school days : 162

理由なんてない
剣道部の練習試合を特に何事もなく終えたラクツは、友人であるヒュウやペタシと別れて1人帰路に就いていた。行き交う人も少ないこの道は人によっては淋しいかもしれないが、自分にはこの静かさがどこか心地良かった。これで晴れか曇りならいいのにと思いながら黒い傘越しに空を見上げる。大粒程ではないが、確かに雨が降っていた。

(……やはり、どうにも雨は苦手だな)

苦手なものなら数多くあるが、その中でもラクツは雨が苦手だった。単純に雨に濡れるのが嫌だというのもあるのだが、そこにある背景が何より嫌なのだ。雨が降ると否が応でもあの日を、そしてそれに付随して自分があの娘にしでかした数々の非道な行いを思い出して、どうにも嫌な気持ちになる。鬱屈したこの気持ちを振き飛ばすかの如く軽く息を吐いて、ラクツは1人自宅までの道を歩いた。こうして友人と別れて単身で歩いていると時々思うのだけれど、やはり自分は1人でいる方がどうも性に合っているようだ。彼らのことは友人として大切に思っているし、共に過ごす時間は楽しくもあるのだが、それでも1人でいることの心地良さには到底適わないと思った。誰にも余計な気を遣わなくていい分実に気楽だし、それに何より心が酷く落ち着くのだ。父によると自分は物心づいた頃から既にそうだったらしいから、これはもう元々の気質と言っていいだろう。単に興味を抱かなかっただけなのか、はたまたそうする利点が特に考えつかなかったからなのか。当時の自分が何を思ってそうしたのかはよく分からないけれど、とにかく幼い頃からラクツは皆と遊ぶより1人でいることを好む子供だった。
”お前は何でも自分だけでやってしまうから、とにかく手がかからない子供だった”。いつだっただろうか、父にそう言われたことを不意に思い出して、ラクツは内心で苦笑いを漏らした。多分あれは褒め言葉の意味を込めて告げられたのだろうけれど、別の意味で親に心配をかけていただろうなと思ったのだ。とにかく手がかからない子供というのはあくまで親視点の評価であって、子供らしくいることが望まれる幼稚園の教員からすればとにかく扱いにくい子供だっただろうというのが妥当な評価だろう。友達の輪に入りたいのに入れずにいるのならともかく、自らの意思で1人でいることを望む幼稚園児というのは教員陣の目にどう映っただろうか。良くて子供らしくない、悪くて気味の悪い子供。教員の目線に立って考えるならそんなところか。1人でいることを好むことに加えて、当時の自分は今以上に感情を表に出さない子供だったから、表面上はともかく内心では後者の評価を教員全員に下されていてもおかしくはないだろう。事実自分が幼稚園に通うようになってから、程なくして大人達にあからさまに避けられ始めたのをラクツは今でも憶えている。
ちなみにそれに関しての感想はとくになかった、大人ぶって1人でいたわけでもなかったから避けられて悲しいとも思わなかった。何か思ったことを1つだけ挙げるとするなら、大人達がそんな態度を取るから子供達に伝染するのにという、浅はかな教員陣達への侮蔑の感情だろうか。こんなことを思う時点で既に子供らしくないのに、それをしっかりと内心に留めていたのだ。まったくもって、本当に子供らしくない子供だった。当時の自分をそう評しても、過言ではないことだろう。
そんな子供らしくない自分に、けれど”実に子供らしい女の子の友人”が出来たのはまさに奇跡なのかもしれない。剣道部が強くて家から通いやすいからという至極単純な理由で進学を決めた高校で偶然再会したことを踏まえると、あるいは運命という言葉がしっくり来るような気がする。いや、今思い出しても実に酷い仕打ちをした彼女がまた自分に笑いかけてくれている現状を思えば、これはやはり奇跡と言ってもいいのではないだろうか。そんな自分らしくないことを考えて、ラクツはまたもや苦笑する。彼女のことを考えていた為なのか、今度は表情に出るのを抑えられなかった。奇跡だろうが運命だろうが、どうだっていいではないか。そんなことは最早重要ではない、あの娘が自分に話しかけてくれて、自分に笑いかけてくれるならラクツはそれでいいのだ。どうしようもないくらいに大切で、自分にとって誰よりも特別な女の子が、話しかければ応えてくれる。こちらの名を呼んでくれて、恥ずかしそうにしながらもちゃんと目を合わせてくれて、そしてやはりはにかむようにしながらも確かに笑いかけてくれる。この絵に描いたような幸福感を、しかしただ漫然と味わうだけでは最早物足りなかった。ともすれば自分と同じ想いを抱いてくれているかもしれないあの娘を、ラクツはどうしても自分のものにしたかった。
こんなことを思うなんてやはりらしくないけれど、それでも神に欲しいものを願うならラクツはきっとあの娘を望むだろう。彼女を物扱いするようで正直気が引けるが、それ以上に自分はあの娘が欲しいのだ。それが、自分の心からの本音だった。自分の気持ちこそ告げていないが、いずれはきちんと告げるつもりではいる。そう思いながらもつい先日は言えなかったわけだが、それはそのタイミングではなかったというだけのことだ。ファイツの得も言われぬ雰囲気を察してしまった結果、ラクツは今言うのは止めようと思ったのだ。

