school days : 163
嬉しくて切なくて
小さくも規則正しいその音が聞こえた瞬間、ファイツは両肩をびくんと大きく跳ね上げさせてきゃあっとか細い悲鳴を上げた。今聞こえたのはどう考えても自分の部屋のドアを叩く音だ。ホワイトならノックと同時に名前を呼ぶはずだから、ドアを隔てた向こう側に立っているのはやっぱり彼で間違いないのだろう。今まさに着ようとしていた服が悲鳴を上げた拍子に床に音もなく落ちたのは分かっていたが、それを拾うことなく音が聞こえた方向を、つまりはドアを見つめたままでぴしりと固まる。彼が来る前に着替えをちゃんと済ませておきたかったのに、どうやら間に合わなかったらしい。上下とも下着姿という今の自分の格好は何とも心許なくてとても落ち着かない。本当なら今すぐ服を拾い上げたいところだったが、その気持ちに反して身体は上手く動いてくれなかった。「……ファイツ?」
そう思った通り、自分の予想はやっぱり当たっていたらしい。幼馴染の関係の、だけど幼馴染以上に想っている彼に名を呼ばれて、ファイツは息も絶え絶えに「はい」と言った。ただラクツに名前を呼ばれただけのことなのに、けれど胸が何かに締め付けられるような息苦しさを感じたのだ。
「悲鳴が聞こえたが、何かあったのか?」
「……な、何でもないの!その、ノックの音にびっくりしただけで……っ!」
自分がふとしたことで驚くような、どうにも気弱で臆病な性格をしているのはよく分かっている。だけど、あんな小さなノックの音でこんなにも驚くなんて思わなかった。悲鳴まであげるなんて何やってるんだろうと、ファイツは自分自身を責めた。あの優しい彼のことだから、もしかしたら自分を驚かせたことを気にしているかもしれない。
「ああ……。すまなかったな、驚かせるつもりはなかったんだが」
「き……気にしないで、本当に大丈夫だから!」
ラクツくんが気にしてませんようにという自分のささやかな願いは、呆気なく砕かれたらしい。「大丈夫だから」と何度も繰り返し言って、ラクツの言葉を否定する。彼にこんなにも気を遣わせていると思うと、さっきとは違う意味で胸がぎゅうっと苦しくなった。がっくりと肩を落としたファイツは、あたしって本当にダメだなあと声に出さずに呟いた。
「そうか……。……それで、ファイツ」
「な、何……っ!?」
またもや自分の名前を呼んだ彼に、またもやどきどきと心臓を高鳴らせながら問い返す。ほんの2日前に、ファイツは彼への恋心をとうとう自覚したばかりだった。心の底では気付いていながら中々認めようとはしなかったこの気持ちは、気付けば自分ではどうしようもないくらいに大きく育っていたらしい。だって、ラクツに名前を呼ばれるだけでこんなにも嬉しいと思ってしまうくらいなのだから。
この淡いと言うには大き過ぎる彼への恋心を、しかしファイツはどうこうする気はまるでなかった。自分と彼では色々な点であまりにもつり合いが取れていないとよく分かっているからだ。だから告白をするつもりもないし、万が一告白されたとしても断ろうと固く決めている。だって、彼には自分なんかよりずっと相応しい女の人がいるのだから。叶うはずのないラクツへの恋心を思うと切なさが滲み出て来るけれど、それでも彼に自分の名前を呼ばれるのはやっぱり嬉しくて。その両方の気持ちが入り混じった吐息を、唇からそっと吐き出した。
「いつまでもここで話をしているのも何だし、ファイツにと思って持って来た物もある。……だから……。部屋に入っても、いいか?」
「ダ、ダメ!絶対ダメだよっ!!」
静かな問いかけをしたラクツとは対照的に、ファイツは絶叫混じりの声を上げた。彼と話をするのにものすごく緊張していたから今の今まで忘れていたけれど、そういえば今の自分は上下とも下着姿なのだ。こんな恥ずかしい姿は誰にも見せられない、特に彼には絶対に見られるわけにはいかなかった。
「まだ体調が悪いのか?ホワイトさんの話では、平熱まで下がったと記憶しているが。……それとも、ボクに見舞いに来られるのは迷惑だったか?」
「あ!ち、違うのっ!」
