school days : 158

大好きだった男の子
ぼんやりとテレビ画面を眺めながら、ファイツは心の中でどうしようと繰り返し呟いていた。まさか、あの彼が恋愛ドラマを見ているなんて思わなかったのだ。食器洗いを終えた自分が予想外の光景に思わず足を止めてしまい、彼に声をかけられて我に返ったのはほんの数分前のことだった。

(うう……。気まずいよ……)

冷たいコーヒーゼリーをスプーンで掬って口の中に入れながら、ファイツはそっと目を伏せた。もう気まずくて気まずくて仕方がなかった。デザートを食べて気を紛らわせようにも、恋愛ドラマをやっているのではそれもものすごく難しいように思えた。こんなことならテレビを見ながら食べようだなんて言わなければ良かったと、ファイツは今更ながらに自分の発言を後悔した。テレビを見てていいよなどと、わざわざ念を押すかのように彼に向けて言ったのにはちゃんとした理由がある。もしかしたらまたラクツに見つめられてしまうかもしれないと思うと、そう言わざるを得なかったのだ。テレビを点ければ彼の視線は画面に向くだろうし、番組の音声がある限りは場が静まり返ることもないだろう。気まずくなるのを避けたいと思って言った言葉が、けれどかえってファイツを気まずくさせていた。大の苦手なホラー番組のチャンネルにされるよりはいいかもしれないが、どの道気まずいことには変わりがない。

(もう、どうしてこんな時にこんな番組をやってるのよ……っ!)

コーヒーゼリーを全て食べ終えてしまったファイツは心の中でぶつぶつと文句を言った、何も今このタイミングでやらなくてもいいでしょうとも思った。だけど恋愛ドラマのチャンネルにした張本人であるラクツに向かって文句なんて言えるはずもなかった、何しろ「好きな番組を見ていていいよ」と彼に言ったのは自分の方なのだ。今更「やっぱり変えて欲しい」と言うなんて出来ないし、そんなことを言えばきっと理由を問われてしまうだろう。優しい彼のことだ、正直に気まずいからだと告げれば多分変えてくれるとは思う。だけどそう告げること自体が自分にはとても無理なことで、だからファイツはそわそわとしながらソファーに座っていた。

(ラクツくんは何とも思わないのかな……。あたしみたいに、気まずいって思わないのかな……)

少し離れているラクツを横目で見てみるが、特に普段と変わった様子は見られなかった。普段と変わらず落ち着いている彼はテレビ画面をまっすぐに見つめていて、ファイツは少しだけ落ち込んでしまった。彼に比べると殊更子供っぽく感じてしまうのは今に始まったことではないが、男の人と恋愛ドラマを見るだけでこんなにも緊張してしまう自分がものすごく情けなく思えたのだ。

「……っ」

画面には男女がキスを交わす様子が映し出されていて、ファイツは思わずぱっと視線を逸らした。お子様な所為なのか、こういうシーンを見ると決まって気恥ずかしくなってしまうのだ。おまけに今自分のすぐ近くにいるのはホワイトではなくラクツなわけで、そう思うと尚更その気持ちは強くなってしまった。もうダメだとファイツは思った、この気まずさを今すぐどうにかしたくて仕方がなかった。

(で、でも……。どうすればいいの……?)

手っ取り早いのはラクツに断ってテレビを消してしまうことなのだろうが、まず間違いなく不審がられてしまうだろう。彼がその理由を尋ねないでいてくれる保証はどこにもないわけで、そうなってしまった場合その状況を上手く切り抜けられるかどうかファイツには自信がなかった。下手をすれば、今よりもっと気まずくなってしまうことも考えられる。この案は良くないかもしれないと思ったファイツが次に考えたのは、彼と当たり障りのない会話をして気を紛らわせることだった。だけど、そんなことをすれば彼の目線は自分に向いてしまうかもしれない。自意識過剰かもしれないが、またラクツにまじまじと見つめられてしまうかもしれないなんて思うと、ファイツの心臓は勝手にどきどきと高鳴ってしまった。

(どうしよう、いったいどうすれば……。……あ!)