「ファイツ……」

無意識に彼女の名前を口にしてしまっていることにそうした後から気が付いて、ラクツは少しだけ口角を上げた。1人でいるのが好きだけれど、彼女だけは特別なのだ。何だか無性にファイツに会いたいと思った、そして彼女の笑顔が見たいとも思った。望んでもいない黄色い女子達の歓声を受け続けた故のことかもしれない。会えるはずもないのにこう望むなんて我ながら重症にも程があると思ったが、これはもう仕方がないことだとその数秒後に開き直る。心から好いている娘を手に入れたいと思って何の問題があるのだろうかと呟いた勢いのままに、足元に落ちている雨水を含んだ枯葉を少し強めに蹴飛ばした。そういえばあの娘もよくこうして枯葉を蹴って遊んでいたなと、ラクツは昔を懐かしんで目を柔らかく細めた。何でもかさかさと音がするのが、そして蹴った時の感触が好きなのだとか。道端に枯葉が集まっていると一緒に蹴ろうよと、眩しい程の笑顔で誘われたものだった。
1人でいるのが好きであったはずの当時の自分がどうしてあの娘と一緒にいることを選んだのか、それはラクツにも分からなかった。自分と同じく子供の輪に入っていなかった彼女に勝手に共感を抱いたのかもしれないし、あるいは実に子供らしく感情を素直に表情に出す彼女に興味を抱いたのかもしれない。とにかく気が付いたら自分はあの娘の手を取っていて、そして最初こそ怖がっていた彼女も自分の手を握り返してくれるようになっていた。そんな日々が、気付けば当たり前になっていた。
ファイツの隣が、まさに自分の居場所だった。何物にも代えられないくらいの、大切な大切な宝物だった。あの頃は既に手に入れていたあの居場所を、そして一度は自らの意思で手放したあの居場所を、ラクツはもう一度得たいと思った。幼馴染の関係ではなく今度は男としてファイツの隣にいたいのだと、強く思った。本当に、どうしてこんなにも自分がファイツを好きなのかは分からなかった。当の本人である自分にも分からないのだから、きっと誰にも答は出せないに違いない。そんなことを思いながら、ラクツは自宅から一番近くにある小さな公園の前を通り過ぎる際に何気なく見やった。砂場の他には数える程の遊具しかないこじんまりとした小さな公園だったけれど、ラクツはあの娘とよくあの場所で遊んでいたのだ。あの娘と過ごすあの時間が、ラクツは好きだった。口にこそあまり出さなかったけれど、それでも自分なりに楽しんでいたのだ……。

「……ん?」

ふと目の端にあるはずがないものが見えたような気がしてならなくて、ラクツは順調に歩んでいた足を止めた。きっと自分の気の所為だと言い聞かせながらもう一度よく目を凝らして薄暗い公園内を見たラクツは、しかし次の瞬間走り出した。あの公園内にいるのは紛れもなくファイツだった。自分にとって誰よりも特別な、唯一無二の存在である女の子だ。