自分の勘違いでなければの話だが、ラクツの声色は普段と違うようにしか聞こえなかった。きっと彼に大きな誤解をさせてしまったに違いないと、ファイツは自分の発言を悔やんだ。あんなに頭ごなしに拒絶することはなかったし、そもそも「ちょっと待ってて」と言えばそれで済む話だったのだ。だけど強い口調で「ダメ」なんて言ってしまった以上、今更その言葉だけを付け加えるのは却って彼を傷付けるような気がしてならなくて。ものすごく恥ずかしいと思ったのだけれど、ファイツは数回の躊躇の末に震え声で「だからね」と言った。
「あ、あのね……っ。き、着替えてる途中だったの……っ」
「……着替え?」
「さ、さっきまでパジャマでいたから……っ!」
床に落ちていた服の替えを今になって拾い集めながら、ファイツはドアの向こうにいるラクツに対して半ば必死に声を投げかける。まさか彼に限って勝手に部屋に入って来ることはないだろうが、もしも何かの間違いで今ドアを開けられてしまったら一巻の終わりなのだ。新学期初日よりもずっと気恥ずかしいし、あの時とは比べ物にならないくらいに気まずい思いをすることはまず間違いない。ラクツと今より進んだ関係になるつもりはないとはいえ、妙に気まずいというのもそれはそれで困るのだ。大いに焦りながらファイツは服を頭から被ろうとしたが、慌てていた所為か顔を出すのに少しもたついてしまった。
「そういうことか。ゆっくりでいいから、着替え終わったら声をかけてくれ。……重ねて言うが、慌てなくていいからな」
「う、うん……っ」
わざわざ2回も「ゆっくりでいい」と言ってくれたのは、焦ると何かしらやらかしてしまう可能性が高い自分の性質をよく理解してくれているが故なのだろう。まさに今慌てていたファイツは、彼の言葉に返事をしてから自分を落ち着かせる目的でふうと息を吐いた。彼の言葉はありがたかったが、本当にゆっくり着替えるわけにもいかない。それなりに急いで黒いレギンスを履いて、膝下まである白いニットのワンピースについた糸くずを払い落とす。着替えた為にぼさぼさになってしまっていた頭を手櫛で手早く整えて、最後に全身をざっと確認してからファイツは音を立てずに歩いた。そしてドアの前で立ち止まって、深呼吸を数回繰り返す。
(どうしよう、すっごくどきどきしちゃうよ……っ)
このドアの向こうに自分の好きな人がいるのだと思うと、どうしても心臓は自然と高鳴ってしまう。その胸のどきどきを必死に宥めて、ファイツは「普通にしてなくちゃ」と何度も自分に言い聞かせた。ラクツを部屋に迎え入れたら、まず何よりも先にお見舞いに来てくれたことのお礼を言うのだ。ホワイトから彼が自宅に来ていることをドア越しに聞かされた時はものすごく驚いたけれど、それ以上にものすごく嬉しかった。
「どうする?」と尋ねたホワイトに早口で「ここに来るように伝えて」と言って、ファイツは弾かれたようにベッドから飛び起きた。ものすごく簡単な部屋の掃除を済ませた後にパジャマという自分の格好に気付いて、タンスから大急ぎで洋服を引っ張り出していざ着替えようとしたところでノックの音が聞こえたのだ。結局は彼をかなり待たせてしまったことを思うとやっぱり申し訳なさが襲って来るのだけれど、だからこそお礼が言いたかった。何よりも、わざわざお見舞いに来てくれたことのお礼をどうしても言いたかった。ラクツくんの目をちゃんと見て、笑顔で「ありがとう」と言わなくちゃ。その言葉を3回は自分に言い聞かせて、ファイツはようやく自分の部屋のドアをがちゃりと開けた。
「ファイツ。具合はどうだ?」
「…………」
「……ファイツ?」
ラクツの顔を見た状態で、ファイツはただただぼうっと立ち尽くしていた。自分から出迎えておきながら彼の前から退かずにいるこの状況は、傍目にも彼から見てもおかしなものだっただろう。自分にだってそれはよく分かっていたけれど、どうしても足が上手く動かなかった。”ラクツくんにまずはありがとうと言う”と決めたはずなのに、そのことは頭からすっかり抜け落ちていた。早い話が、ファイツはラクツに見惚れていたのだ。端正な顔立ちをしている彼の顔にも、見慣れているはずの彼の私服にもどきどきさせられた。ところどころに赤いラインが入った黒い長袖のシャツに濃い青色のジーンズを身にまとっている彼の私服姿はシンプルで、だけどどうしようもなく彼に似合っていた。
(か、かっこよ過ぎるよ……っ!)
