school days : 157
特別な女の子
好意を抱いているという事実を差し引いてみても、ファイツの料理の腕は高いとラクツは思っている。からりと揚がった鶏の唐揚げの最後のひと口を食べ終えたラクツは内心で感嘆の溜息を漏らした、どうしてこんなにもファイツは料理上手なのだろうか。見た目も綺麗だし、何より彼女が作る料理の味付けが薄味を好む自分の舌にものすごく合っているという点が更にその評価を押し上げていた。自分だってまったく料理をしないわけではないが、例えどれ程練習を重ねたとしても彼女のようにはとても上手く作れそうにないとラクツは思った。「……ラクツくん」
実に控えめな声量でファイツに名を呼ばれたラクツは、視線を料理が乗っていた皿から正面に移した。すると、何とも不安そうな表情をした彼女の蒼い瞳が揺らめいているのが視界に映る。
「どうしたの?……もしかしてあたしの料理、何か失敗してた?」
何故彼女がそのような発言をするに至ったのかを訝しんだラクツは、とりあえず先にファイツの問いを否定してから自分の行動を振り返ってみた。ラクツがしたことといえばファイツと会話をしながら彼女の手料理に舌鼓を打っていただけなのだが、程なくしてそれらしき答を見つけてわずかに眉をひそめる。
(……ああ、そういうことか)
咀嚼しているのならまだしも、料理を胃の中に収めた上でなお空になった皿に視線を留めていたのだ。これでは疑問を抱かれても仕方がないだろう。そこで自分の料理の出来を疑う辺りが実にこの娘らしい反応と言えるわけだが、彼女は妙に急いで料理を作っていたからそれも仕方のないことかもしれない。「主食は鶏の唐揚げでもいい?」とファイツに尋ねられた際、ラクツは果たしてこのまま頷いていいものか正直言って逡巡したものだった。別に唐揚げが嫌いだというわけではなくて、単純にこの娘の手を煩わせる気が引けたというだけのことなのだけれど。
こんな時間から揚げ物をするなんて大変だろうと、ラクツは一応「大変だろうから別のメニューでもいいぞ」と告げては見たのだが、ファイツは「大丈夫だよ」と言って聞かなかった。そう言ってくれる彼女に自分の意見を押し付けるのも気が引けたし、単純にファイツが作る唐揚げが楽しみだったラクツは「じゃあそれで頼めるか」と告げたのだ。そうして出されたメニューである鶏の唐揚げと付け合わせのサラダ、そしてご飯と味噌汁はどれも絶品だったからやはりファイツの料理の腕は高いのだろう。「簡単なものでごめんね」と彼女は言っていたのだけれど、ラクツにはとてもそう思えなかった。
(ファイツにはもっと自信を持って欲しいものだが、難しいものだな……)
料理のことだけではない。自分が住んでいる家なのだからなおのこと堂々としていてもいいのに、この娘は妙におどおどとしてしまっていた。以前から何度もそうして欲しいと告げたのだけれど、未だにこの娘は自分に自信が持てないらしい。自己を卑下するような発言をしないだけまだいいと言えるが、ラクツとしてはやはり彼女に自信を持って欲しいのだ。そうはっきりと言いたいのはやまやまなのだが、あまり執拗に告げてしまうと却ってこの娘を委縮させてしまいそうな気がしたラクツはそれについては何も言わずに手を合わせた。
「……ご馳走様。今日の料理も美味しかったぞ、ファイツ」
自分の為に高い料理の腕を奮ってくれたという事実が、とてつもなく嬉しい。万感の思いをその言葉に込めて一礼すると、ファイツもまたぱっと両手を合わせて「お粗末様でした」と返した。その慌て振りと、何よりはにかみながら「ラクツくんの口に合ったなら良かった」なんて言うこの娘がどうにも愛しくて。だからラクツはそのままファイツの顔を真正面から見つめていた。食事中だって何度もそうしていたわけなのだけれど、これが不思議と飽きないのだ。そうするとファイツの眉が段々と八の字に寄せられて行く様子が見えて、ラクツは内心で苦笑を漏らす。その表情からしても、多分この娘は今ものすごく困っていることだろう。
それは重々理解しているのだけれど、ラクツはファイツを見つめることを止めようとはしなかった。見る限り本気で嫌がっているわけでもなさそうだし、何よりラクツ自身がそうしたかったのだ。彼女が本気で嫌がることは流石に出来ないしそもそも自分がそうしたくないのだけれど、そうでないことに関しては好きにさせてもらうつもりでいる。何しろ余計な気を遣わなくていいよと言ったのは、まさしくファイツ自身なのだ。その言葉をありがたく甘受したラクツは、想い人に対して実にまっすぐな視線を向けていた。
「あ、あの……っ」
元から人に注視されることを苦手としているファイツだ、流石にこちらの視線に耐え切れなくなったのだろう。彼女は明らかに目を逸らしながら小さく言葉を漏らしたが、それでもラクツはファイツを見つめ続けていた。彼女の顔が瞬く間に赤く染まっていくのが分かってはっきりと笑みを浮かべる、本当にどうしてこんなにも可愛いのだろうか。
「ラクツ、くん……っ」
「何だ?」
「ど、どうしてそんなに見てるの……っ?」
