school days : 156
泣きたくなるくらいに
幼馴染に家まで送ってもらうのは、これで何度目になるだろうか。数えたことはないけれど、気付けばファイツは彼に送ってもらうことにあまり抵抗がなくなっていた。彼の優しい雰囲気がそうさせるのか、ラクツにそう言われるとファイツは自然と頷いてしまうのだ。まるでそれが当たり前であるかのように、ラクツは家まで送ると言ってくれる。先程だってそうだ、家までは歩いてたった5分ちょっとの距離なのに、だけど彼はわざわざ家まで送ると言ってくれた。こんな近い距離なのに送らせちゃって申し訳ないとファイツは思ったのだけれど、同時に心配されて嬉しいなんて思ってしまった。何度だって思うのだけれど、彼はものすごく優しい。本当に本当に泣きたくなるくらいに優しい、どうしてこんなにも彼は優しいのだろう?(ラクツくんに嫌われてなくて、本当に良かった……)
ゆっくりと歩きながら、ファイツは滲み出る安心感に包まれていた。正直言って、きっともうダメなのだろうとファイツは思っていた。彼には下着を誰彼見せびらかすようなはしたない子だと認識されたに違いないと思っていたのに、だけど実際はそうではなかったらしい。口に出して告げた通り、本当に良かったとファイツは思った。心の底から嫌われてなくて良かったと安堵した。”ラクツくんに軽蔑された”というのはまさしく自分の早とちりでしかなかったわけで、そう思うと途端に恥ずかしさが込み上げて来るのだけれど、それ以上に嬉しいと思った。何だか涙が零れてしまいそうで、指で目尻をそっと拭った。
「……あ。ここまででいいよ、ラクツくん。わざわざ送ってくれてありがとう」
従姉と一緒に住んでいるマンションが見えたから、隣を歩く幼馴染にファイツはそう言った。後はこの先にある横断歩道を渡ってちょっと歩くだけで、自分の家にたどり着けるのだ。いくら何回も送ってもらっているとはいっても、ヒュウやペタシと別れた道から徒歩5分の距離を一緒に歩いてくれた彼にそこまでさせるのは流石に申し訳なくて。その気持ちからファイツはそう言ったのだけれど、彼が踵を返す気配はまるで見られなかった。
「えっと……。ラクツくん?」
「ん?何だ、ファイツ?」
「あ……っ」
自分の傍を離れない幼馴染に困惑したファイツはおずおずと彼の名前を呼んだのだけれど、逆に自分の名前を呼び返されることとなってしまった。そのままさっと目を逸らす、今の彼の声がものすごく優しいものに聞こえたのは自分の気の所為だろうか?
「だ……だから、あのね……っ!あたしの家まではすぐそこだから、ここまでで大丈夫だよ。後はほら、そこの横断歩道を渡ってちょっと歩くだけだもん……っ」
「ああ、そうだな。だが念の為だ、最後まで送らせてくれ」
「い、いいの……?」
「当たり前だ。……急に何を言い出すんだ?今までだって、ボクはファイツの家の前まで送って来ただろう」
「そ、それはそうなんだけど……っ」
「信号が青になったな、行こう」
「あ、うん……」
こくんと頷いてラクツと一緒に横断歩道を渡り切ったファイツは、隣を歩く彼の横顔をちらちらと見ながら歩いた。自分の家である白いマンションが、もう目の前まで迫って来ている。
(何だか、すごく淋しいな……)
ラクツがもうすぐ帰ってしまうのだと思うと、ファイツは途端にとてつもない淋しさに襲われてしまった。先程のことといい、どうして今日に限ってこんなことを思うのかはよく分からなかったのだけれど、とにかく淋しくて堪らなくて。気が付いたら、ファイツは「じゃあボクは帰るから」と言って踵を返した彼を「待って」と呼び止めていた。
「……ファイツ?」
呼び止めたのは自分の方なのに、肩越しに少しだけ振り向いた彼の顔をまっすぐに見られなくて。やっぱり目を逸らしたファイツは彼のすぐ近くにある看板を見ながらあのねと言った、その看板に使われている赤がやけに印象に残った。こんなに色鮮やかな赤だったっけなんて、ファイツは至極どうでもいいことを思った。今はこんなことをのんきに考えている場合じゃないのにとも思った、自分の顔に容赦なく突き刺さる彼の視線が何だかとても痛かった。
「あ、あの……っ。ラクツくん……」
