school days : 161
きっともう気付いてた
何も、最初から終わりまで試合を見ようと思っていたわけでもないのだ。ちょっとだけ剣道部の彼が試合をしているところを見るつもりだった、本当にちょっとだけのつもりだった。長くいるつもりはないのだから、ちょっとくらい体調が悪くても大丈夫。そう自分に言い聞かせて学校に出かけたわけなのだけれど、しかしそれが自分の身体には良くなかったらしい。結果的には自分が思っていたよりずっと早く帰宅する羽目になったファイツは、マンションの壁に手をついた状態ではあはあと浅い呼吸を繰り返しながら鞄から鍵を取り出した。「行って来ます」と言って家を出た時はちょっとだけ頭が重くて、それに加えてほんの少しだけ寒気がする程度だった。これくらいなら大丈夫だと思ったから出かけたというのに、今やその”ちょっとだけ悪かった体調”は明らかに悪化していた。重かっただけの頭はがんがんと鳴って痛いし、かなりの距離を走った所為で息苦しかった。それに何より胸がずきずきと痛むのだ、以前感じた胸の痛みなど気にならない程の痛みだった。行くか行かないかを散々迷って結局は前者を選んだわけなのだけれど、こんなことなら出かけなければ良かったかなと思いながら、ファイツは実にのろのろとした動作で玄関の鍵を開けた。すると、目を丸くしたホワイトが立ち尽くしているのがぼんやりと霞んだ視界に映る。大好きな彼女を心配させまいと慌てて笑顔を作りながら、ファイツはもしかして熱もあるのかなとどこか他人事のように思った。
「お帰り、ファイツちゃん。随分早かったわね」
「うん……。ちょっと用があって、学校に行っただけだから……。元々すぐに帰るつもりだったんだよ……?」
「あら、そうなの?」
「うん……」
そうなんだと頷いたホワイトは、その名の通りの真っ白いエプロンをしていた。黒いポケットがついた、彼女の一番お気に入りのエプロンだ。きっと、夕食の支度をしてくれていたのだろう。帰って来てからご飯作りに取りかかろうかなと考えていたファイツは、やっちゃったと心の中で言った。つい最近無事に受験を終えたばかりであるホワイトは、晴れて休日を好きに過ごせるようになったのだ。既に夕方になっているとはいえ、夕食作りにはまだ早い時間から準備をさせてしまったことを悔やんだのだ。
「お姉ちゃん、こんな早くから夕飯作ってくれてたの……?」
「そうよ、とは言っても今は下ごしらえをしただけなんだけどね。ファイツちゃんの好きな物をいっぱい作ってあげようって思って、ついつい張り切っちゃっただけなの。ダイエット中なのは分かってるけど、それにしたって全然食べてないじゃない?だから、たまにはお腹いっぱい食べて欲しいなって思ったのよ。あ、ちゃんと低カロリーの物を作るつもりだから心配しないでね!」
「……ありがとう、お姉ちゃん……」
「アタシはファイツちゃん程料理上手じゃないからあんまり期待しないでね」と言って明るく締めくくったホワイトの、自分を思ってくれる言葉が嬉しかった。胸の痛みと頭痛を堪えながらも何とかお礼を言ってみせると、ホワイトは「どういたしまして」と言ってにっこりと笑った。だけど綺麗に笑っていたはずのホワイトは、次の瞬間ぐっと眉根を寄せた、実に心配そうな表情になった。
「……ファイツちゃん、何だか顔が赤いけど大丈夫?」
鋭い彼女の指摘に内心では大いに焦ったファイツは、だけど笑顔を貼り付けてその問いかけを否定する。以前体調が悪いなら無理はしないでねと言われたことを忘れたわけではないのだが、今はとにかくそっとしておいて欲しかったのだ。隠し事は苦手だけれど、ここは頑張るしかない。
「うん、全然平気!多分、走って帰って来たからじゃないかな」
「走って、って……。そんなに急いでたの?」