大いに困り果てながら何気なく前を見てみると、ふとあるものが視界に飛び込んで来て内心で声を上げる。いつの間にかCMになっていたらしく、美味しそうなパフェを食べている綺麗な女優が映っていたのだ。これだ、とファイツは思った。そういえば自分は、ラクツにパフェの食べ放題に行こうと誘われていたのだ。確か彼は、広告を後で見せると言っていたではないか。このドラマが終わった後でそうするつもりなのかもしれないけれど、今見せてもらおうとファイツは思った。その広告を見れば、この気まずい空気も気にならなくなるかもしれない。渡りに船とはまさにこのことを言うのだろう。

「ラ、ラクツくんっ!」

この決心が鈍らない内にと、ファイツは幼馴染の名前を呼んだ。緊張で語尾が少し震えてしまったけれど、今はそんなことを気にしている余裕はなかった。早く彼に広告を見せてもらわなければと、ファイツはそれだけを考えていた。

「さ、さっき言ってた広こ……痛っ!」

言葉を最後まで言わずにファイツはそう叫んだ、緊張の所為か頬の内側を噛んでしまったのだ。彼に大丈夫かと心配される羽目になってしまい、口元を押さえながら小さく頷く。今度は失敗しないようにと自分に言い聞かせながら、もう一度口を開いた。

「さっき言ってた広告、あたしに見せて欲しいの……。えっと、何だか気になっちゃってね……っ」
「そうか、まだ見せていなかったな。分かった、今持って来る。そのグラスは台所へ持って行くか?」
「あ……。ううん、そっちのテーブルの上に置いておいてくれる?」
「ああ」

そう言うとラクツはさっと立ち上がって、手を差し出して来た。ありがとうと言って彼に空いたグラスを手渡したファイツは、心の中で”本当に優しいな”と思っていた。テーブルの上にグラスを置いてから床に置いた通学用鞄の側で屈んだ彼が、新品同様に綺麗なバッグの中から黒い携帯を取り出す様子をファイツはぼんやりと見つめていたが、彼がこちらを振り返った瞬間に勢いよく視線を逸らした。自分でそうしておきながら、もしかしたら何か言われるかもしれないと急に不安に駆られたものの、その数秒後にファイツは安堵の溜息を漏らした。当のラクツがすぐに携帯を操作し始めたからだ、どうやらその広告は携帯に保存されているらしい。

「……先の話になるが、2月と3月の特定の日に条件を満たした上で来店すれば半額になるらしい。どうせならボクとしてはその特定の日に行きたいわけだが、ファイツの都合はどうだ?」
「えっと、その特定の日って……?それに、条件とかあるの……?」
「説明するより見せた方が早いな。……ほら、これだ」
「あ、ありが……。……えっ……?」

”ありがとう”を言いかけたファイツは、彼に手渡された携帯を見た瞬間に口を半開きにして固まった。この携帯に表示されている喫茶店の広告には、確かに彼の言う通り特定の日に条件をクリアした上で来店すれば半額になると書かれていた。だけどその日付けが問題だった、何度見返してみてもそこには2月と3月の14日と書かれていたのだ。つまりはバレンタインデーとホワイトデーだ。極めつけはその条件だ、どう見てもそこには”男女で来店するのが条件です”と書かれている……。

(これってやっぱり、デート……だよね……)

ラクツのことだ、この広告を隅々までよく読んだ上で自分を誘ってくれたに違いない。確かにパフェ食べ放題というのは嬉しいし、半額になるというのもありがたい。だけどどうしようとファイツは思った、恋愛ドラマを眺めていたさっきより比べ物にならない程気まずかった。バレンタインデーかホワイトデーに男女で来店するという条件で半額になるということは、このパフェ食べ放題というのは多分カップル向けのイベントなのだろう。そう思ってよくよく見てみれば、広告の上部には大きな文字で”カップルさんにおすすめのお得なイベントです”なんて書かれていた。

(で、でも……っ。あたし達は、カップルってわけじゃないのに……)

カップルの世間的な定義がどうなのかは知らないけれど、少なくとも自分にとってそれは”恋人同士の男女”を指す言葉だった。だけど自分達はあくまで幼馴染であって、つき合っているわけではないのだ。彼に好きだとも言われていないし、第一彼への気持ちもまだよく分かっていない。そんな自分がこんなイベントに彼と一緒に行っていいのかなとファイツは思った、何だかものすごく場違いな気がする……。それに、そもそもどうしてラクツは「直接会って言いたい」なんて言ったのだろう?