こんなかっこいい彼と部屋で2人きりになるという状況を再認識して、ファイツはどうしようと1人で焦っていた。どうなるはずもないと分かってはいるけれど、だけどどうしようと思った。だって、見れば見る程ラクツはかっこいいのだ。どきどきどきという自分の心臓の音ばかりがはっきりと聞こえて、自分の名前を呼ぶ訝しげな彼の声がどこか遠くで聞こえたような気がする……。
「きゃああああっ!!」
彼を見つめながらそれはぼうっとしていたファイツは、悲鳴を上げると同時に我に返った。今度の悲鳴はさっきよりずっと大きなものだったが、それはもう仕方がないと思った。何しろ、ラクツは今自分の額に手を当てているのだ。彼の手から伝わる熱でその事実を改めて認識したファイツは反射的に後退る。
「……こら。後退らないでくれ、ファイツ」
「だ、だって……。だって……っ!ラクツくんってば、急にこんなことするんだもん……っ!」
すかさず飛んで来た軽い叱責に、涙目で言い返す。好きな人に至近距離でそんなことをされて無反応でいられる程、ファイツは男慣れしてはいないのだ。
「なるほど、それじゃあ急じゃなければいいんだな。簡易的にだが熱があるか確かめるからじっとしていてくれ。……ちゃんと言ったから急ではなくなったぞ、これでおとなしくしていてくれるな?」
「……そ、そんなのしなくてもいいよ。ちょっとだるくて寝転んでただけだもん……。お姉ちゃんの言う通り、熱はもう下がったから大丈夫だよ……っ」
「だが、まだ顔が赤いだろう。それに、ボクの問いかけにも反応が鈍かった。何度名を呼んだと思っているんだ?」
「う……」
「ホワイトさんではないが、ファイツの”大丈夫”は信用ならないな」
「そ、それは……」
なお反論しようと口を開きかけたファイツは、従姉の話を出されてつい言葉に詰まった。ハンサムの車で病院から自宅まで送ってもらった際、玄関先で出迎えてくれたホワイトにそれはもう心配されたことは記憶に新しい。つき慣れない嘘までついて具合が悪いのを隠していた身として、今の指摘はものすごく耳が痛かった。どんな反論をしたところで無意味な結果になりそうな気がしてならなかったファイツは、言い訳するのを諦めてラクツの診察が終わるまで待つことにした。だけど、心臓の方はやっぱり落ち着いてはくれなかった。
「……顔はまだ少し赤いが、少なくとも2日前のような熱さは感じられない。熱自体はどうやらないみたいだな」
「うん……」
「ファイツの熱が下がって、本当に良かった」
「……っ」
瞳を柔らかく細めたラクツはそれは優しい表情をしていて、ファイツは何かを言うのも呼吸をするのも忘れて彼の顔を見つめた。またもや胸がどきんと大きく高鳴ったし、強く締め付けられて苦しかった。ものすごくかっこいい彼はものすごく優しくて、何だかずるいと思ってしまった。
(こんなにかっこよくて素敵な男の人なんだもん……。あの人が好きになるのも仕方ないよね……)
あの子が好きなのと言い切った、あの綺麗な女の人の姿と声がふと脳裏に蘇る。胸は自然とずきずきと痛んで、ファイツは内心で目を伏せた。彼女に言われるまでもなく、ラクツは本当に本当に素敵な人だと自分でも思う。”いい男”の定義が何なのかまではよく分からないけれど、少なくとも彼はものすごく優しい男の人なのだ。そのラクツに病院まで運ぶ手配をしてもらって、こうして心配してもらって、更にはこうしてお見舞いにまで来てもらっている。平熱に下がった自分をわざわざお見舞いに来てくれる彼は何て優しいのだろうか。もし逆の立場だったとしても、ファイツは彼のように行動出来る自信がまるでなかった。
「……あ、あの……っ。遅くなっちゃったけど、入って……?」
「それじゃあ遠慮なくそうさせてもらう。実は、ファイツの好物を途中で買って来たんだ。桃は好きだろう?」
一度屈んでお盆を手にしたラクツはそう言いながら部屋に入って来た。確かに彼の言う通り、お盆には自分の好物の白桃が食べやすい大きさに切り分けられた状態で小さなガラスの器に盛り付けられていた。
「ラクツくん、わざわざ買って来てくれたの……?」
「人を見舞いに来るのに手ぶらで来るのは流石にどうかと思ってな。ボクはただ買って来ただけで、綺麗に盛り付けてくれたのはホワイトさんだ」
「それでも、ありがとう……」
「どういたしまして。ファイツ用に桃のジュースも買って来たから、良かったら飲むといい。身体がだるくてもこれなら飲みやすいだろう?」
「うん、気を遣ってくれてありがとう……」
桃のイメージカラーであるピンク色のラベルが貼られているペットボトルをちらりと見て、ファイツは小さな声でお礼を言った。ドアが開いていたのにも拘らず桃の匂いに気付かなかったということは、それだけラクツを熱心に見つめていたことに他ならない。今更ながら、その事実にファイツは恥ずかしくなった。
「あたし……全然気付かなかった……。甘くていい匂いがするね……」
「それは、まだ本調子じゃないからだろうな。季節が合えば生の桃にしたんだが、流石に冬場は売っていなくてな。だが、缶詰の桃でも好きだっただろう?ちゃんと白桃の方を買って来たからな」
「ううん、あたし……桃なら何でも好きだよ。ラクツくん、本当にありがとう……」
自分の好物をわざわざ選んでくれるラクツはやっぱり優しい、何より彼のその気持ちが嬉しい。その感じた気持ちに背中を押されるようにして、ファイツは「ありがとう」と口にしたのだけれど、自分に言い聞かせた通りに上手く笑えている自信はなかった。こうしてラクツに優しくしてもらえることは確かに嬉しい、だけど自分がそう思うと、あの綺麗な女の人の姿がはっきりと浮かんで来てしまうのだ。それに、胸がずきずきと痛んでどうにも苦しくなる。その痛みに負けないように口元を意識して上げながら、ファイツは”ラクツくんに優しくされるのは嬉しいけど、やっぱり苦しいよ”と思った。