「う、うん。……ほら、最近ダイエットしてるから……」
「ああ、そういうことね。でも無理は禁物よ、ファイツちゃん。アタシよりずっと細いんだから、ダイエットも程々にしておきなさい」
「うん……。そんなに心配しなくても大丈夫だよ、お姉ちゃん!」
「そう?ちゃんと分かってるならいいんだけど……」
以前、自分に「無理はするな」と心配そうな声でそう言ってくれた幼馴染の顔がふと浮かんで、ファイツは無意識に顔を歪めた。どうしたのと不思議そうに問いかけた従姉に慌てて明るい声で大丈夫だからともう一度返して、ファイツは逃げるように自室へと向かった。そして自分の部屋のドアを閉めると、ベッドに身を投げ出した。あまりに勢いをつけてそうした為にベッドが軋んでかなりの音を立てたが、そんなことは最早気にならなかった。
「はあ……」
うつ伏せになった状態で枕の端を掴んで、そっと溜息をつく。手をまだ洗っていないことも、このままでいると制服が皺になってしまうということも分かってはいたのだけれど、そんなことはどうだって良かった。頭痛もそうだが、何よりこの胸を刺すような鋭い痛みを早くどうにかしたかった。
(胸が……すごく痛い……)
とにかく胸が痛かった。ずきずきと絶え間なく痛むだけならまだしも、心臓を誰かに掴まれたかのように時折ぎゅうっと締め付けられるのが中々に厄介だった。感じるその痛みと息苦しさをどうにかしたくて、ファイツは思い切り枕の端を掴んでみた。だけどこの胸の痛みは少しも良くならなくて、今度は枕をぎゅっと握った拳でぼすんと叩いた。
(……何やってるんだろう、あたし……)
枕をどれ程叩いたところでどうにもならないことはもう理解していたが、ファイツはそれでも意味もなくその行為を繰り返していた。通算7回目の枕叩きを終えたちょうどその瞬間に自分のことを心配するホワイトの声が遠くで聞こえて、ファイツは姿勢を変えないままで「大丈夫」と声を張り上げた。その言葉が嘘でしかないことは自分が一番よく分かっていたのだけれど、素直に「大丈夫じゃない」という心情を吐露するなんて今のファイツにはとても出来なかったのだ。そう言えば、あの優しい従姉のことだからきっと自分を心配してこの部屋に入って来るだろう。それも彼女に心配をかけるようで単純に気が引けたし、この皺になった制服で寝そべっている姿を見られるのも遠慮したかった。
それに何より、この酷く歪んだ表情を見られてしまうことが嫌だった。自分の意地でしかないと分かってはいるのだが、それでもホワイトに今の自分の顔を見られることはどうしても嫌だったのだ。わざわざ鏡を見なくとも分かる、今の自分の姿はとてもホワイトや彼の言うような可愛いものとはお世辞にも言えないだろう。そもそもファイツは、自分自身をそう思ったことはただの一度だってないのだけれど。
(……それに比べて、あの女の人はすっごく綺麗だったなあ……)
静かな場所でこうして1人になった為なのだろうか、ファイツの脳裏には学校の体育館で出会った女の人の姿が鮮明に映し出されていた。今思い出しても、本当に本当に美人な女の人だった。毛先まで手入れが行き届いた、羨ましいとしか言いようのない艶々とした綺麗な茶色い髪。染み1つない雪のように白い肌に、まるで深い海を思わせるような色をした大きい瞳が印象的だった。睫毛だって驚く程に長かった上に鼻筋もすっと通っていたし、形のいい唇は桜色に色付いていた。女の自分からしても非の打ち所のない程に綺麗な顔をしていたのに、プロポーションも見事としか言いようのない人だった。まさに絶世の美女という言葉が相応しい人だとファイツは思った。ファッションモデルでもやっているのだろうか。
(ラクツくん、あんな綺麗な人に好かれてるんだ……)