「……ファイツ」
「ひゃあっ!」

肩をびくりと震わせると同時にファイツはそう叫んだ、いつのまにかソファーに座っていたラクツに声をかけられて単純に驚いたのだ。心臓がどきどきとうるさかった。

「い、い、い、いつからそこにいたの……っ!?」
「いつからと言われても、ボクは先程からずっとここにいたがな。……それで、都合は大丈夫か?3月14日の方が日曜日で休みだから、その日にするか?」
「あ、うん……。あたしはそれで大丈夫……」
「そうか。……じゃあその日に行こうか」
「…………」

ファイツは何も言わなかった、言えるはずもなかった。別に無視したわけではなくて、じっとこちらを見つめている彼の視線を強く感じて何も言えなくなってしまったのだ。とりあえず何か言わなきゃと思ったファイツは、大いに焦りながら言葉を探した。

「あ、あの……っ!ラクツくんは……っ」

口から勝手にそんな言葉が飛び出して来て、ファイツはどうしようと思った。とっさに何でもないとごまかすことも考えたのだけれど、そうしたら何だかまた見つめられてしまう気がする。言いかけた言葉を口にした方がいいかもしれないと直感的に思ったファイツは、けれどまたもや困ってしまった。何を言えばいいのか分からなかったのだ。だけど、訊きたい言葉が浮かんで来ないわけでもなかった。”どうしてあたしを誘ってくれたの”とか”本当にあたしでいいの”とか、”あたしをどう想ってるの”とか。ラクツに訊きたい言葉は正直言ってたくさん思い浮かんだのだけれど、果たして今この場で尋ねてもいい質問なのだろうか?

(ううん……。そんなの訊けるはず、ないよ……)

今心の中に浮かんだ言葉を尋ねたら、ラクツに同じような言葉を問い返されるような気がしてならなくて、ファイツは微かに首を横に振った。どう転んでもこの場の空気が気まずくなることは否めないし、彼も自分も困ってしまうだろう。そう思ったファイツは、結局当たり障りのない質問をしてこの場を切り抜けることにした。

「ど……。どうして、直接話してくれたの?迷惑ってわけじゃないんだけど、この広告をメールで送った方が楽なんじゃないかなって思ったから……」

緊張している所為かところどころ言葉が足りないことに言い終えてから気が付いたのだけれど、ラクツは自分が言いたいことを正確に汲み取ってくれたらしい。頷いた彼はやっぱりこちらをまっすぐに見つめていたし、やっぱり視線が痛かった。

「それは、ファイツの喜んだ顔が見たかったからな」
「……え」
「それと、もう1つ。……こういうことは、直接会って口にするべきだと思ったからだ」
「…………」

こういうことって、やっぱりあたしが考えてる意味で合ってるのかな。そうファイツは心の中で呟く、つまりは彼もこれをデートだと認識しているということなのだろうか。

「……ボクもファイツに訊きたいことがあるんだが」
「な、何……?」
「今、誰かつき合っている男はいるのか?」

静かな声だった。だけどその静かなラクツの問いかけで、一際大きく心臓が高鳴った。どきどきどきと、うるさいくらいの心臓の鼓動を耳にしながら、ファイツは無言で首を横に振った。

「そうか、良かった。今更だが、流石に男がいる娘を誘うのは問題があるからな。……そうでなくて本当に良かった」

ラクツが良かったと繰り返し口にした事実に、ファイツはただ戸惑った。何だかものすごく安心したと、それとなく言われているような気がする。彼がいったいどういう理由で”良かった”と言ったのか無性に気になったが、ファイツは”何でそんなことを訊くの”とは言えなかった。言えば、彼は間違いなくその理由を口にするだろう。そう出来なかった代わりなのか、少しだけ開いた唇から無意識に言葉が零れ落ちる。

「ラクツくんこそ、どうなの……?」

好きな女の子がいるのかと自分が尋ねなかったことに少しだけ安堵しつつ、ほんのわずかに彼の方に顔を向ける。すると一瞬の間の後に溜息混じりの苦笑が聞こえて来て、ファイツは何となく居たたまれなくなった。こんなにも笑われるなんて思わなかった、もしかしたら彼に呆れられたかもしれない。

「ボクか?誰ともつき合っていない。もちろん、プラチナくんとも」
「そう、なんだ……」
「ああ。それに、恋人がいたらそもそも誘っていない。……ファイツにとって、ボクはそれ程軽薄な男に見えているのか?」
「う、ううん……」

軽薄なんてとんでもない、ラクツはその言葉とは真逆の人間だ。彼の声色から、そう言われるのをあまり快く思っていないことを察して心の中でごめんねと謝った。大真面目な彼のことだからそうだと誤解されるのを嫌がるのは当然だろうに、ファイツには何故か別の意味で彼が気分を害したように思えてならなかった。

「一応言っておくが、ボクは節操なしな男ではないぞ。それに、そこまで器用でもない。ただ1人を大切に想うだけで精一杯だ。他の娘の存在が入る余地なんてない」
「…………」