彼の名前を呼んだところでファイツは口ごもった、何を言えばいいのか分からなかったのだ。ここはマンションの玄関なのだ、このままずっとこうしているわけにもいかない。それはもう必死に言葉を探していたファイツの頭に、今朝の従姉の言葉が電流のように蘇る。予備校の自習室で勉強するから夜ご飯は先に食べててねと、ホワイトは確かに言っていた。これだ、とファイツは思った。ラクツに家に寄って行かないと言って、一緒にご飯を食べようと誘うのだ。自分の料理を美味しいと言ってくれるラクツには日頃から色々とお世話になっているし、そんな彼に改めて感謝の気持ちを伝えるにはこれしかないとも思った。よくよく考えてみれば、律儀にもわざわざマンションの前まで送ってくれた優しい彼をすぐに帰らせてしまうのはものすごく失礼な気がしてならないし、今はちょうど夕飯時だ。頑張れば今からでも彼の好物である和食を作れると意気込んだファイツは、息せき切って彼の名前を呼んだ。
「あのね、何か用とかある?」
「用?」
「あ……っ」
彼にそう訊き返されて、言葉が足りていないことに気付いたファイツは慌てて「あのね」と言った。心臓がどきどきと高鳴ってうるさかったから、自分の胸の音に負けないように大きい声を出した。
「えっと……。あたしの家に寄っていかない?こんな時間になっちゃったし、良かったら一緒にご飯でもどうかなって思って……」
「ありがとう。それなら、遠慮なくそうさせてもらう」
「えっ?」
そう提案したのはまさしく自分なのに、ファイツはそんな間の抜けた声を出した。何しろ一緒にご飯を食べようなんて急な申し出をしたのだ。難色を示されてもおかしくないのにそうすると即答したラクツの反応が気になって、思わず彼の顔をまじまじと見つめる。急にどうしたんだとか、てっきりそういうことを言われるかもしれないと覚悟をしていたのに。そうならなくて良かったけれど、ファイツはどうしてだろうと心の中で呟いた。もしかして、彼は今ものすごくお腹が空いているのかもしれない……。
「……ファイツ?」
「あ、ううん……。何でもないの……。それじゃあ、行こ?」
幼馴染と連れ立ってマンションの中に入ったファイツは階段を上った、ホワイトと住んでいる部屋は3階の角にあるのだ。元々歩くのが遅い自分に合わせてくれているのだろう、ゆっくりと階段を上っているラクツのことをファイツは考えていた。彼は何が食べたいと言うのだろう?
「ラクツくん、夜ご飯は何が食べたい?やっぱり和食?あたし、頑張ってたくさん作るからね!」
「いや、そんなに気を遣わなくてもいいぞ。簡単な物で構わないし、量も普通でいい」
「え?……でも、お腹空いてるんじゃないの?」
「それはまあ否定しないが、今から作るとなると大変だろう。本当に、簡単な物でいいぞ」
「そ、そう……?」
「ああ。だが、どうしてそう思ったんだ?」
階段を上り切ったファイツは、ラクツの言葉に「だって」と答える。鋭い彼がそう言うのが、何だか意外だと思った。
「それは、ラクツくんがあたしの家に寄るってすぐに答えたから……。断られるかもしれないかもって思ってたのに……」
「なるほどな。……1つ言わせてもらうが、ボクがファイツの誘いを断るわけがないだろう。元々ファイツの家に行く気ではいたが、まさか今日手料理を食べられるとは思っていなかった」
「あ!」
またしても電流の如く、ファイツの脳裏には彼からのメールの一文が蘇った。そういえば、ラクツは自分に何かしらの”用件がある”らしいのだ。
「ラ、ラクツくん!そういえば、昼間のメールで言ってた用件って……えっと、何?」
「ん?……後で広告を見せるが、パフェが食べ放題の喫茶店にファイツを誘おうと思ってな」
「え……っ?で、でも……。ラクツくんって甘い物が苦手なのに……」
「ああ。だが甘さが控えめのパフェもあるらしいし、たまには甘い物もいいかと思ったんだ。……それで、どうだ?」
ラクツの問いかけにファイツは首を縦に振った、断れるはずもなかった。本当に本当に彼は優しい、自分なんかとは比べ物にならないくらいに優しい。彼自身は甘い物が苦手なのに、だけど甘い物が好きな自分を誘ってくれた。おまけに彼は、こちらに気を遣わせないような言葉をかけてくれたのだ。ラクツの優しさを感じて、ファイツは震え声で「ありがとう」と言った。実際は泣かなかったけれど、だけど彼の優しさにファイツはどうしようもなく泣きたくなった。