「ファイツ!」

口から勝手に飛び出したのは、大切な大切な彼女の名前だった。嫌な予感が稲妻の如く頭を過ぎった。好きな子が、幼い頃によく遊んだ思い出の場所にいる。ただそれだけならラクツはこんなにも全力で走りはしなかったし、こんなにも焦りはしなかった。問題は、制服姿のあの娘が遊具にもたれかかった状態でぐったりとうずくまっていることにあった。

「ファイツ、大丈夫か!?」

一目散にファイツのところまでやって来たラクツは、とっさに彼女の身体を抱き抱えると同時に彼女の額に手を当てた。夕方とはいえこの冬空の下ではかなり冷えるし、今はその上雨が降っているのだ。普通なら寒さで冷えているはずの彼女の額から案の定普通ではない程の熱を感じ取って、嫌な予感が的中したとラクツは大いに顔を顰める。確かに今すぐ会いたいとは思っていたが、こんな形で会いたくなどなかったのに。明らかに今の彼女は体調を崩していた、それもかなり悪いと言ってもいい程に。

「……ラクツ、くん……?」
「ああ、ボクだ。ファイツ、しっかりしろ……っ!」

自分の口からまたもや勝手に飛び出したその言葉を聞き取って、ラクツは落ち着けと必死に言い聞かせた。しっかりするのは自分の方だ、まずは落ち着かなければと叱咤する。ここからすぐ近くである自宅にとりあえず運んで休ませるという手もあるが、この状態なら病院に連れて行くのが最善手だろう。そんな判断をどうにか下したラクツは、すぐに鞄から携帯を取り出した。ちょうど非番で自宅にいるはずの父に車でここまで来てもらって、そのまま病院に行ってもらおうと思ったのだ。コールから数秒で電話に出た父に早口で今の状況を説明したラクツは、早々に電話を切って数回深呼吸する。この時間に父が家にいたことはまさに幸運でしかなかったと、柄にもなく神に感謝した。

「……ファイツ。これから父さんの車で病院に連れて行くから、もう少しだけ頑張ってくれ……っ!」

電話越しの父は落ち着いていたが、酷く体調を崩しているファイツの姿を目の当たりにしたラクツはとても平静ではいられなかった。掠れ声でそう告げて、返事も待たずに傘を持ったままファイツを横抱きにする。公園の入口まで彼女を運んで待っていなさいという父の指示を実行に移す為だ。発熱からかしきりにぶるぶると震えている彼女の身体は、驚く程に軽かった。

「ラクツくん……」

耳元で自分の名を弱々しく呼ぶ彼女の声を、そして次に「どうして」と言ったその小さな声を。その両方をしっかりと聞き取って、ラクツは思い切り眉をひそめた。彼女の言葉の続きは簡単に想像出来る、大方何故ここにいるのかを疑問に思ったのだろう。どうしてなんてこっちが訊きたい、どうしてこんなところに1人で、それも傘も差さずに濡れたままでいるのか。そう言いたかったけれど、その言葉を口には出さなかった。急に体調が悪くなったのかもしれないし、今はそんなことを気にするより先にすべきことがある。とにかくこの娘を早く病院に連れて行くのが第一だし、彼女の従姉への連絡もしなければならない。とりあえずそれは車の中ですることにしようと決めて、ラクツはファイツの身体を改めてしっかりと支えた。自分の身体に雨が降り注いでいることなど最早気にならなかった、ファイツにさえかからなければそれでいいと思った。ここにいた理由を尋ねるのは、この娘の体調が良くなってからでいいだろう。

「ごめん、なさい……」
「その言葉はボクではなく、自分自身に言ってくれるか?」

こんな時でもこちらに対して謝ったファイツに、ラクツは溜息混じりに答える。こんな状況でなければ、心に浮かんだ小言の1つや2つをはっきりと声に出しているところだ。

「今はとにかく自分のことだけを考えてくれ。いいな、ファイツ」
「はい……」

具合が悪い人物がファイツだったというだけで、ラクツの心はいとも容易く揺さぶられてしまうのだ。普段の冷静さは今や欠片もなかった。早く来て欲しいという願いを込めて道路を鋭い目で見つめながら、逸る気持ちを必死に抑えつける。自分がそうなる理由なんて、ファイツだからという以外にあるはずもなかった。