どこをどう見ても綺麗でしかないあの女の人は、ファイツの幼馴染である彼を好きなのだと言っていた。自分の気持ちにきっと一切の迷いもないのだろう、実に堂々とした物言いだった。あれ程綺麗な人なのだから、それは自信に満ち溢れていて当たり前だ。彼女の隣には特徴的な髪型をした背の高い男の人がいたことには気付いていたけれど、あの人はきっとつき添いで来ただけなのだろうとファイツはぼんやりと思った。
(あの人とラクツくんって、お互いを知ってるんだよね……。あんな綺麗な人と、どこで知り合ったんだろう……)
見るからに大人っぽい人だった、まさに自分が思い描く”理想の大人の女性像”にぴったり当てはまると言ってもいい程に。自分なら数歩歩いただけでたちまち転んでしまうようなヒールの靴も、そして自分にはとても着こなせないような胸元が開いたドレスも、あの人なら何の違和感もなく身に着けられるに違いない。本当にどこを取ってみても、自分とは正反対の女の人だ。いや、こんな自分と比べること自体がそもそもおこがましいのだけれど。
(ラクツくんとは何歳差なのかなあ……)
大人っぽい幼馴染を「あの子」と形容するくらいなのだ、自分達より歳上だと考えてまず間違いないだろう。もしかしたら成人しているのかもしれない。そうなると自分達とは3歳以上離れている計算になるわけだが、だけどそれでもお似合いなカップルだとファイツは思った。大人びている彼の隣には、きっとあのくらい大人びた女性が似合うのだ。むしろあの人のように綺麗で大人びた女性でないと、彼にはとても釣り合わないのではないだろうか。今更だけど、そんなことをファイツは思った。
「あたしじゃ……」
そう無意識に言いかけて、しかしファイツは途中でその言葉を飲み込んだ。これ以上口にしたらいけないと思ったのだ。だけど黙ってしまうと、否が応にもあの人と自分の幼馴染のことを考えてしまう。彼は誰ともつき合っていないと言っていたことはちゃんと憶えているし、どうやらプラチナともつき合っていないようだけれど、あの人に気持ちを打ち明けられたら二つ返事で頷いてしまうかもしれない。何と言っても、あの人はそれは綺麗な大人の女性なのだから。自分の幼馴染とあの人が腕を組んで歩いている光景を勝手に想像したファイツは、またもやずきんと大きく痛んだ胸をぎゅっと掴んだ。
「……あたしじゃ、絶対に適わないよ……っ」
さっき口にしかけた言葉を一度は何とか飲み込めたのだけれど、今度は上手く行かなかったらしい。自然と零れ落ちたその言葉と共に、涙も一筋零れ落ちる。どうしてもっと早く気付かなかったのかなと、ファイツは心の中で独り言を言った。
(よく考えてみれば、すぐ分かることなのに……)
続けてそう呟いて、すぐにその言葉を否定する。きっと自分は、心のどこかで既に気付いていたのだ。だけどつまらない言い訳を繰り返して、中々自分の気持ちを認めようとしなかった。
「…………」
ずっとずっと逃げていたわけなのだけれど、とうとうファイツは自分の気持ちに向き合わざるを得なかった。何しろこんな言葉を無意識に呟いてしまったのだ。そんな言葉を呟いてしまう程に嫉妬をしているのだと、認める他なかった。”よく分からない”なんていうのはまさに言い訳でしかなくて、つまり自分は幼馴染の関係である彼のことを幼馴染以上に想っているのだろう。彼のことを男の人として好きになってしまったから、だからファイツは今こんなにも胸を痛めているのだ。彼とお似合いにも程があるあの人にこんなにも嫉妬心を抱いてしまう程に、そして自分の幼馴染を好きだと言ったあの人の前から走って逃げてしまう程に、自分は彼を好いているのだ……。
(本当、バカみたい……)