まるで、まさに今好きな子がいるとでも言わんばかりの口振りだった。何と答えればいいのか分からなくて、ファイツはただ黙っていた。「好きな子がいるなら、あたしじゃなくてその子を誘って」とは言えなかった。「好きな子って誰なの」とも言えなかった。何だか、彼にそう言ってはいけないような気がした。ファイツが好きだと、大切にすると、他の子に興味なんてないのだと。そうはっきりと口にこそしないものの、何だか彼にそんな言葉を告げられているような気がしてならなかった。それを自意識過剰だとか、自惚れや勘違いという言葉で片付けられないのは何故なのだろうか。

「……ファイツ」

耳に聞こえたのは、さっきより更に静かな声だった。ともすればテレビの音にかき消されてしまいそうな程に静かな声を聞き取って、ファイツは「なあに」と彼よりも更に小さな声で問い返す。いつの間にかラクツが自分との距離を詰めていることにようやく気が付いて、そんなに近付かないでと心の中で呟いた。彼が嫌なわけじゃない、彼が怖いわけでもない。それでもファイツは心の中でそう叫んでいた、そんな目であたしを見ないで欲しいとも思った。ひたすらまっすぐこちらを見つめて来る幼馴染から少しだけ離れようとして、だけどそれは無理なのだとファイツはすぐに悟った。自分の左手の上に彼の右手を添えられてしまっては、離れようにも離れられない。自分がラクツに何を言われてしまうのかを察すると同時に、顔中に熱が一気に集まるのを感じる。真冬なのに熱くて堪らなかった。

「…………」
「…………」

だけど自分の予想に反して、ラクツは手を重ねたままただこちらを見ていた。睨みつけられているというわけではないけれど、その射抜くような視線からファイツは目を逸らし続けていた。彼は何も言わなかったけれど、その目が好きだと言っているような気がした。彼のまっすぐな視線をその身に受けて、けれどファイツはそれは困ると思った。今は止めて欲しいとも思った。ラクツのことが決して嫌いというわけではない、好きか嫌いかと問われれば間違いなく好きだと言える。だけど、今告げられるのはどうしたって困るのだ。幼い頃、無邪気にも好きだと何度も告げていた相手が今、自分のすぐ近くにいる。その大好きだった男の子に手を握られて、ファイツは胸を高鳴らせると同時に困ってしまっていた。例えこの場で決定的な一言を告げられたとして、すぐに答が出せるはずがないと分かっていたからだ。お願いだからその言葉を言わないで欲しいと、ファイツは心の中で繰り返し叫び続けた。

「…………」
「…………」
「……すまないな、ファイツ。何でもないから、どうか気にしないでくれ」

彼の視線を避け続けてから、いったいどれ程の時間が経ったのだろう。長く深い息を吐き出した後に、どこまでも静かな声でラクツはそう言った。こちらが何も言えないでいるうちに重ねていた手を音もなく離して立ち上がった彼は、「今日はもう帰るから」と肩越しに振り返りながら口にした。

「そっか……。じゃあ、玄関まで送るね……」
「そうか、わざわざありがとう」

鞄を持って歩き出した彼を追って、ファイツはゆっくりと歩く。玄関に着いた彼が靴を履くのを、何も言わずにただぼんやりと眺めていた。

「重ねて言うが、本当に美味しかったぞ。美味しい手料理をありがとう」
「……うん」
「それと……。色々と困らせて、悪かったな」
「…………ううん」
「おやすみ、ファイツ」

そう言って玄関の扉を閉めたラクツに声を出さずに頷いて、ファイツは閉じている冷たい扉に額をと手の平を押し当てた。困らせて悪かった。そうラクツは言ってくれたけれど、謝るのはこっちの方だとファイツは思った。多分自分のことを好きでいてくれる幼馴染にそう言わせたのは紛れもなく自分だ。言おうとしていた言葉を飲み込ませて、挙句の果てには謝らせてしまった。こんな最低な自分を、あの彼がどうして好きになってくれたのかがファイツには分からない。分かるのは、自分が彼のことを嫌ってはいないということだけだ。だけどそれじゃあ男の子として好きなのかと問えば、やっぱりはっきりとした答はすぐに出てくれないのだ。

「ごめんね、ラクツくん……」

彼は「気にしないでくれ」とは言ったけれど、「忘れてくれ」とは言わなかった。多分また、ラクツは今日のようなことをするのだろう。そして彼がそうする度に、あたしは今日のような態度をとるのだろうとファイツは思った。自分の気持ちがまだはっきりと分からないのだから仕方のないことだとは思うのだけれど、やっぱり胸はずきずきと罪悪感で痛んでしまう。大好きだった男の子を想いながら、ファイツは1人静かに目を伏せた。