ただでさえ可愛い彼女は今俯きがちになっていて、結果として彼女に上目遣いでそう尋ねられることになった為にラクツの心臓は大きく音を立てた。自分が今こちらの目にどれ程魅力的に映っているのかを、この娘は知らないに違いない。何とももったいないと思いながらも素知らぬ顔で「迷惑か?」と問い返すと、彼女は間髪入れずに首を横に振った。はっきりとそう言わないだろうと思っていたが、万が一ということもある。自分の問いをすぐに否定してくれたことによる安堵と、何より必死に「そんなことないよ」と言うファイツの反応にラクツは笑みを深めた。
「あ、あのね……っ。全然、迷惑なんかじゃないんだけどね……っ」
「ああ」
「ラクツくんにそんなに見られちゃうと、どうしても気になっちゃって……。……ど、どうしてそんなにあたしを見てるの……?」
「ん?……あえて言うなら、そうだな……」
「う、うん……」
「ファイツが可愛いから、だな」
「え……っ」
いつもより顔を赤らめていたファイツだけれど、口元にぱっと手を当てたかと思うとついには思い切り俯いてしまった。その両頬はどう見ても先程より赤く染まっている。
「あ、あんまりからかわないで……っ」
「別にからかっているわけではないぞ。ボクは本気でそう思っている」
弱々しく言い放たれたその言葉に即座に答えると、ファイツは完全に口ごもってしまった。この娘が今何を思っているのかを知りたいと思いながらもラクツはまっすぐに見つめていたのだが、やがて彼女は俯いていた顔をそろりと上げておもむろに立ち上がった。
「デ、デザート持って来るね……。甘くないコーヒーゼリー、好きでしょう?」
「ああ、わざわざすまないな」
ファイツに倣って立ち上がったラクツは、空になった2人分の食器を持って彼女の後を歩いた。本当はファイツの手伝いをするつもりだったのだけれど、肝心の彼女が「お客さんにそんなことさせられない」と言って聞かなかったのだ。だけどせめて、食器を運ぶくらいはしたかった。冷蔵庫の扉を開けて小さなグラスを取り出していたファイツが、こちらを見て困ったように笑った。
「あ、ありがとうラクツくん……。そこのシンクの中に全部入れておいてくれる……?すぐに洗っちゃうから……」
「ファイツ、ボクが洗おうか?」
「ダ、ダメだよ!ラクツくんはお客さんなんだし、ソファーにでも座ってのんびりしてて!せ、せっかくだし……テレビでも見ながら食べない?」
「……テレビ?」
「う、うん……。あ、もしかして都合が悪かったりする?あんまり遅くなると、ブラックさんやハンサムおじさんが心配しちゃうかな……?」
「いや、それは大丈夫だが……」
「良かった!食器を洗ってから行くから、ラクツくんはソファーに座っててね。好きな番組を見てていいからね!」
ファイツからグラスを受け取ったラクツは、台所からリビングに戻る途中で忍び笑いを漏らした。テレビでも見ながら食べないと唐突に言い出したファイツの意図が簡単に想像出来たからだ。どうやら彼女は中断される前にしていた話題を蒸し返されたくないらしい。テレビを見ながら食べないかと言ったのも、おそらくはこちらの気を逸らす為だろう。
(ファイツには悪いが、おとなしく引き下がるわけにもいかないな)
グラスをテーブルに置いてからソファーに座ったラクツは、テレビのリモコンを操作した。好き勝手にチャンネルを回してみたのだけれど、あまり興味をそそられなかったのでドラマを放映しているチャンネルに固定してリモコンを静かに置いた。どうやら恋愛もののドラマらしい。普段ならこういったドラマは見ないのだが、今は好都合かもしれない。食器洗いを終えて戻って来たファイツがどんな反応を見せてくれるのか、それが今から楽しみだった。
(今はただ、手遅れでないことを願うしかないな……)
好意を抱いていることを遠回しに伝えてみようなんてデートの時は思ったけれど、それでは手遅れになってしまうかもしれない。今やラクツはそう思っていた。ペタシと話している彼女を見た瞬間、ラクツは言いようのない焦燥感に襲われてしまった。自分の見通しが甘かったことを今更ながらに思い知ったのだ。抱いた気持ちを秘めたままでいた結果、彼女を他の男に奪われるなんてことになったら本末転倒だ。
何と言ってもファイツはこんなにも可愛い娘なのだし、実は誰かと密かにつき合っている可能性だって充分にあり得るのだ。相手は彼女の想い人に当たるクラス担任か、あるいは言い寄って来たどこぞの男かもしれない。ファイツが幸せそうな顔をして自分ではない男と歩いている場面を想像するだけで、ラクツは虫酸が走る思いだった。ファイツの想いが成就して想い人と結ばれる可能性も、そしてどこぞの男に言い寄られた結果根負けする可能性も。そのどちらもまったくないと言い切れる保証が、いったいどこにあるというのだろうか。彼女を困らせたくないのも歴とした自分の本心なのだが、それ以上にファイツを他の男に奪われる方がラクツはずっと嫌だったのだ。
(まずはファイツに恋人の有無を聞かなければな……)
今更だけれど、その点は確認しておかなければならない事項だとラクツは思った。そうであって欲しいと心から思うが、彼女に恋人がいないという保証はどこにもないのだ。あのファイツのことだから、単に幼馴染のよしみで自分と出かけたということもあり得る。それでも、ファイツが自分の問いを否定してくれることをラクツは強く願った。ファイツが願った通りに否定してくれて、なおかつもし言える雰囲気になったとしたら。そうしたらずっと抱いていたこの気持ちをあの娘に告げてしまおうと決めたラクツは、緊張から心臓を高鳴らせながら少しだけ口角を上げた。