お礼が言いたかったの。あっ!後でちゃんとお礼を言いに行くからね!」
「……ボクの家に?」
「だって……。ラクツくんだけじゃなくて、ハンサムおじさんにも本当にお世話になったもん……。病院だけじゃなくて、家まで送ってもらっちゃったし……」
「……そうか。だが、父さんは仕事で忙しいからな。ボクから伝えておく」
「あ、そっか……」
「そう気を落とさなくてもいいと思うぞ。父さんはそういうことはあまり気にしない性格だし、むしろファイツが元気になったことの方を喜ぶだろう。熱も下がって元気になったと、ちゃんと伝えておくから」
「うん、ありがとう……」
自分ではなくデスクの横に置いてある器に入った桃にファイツの視線がちらちらと向けられていることに気付いて、ラクツはしまったと思うと同時にその態度に思わず笑みを深めてしまった。辛い物が好きである自分とは対照的に甘い物を好むファイツは、幼い頃からとりわけ桃が好きだった。だからこそ彼女への見舞いに桃を持参したわけなのだが、やはりその効果は抜群だったらしい。
「……すまない、ファイツの分を渡すのを忘れていたな」
「えっ……。……何で分かったの?」
「ボクの側に置いてある器をあれだけ見られたら、誰にだって分かるさ。……桃が食べたいんだろう?」
「う、うん……」
右手に桃が盛り付けられたガラスの器を持って椅子から離れたラクツは、ファイツの目の前まで来ると腰を屈めた。これからする話の為に、彼女ときちんと目線が合うようにしたのだ。平熱まで下がった今なら訊いても問題はないだろう。
「ラ、ラクツくん?」
「……ファイツ」
困惑しているらしいファイツには構わずに、ラクツは彼女の名を呼んだ。そして深く溜息をつく、彼女は自分がした行いが果たして分かっているのだろうか。
「父さんも、ホワイトさんも……。ついでに言うならブラックも、熱を出したお前を心配していたようだが……。ボクだってこの2日間、ファイツのことをそれは心配していたんだぞ」
ファイツをまっすぐに見つめながら、溜息混じりにその言葉を吐き出す。この2日間で、何度具合はどうだと綴ったメールを送ろうと思ったか分からなかった。今しがた告げたばかりだけれど、本当に心配したのだ。2日前のぐったりとしたこの娘の姿があの日の彼女に何故か重なって見えて、正直生きた心地がしなかった。普段とはかけ離れた自分の様子から父は何かを察しただろうし、今日自分に見せたあの意味ありげな顔からしてホワイトにもこちらの気持ちは露見したと考えていいだろう。そして肝心のファイツはと言うと、決まり悪そうに頷くだけだった。
「……そうだよね。あたし、皆に心配かけちゃったみたいだね……」
「それはそうと、ファイツはどうしてあの場所にいたんだ?」
「それは、その……。特に理由はなくて、ただぼんやり歩いてたらあの公園にたどり着いたっていうか……。頭がぼうっとしてたし、別に行こうと思ってたわけじゃなくてね……っ」
小さな声で紡がれる彼女の話にラクツは片眉を上げた。まさかとは思うが、具合が悪いのを知っていて外出したと言うのだろうか?
「……なるほど。つまり、お前は目的もないのに不調を押して出かけたという解釈で合っているか?」
「えっと、それは……っ」
「ファイツ。目を逸らさずに、正直に答えてくれ」
「その……。……はい」
「何故、わざわざそんなことをしたんだ」
「気、気晴らしに……っ」
答になっていないような彼女の返事に、それはもう思い切り眉をひそめる。体調不良なのに気晴らしに外を出歩くという彼女の発想が正直理解出来なかった。はあっと溜息をついた後に空いている左手を伸ばしたラクツは、そのままファイツの頭を音もなく小突いた。こちらは本当に心配したのだから、これくらいはしても赦されるだろう。
「もし見つけたのがボクではなく悪人だったなら、お前は最悪襲われていたかもしれないんだぞ?まったく、あのタイミングでお前を見つけられたのは本当に幸運だった。短期間で熱が下がったからまだいいようなものの、一歩間違えたら大変なことになっていたわけだ。それをちゃんと理解しているのか?」
「う、うん……」
「自分の身体を大切にしてくれと、何度も告げただろう……っ!」
「ご、ごめんなさい……っ!!」
ファイツはどうやら本当に反省しているらしく、涙目になってその身を思い切り縮こませていた。その姿すらも可愛く映ってしまうのは事実だが、甘い対応をしないようにしなければと自分に言い聞かせる。
「出先で急に体調不良になったのならともかく、不調を押して外出するのはまったく感心出来ないな。困るのは自分自身なんだぞ、ファイツ」
「も、もう二度としないからっ……!」
「それから、過度なダイエットもやはり慎むべきだと思うが。実際に横抱きにしたから分かるが、碌に食べていないだろう」
「う……。ご飯もちゃんと食べる、食べます……っ!」
「……本当だな?自分を大切にすると、約束出来るか?」
「うん、約束するから……っ!」
しっかりと頷いたファイツに頷き返したラクツは、表情を柔らかいものに戻して背筋を伸ばすと桃が入った器を差し出した。この娘も分かってくれたようだし、この話を続ける必要はもうないだろう。
「きゃあああっ!」
突如としてそんな声を上げたファイツを、ラクツは目を瞬いて見つめる。器を渡すその瞬間に彼女と自分の指が触れたことが悲鳴を上げた原因らしい。先程熱を計った際も感じたのだけれど、どうにもこの娘の反応はおかしいように思えてならなかった。今もそうだ、誰が見ても分かる程に顔を赤く染め上げてしまっている。
(多分、ボクと同じ想いを抱いてくれているのだとは思うが……)
銀色に光るフォークを右手に持ったファイツを見下ろしながら、ラクツはこの娘の心が読めればいいのにと考えていた。この娘はかなりの恥ずかしがりやである故に何かにつけて赤面してしまう為、その点に関してはこちらも確固たる自信が持てないのだ。そうであって欲しくないとは思うが、単に恥ずかしくて顔を赤くさせたという可能性もある。
「……ラ、ラクツくん……っ」
「何だ?」
「そんなに見られると、恥ずかしいよ……っ!」
顔を真っ赤に染め上げている彼女に謝りつつ、ラクツは胸中で思案していた。果たして本当に恥ずかしいだけなのだろうか。他の理由があるのではないか、この娘と両想いなのではないかと、どうしても期待してしまう。心の中に渦巻くこの疑念を今すぐ解消する術は1つだけなのだけれど、単純なその手段に反してこれが非常に難しくもあり、ラクツはすぐ目の前にいるファイツに気付かれないように嘆息した。単に臆病だからというのももちろんあるのだろうが、結局自分はこの娘にどうにも弱いのだ。それはやはり、惚れた弱みに他ならないのだろう。