いつからそうなったのかははっきりとは分からないけれど、とにかく自分が彼を好きであるという事実をとうとう認めざるを得なくなったファイツはそう独り言ちる。もっと早くこの気持ちを認めていたとしたなら、もしかしたら何かが変わっていたかもしれないのに。彼の方だって、もしかしたら自分を好いてくれているのかもしれないのに……。彼と幼馴染以上の関係になるというあり得たかもしれない未来に想いを馳せて、けれどすぐに何を考えているんだろうと自分の幻想を打ち消した。心の底では気付いていながら、しかし彼への想いを素直に認めずに日々を過ごして来たのは果たして誰だっただろうか。自分にとって都合のいい未来を今更夢見るのは止めようとファイツは思った。今自分がしなければならないことは、現実を見ることだ。こんな自分と彼ではとても釣り合うわけがないという現実を、真正面から受け止めなければならないのだ。
(こんなあたしじゃ、ラクツくんの彼女にはなれないよ……)
幼馴染の関係である彼への気持ちと、そして彼の他にもう1人気になる人が依然として存在しているという事実を認めて、ファイツはそっと枕に額を当てた。Nのことは、正直今でも気になっている。好きか嫌いで問えば、間違いなく好きだと言えるだろう。Nへ抱くこの気持ちも、彼へと抱いている気持ちと同じ好きなのだろうか。自分はやはり、2人の男の人を同時に好きになってしまったのだろうか。
(……本当、酷い子だよね)
もしもそうだとしたら、自分は何て罪深い人間なんだろうとファイツは思った。そしてもしかしたらあの彼が自分を好いていてくれるかもしれないという可能性を思って、慌てて嬉しいという気持ちを押さえつけるかの如くぶんぶんと首を振った。万が一両想いだったとして、けれどこんな自分と彼では釣り合うはずがないと何度も言い聞かせる。きっと、彼はただ1人の女の人を大事にする男の人なのだろうけれど、対する自分はそうではないのだ。彼の他に少なくとも気になっている男の人が1人いるという、何とも気が多い女なのだ。こんな自分があの彼とつき合えるはずもない。それに彼の隣には、自分なんかよりずっとずっと相応しい人がいるのだ……。
「…………」
ファイツは目をごしごしと擦った、こんな自分は泣く資格すらないと思ったのだ。そのまましばらくはぼんやりと横たわっていたのだけれど、この静かな部屋でこうして1人になっている所為か次から次へと2人への想いが溢れて来てしまい、ついにファイツはのろのろとした動作で身体を起こした。この部屋にいたくないと、無性に思ったのだ。特に幼馴染である彼との、上手くいくはずもない恋のことをいつまでもぐるぐると考えてしまうのが、どうしても怖かった。かと言って、ホワイトのいる場所へ行くのも気が引けた。彼女にどうしたのと訊かれることも避けたいし、何よりあの優しい従姉に全て打ち明けてしまう可能性を恐れたのだ。これは他でもない自分の問題で、ファイツが1人で考えなければならないことなのだ。誰かに頼ってはいけないような気がしてならなかった。
「……ちょっとだけだもん、いいよね……」
かくなる上は、外に出ることだ。気を紛らわせるにはそれしかないと思ったファイツは、ゆっくりと立ち上がって制服の皺を伸ばした。そして、玄関を目指してゆっくりとした動作で歩き出す。ちょっとだけ、本当にちょっとだけだ。少しくらい気晴らしに外を歩くくらいなら、別に構わないだろう。学校の近くに出たという不審者はどうやらつい先日警察に捕まったらしいし、外はまだ真っ暗になってはいないし、少し出歩くくらい何の問題もあるはずがない。そう結論を出したファイツは「ちょっと出かけて来るね」とホワイトに明るい声で言い残して、玄関の扉を音を立てて閉めた。自分の体調が悪いということは知っていたけれど、そんなことは至極小さなことだと思えた。