school days : 155

ロックオン
「えっと……。ラクツくん、本当に良かったの?」

ゆっくりと歩きながら眉根を寄せておずおずとそう問いかけたファイツに、ラクツもまた「何がだ」と問い返した。ヒュウ達がいた先程だって好いた娘が隣にいる状況に柄にもなく緊張していたというのに、2人きりで歩いている今はなおのこと心臓がうるさかった。毎度のこととはいえ心臓がうるさいというのはやはり落ち着かなくて、心臓を宥めることに集中していたラクツにはファイツがそう問いかけた意図がまるで掴めなかったのだ。

「だ、だからね……。その……。こっちまで来てもらっちゃうなんて、本当にいいのかなあって……。途中まで一緒に帰ってもらっただけでもすっごくありがたいのに、家までなんて……」
「ああ、なるほど。深刻そうな顔をしているから何を言われるのかと思ったら、そんなことか」
「そんなことって……」

そこで言葉を切ったファイツは伏し目がちになった、どうやらその必要もないのに罪悪感を抱いてしまっているらしい。続けてそっと息を吐き出した彼女の態度にラクツは何も言わなかったのだけれど、内心では盛大に溜息をついた。この娘は分かれ道に差しかかった時に、家の方向が違うからと言って暗い夜道を1人で歩き出したのだ。そのまま1人で帰らせるなんてとても自分には出来なくて、またしても彼女の手を掴んで強引に引き止めたのはつい数分前のことだった。「彼女を家まで送って行くから先に帰っていてくれ」と告げた時のヒュウとペタシの顔を思い出して、ラクツは思わず苦笑する。もしかしたら2人にはファイツへの好意を気付かれたかもしれないが、それでもいいかと思った。例えそうであったとしても2人が無暗やたらに吹聴しない人間であることは知っているし、彼女をペタシに取られるよりはマシだろう。
それにしても、ペタシには悪いことをしてしまった。どうやらファイツを意識していたらしいペタシは自分の行動に何やらショックを受けたようで、酷く打ちのめされた表情をしていたのだ。もしかしたら、ペタシは今頃ヒュウに慰められながら帰っているかもしれない。彼のことは大切な友人として認識しているラクツだけれど、それとこれとは話が別だった。学校で自分に邪魔される羽目になった上に「つき合っているのか」なんて訊いて来てくれたペタシには悪いが、この娘の隣は誰にも渡したくないとラクツは思っているのだ。

「ボクの方からそうしたいと言い出したんだ。ファイツが罪悪感を抱く必要はどこにもないだろう?」

明るいならまだしも、暗い夜道をこの娘1人で帰らせるなんて絶対に嫌だった。不審者が学校の近辺に出たらしいという情報を得た今は尚更そう思った。ラクツはただ、ファイツを護ってやりたいのだ。もちろんファイツと2人きりになりたいという下心が自分にあることは否定しないけれど、家まで送ると言い出した理由の半分以上はその感情にあった。だがファイツは納得がいっていないようで、どこか浮かない顔をしていた。

「でも、ここからあたしの家まではほんのちょっとの距離なのに……。それなのに送ってもらっちゃうなんて、やっぱり申し訳なくて……」
「その”ほんのちょっとの距離”で、もし不審者にでも遭遇したらどうするつもりだ。……いや、この際不審者のことはどうでもいい。そもそも女が1人で夜道を歩くこと自体が危険な行為なんだぞ。ましてファイツは誘拐された過去があるんだ、そんな娘を放っておけるわけがないだろう」
「う、うん……。それは分かってるんだけど……」

小さく首を縦に振ったファイツは口でこそそう言ったが、その目にはまだ陰りがあるように思えてならなかった。多分、完全にこちらの言い分に納得してくれたわけではないのだろう。必要以上に他人を気遣うその性格は美徳かもしれないが、こうも気遣われるとこちらとしてもやり辛いものだ。
それに、とラクツは思う。この娘の自分に対する態度が、どうもよそよそしいのも気になるのだ。それがこちらを意識してくれている故の態度だというならこれ程嬉しいこともないのだろうが、それにしてはどうも違和感を感じてならなかった。もしかしたら強引に引き止めたのが良くなかったのかもしれないと、ラクツは内心で独り言ちた。それとも、何か他の理由でもあるのだろうか。

(……やはり、昼間の出来事が原因なのか?)

わざわざ深く思考するまでもなく、ラクツには思い当たることがあった。屋上の扉を開ける際に勢い余ってこちらに倒れ込んで来たファイツの身体を抱き留めたのだけれど、その際コンクリートの地面に足を強打する結果になったのだ。別にそのこと自体は何の問題もなかった、泣き出しそうになってしまったファイツに対して告げた言葉には本当に嘘偽りもないのだから。ただそれをファイツが今も内心では気にしているならこちらとしても気にしてしまうし、気にすることなどないのだと改めて説得したいとラクツは思った。しかしそう思いながらもラクツは様子を窺うようにファイツの横顔を見つめていた、惚れている娘の顔を単に見たいという欲求以上にもう1つ気にかかることがあったからだ。
自分がこの娘の胸元を直視してしまったことを思い返して、ラクツは頭を抱えたくなった。あれは完全な不可抗力だった。最初からそうするつもりなんてこちらにはなくて、彼女を抱き留めた際につい見てしまっただけなのだ。男として当然の欲求に何とか逆らって程なくしてから目を思い切り逸らしたとは言っても、自分がそうしてしまった事実は消えない。それが腕や足ならまだしも、よりにもよって胸元だ。いくら幼馴染の間柄とはいえ男にそうされたのだ、この娘だってさぞ不快に感じたことだろう。

「ラ……。ラクツ、くん……っ」
「……何だ?」

ファイツのことを考えていた為にまたしても反応が遅れたラクツは、一拍程間を置いてから言葉を投げかける。自分の名前を途切れ途切れに呼んだ彼女は、それは不安そうな顔をしていた。

「あ、あのね……。ラクツくんが、ずっとあたしを見てるから……。それがどうしても気になっちゃって……」
「……すまない」

ラクツは静かにそう言って、視線をファイツからゆっくりと逸らした。これでは遠回しに嫌いだと言われたようにしか思えてならなくて、前を見ながら後ろ向きな気持ちになった。やはり、昼間の出来事が関係しているのだろう。互いに沈黙しながら歩き続ける傍らで、ラクツは自分のしでかした過ちを思い返してまったく浅はかな行いをしたものだと自嘲する。手を伸ばせば容易く触れられる程の近距離にいるはずが、しかし今の彼女は随分と離れたところにいるように思えてならない。ファイツとの間に物理的ではなく精神的な意味で大きな隔たりを感じて、ラクツは眉間に常日頃から刻んでいる皺を更に深くする。

(……嫌だ)

このままこの娘との距離が開いていくのかもしれないと思うと、どうしようもない絶望感に襲われた。それと同時に湧き上がるのは強い拒絶心だ。ファイツに嫌われたらしいという事実をラクツはどうしても認めたくなかった、偏に嫌だと思った。自分の所為で嫌われたというのは自業自得でしかないわけなのだけれど、だからといってこの娘を簡単に諦める気にも到底なれなかった。

「……ファイツ」
「……っ」

絞り出すようにして出した声は、普段より随分と低いものだった。詰めるように息を漏らしたファイツは頑なにこちらを見てくれはしなかったけれど、ラクツはそれでも構わなかった。今はとにかく、誠意を見せることが何よりも大切なことだと思った。

「本当に悪かった。……赦してくれ」
「え……っ」
「自分がこんなことを言える立場ではないと理解してはいる。だが、それでもボクはファイツに嫌われるのは堪らなく嫌なんだ……」
「…………」

目を見開いて足を止めてしまったファイツに倣って自分もまた足を止めたラクツは、どうしたら赦してもらえるのかと必死に言葉を投げかける。わずかに顔をこちらに向けてくれたファイツが口を半開きにした状態のままで瞳を何度も瞬きしていることに気付いたのは、その10数秒後だった。

「……ファイツ?」

どうも様子がおかしいとラクツは思った。こちらを無視しているのかもしれないとも考えたが、わずかでも顔を向けてくれた時点でその説は辻妻が合わないことになる。もしかしたら勢い余って気持ちの丈をぶつけてしまったのかもしれないと今しがたの発言を何とか思い返してもみたが、これといった発言をした記憶はまるでなかった。

「あたしが嫌うって、何……?あたしがラクツくんに嫌われるんじゃなくて……?」

長い沈黙の後に放たれたのはそんな言葉で、その瞬間に何かを察したラクツは思わず苦笑した。どうやら自分も、そして彼女も大きな勘違いをしていたらしいが、それでもラクツは文句1つ言う気にもなれなかった。それは多分、惚れた弱みというやつなのだろう。

「そんなわけがないだろう。前にも言ったが、ボクがファイツを嫌うなんてあり得ないことだ」
「あたしのこと……。は、はしたない子だって思ったんじゃ、ないの……?」
「何故そういう発想になる?ボクがそうされるならともかく、ファイツを軽蔑する理由はまるでないはずだが」
「で、でも……。あたしったら、あんなに恥ずかしい恰好してたのに……っ」
「……まあ正直なところ、あれには随分と驚かされたがな。だが、ファイツが好んでそうするような娘でないと知っているから特に悪感情は抱かなかった。何か理由があるんだろう?」
「そ、そうなの……っ。屋上に来る前に、ちょっとだけペンダントを見ててね……。すぐに第2ボタンまで止め直さなくてもいいかなって思っただけなの。……本当に、ちょっと前に開けただけなんだよ?別に見せびらかしてたわけじゃなくてね……っ」
「ああ……。それはもう分かったから、そんなに力説しなくても大丈夫だ」
「本当……?良かったあ……っ」

目尻を指で拭ったファイツは良かったと何度も口にしていたが、ラクツも心底そう思っていた。先程までの気まずい空気のままファイツを家に送り届けなくて本当に良かった、そうしていたら改めて謝る機会を先延ばしにしていたことだろう。その結果以前のように敬遠になっていたかもしれないと考えると、ラクツはそうならなくて良かったと思うばかりだった。ゆっくりと歩き出したファイツを追うように歩きながら、ただひたすら安堵する。

「あたし、ラクツくんにやっぱり嫌われちゃったんだってずっと思ってたから……。でも、そうじゃないんだよね……っ」
「もしかして、下校途中もずっとそのことを気にしていたのか?」
「う、うん……。ごめんね、ややこしいことになっちゃったみたいで……」
「まったく……。何故ボクに嫌われるという発想に至るのか、ボクにはそれが分からないな」
「だってラクツくん、あんなこと言うんだもん……」
「あんなこと?」
「ペタシくんとヒュウくんに向かって、あたしと幼馴染だってことは周りに言いふらさないでくれって言ったでしょう?そう言われたから、やっぱり嫌われちゃったんだなあって思ったの」
「……なるほど」

ようやく合点がいったラクツは額に手を当てる、確かに自分は誤解を招く発言をしてしまったようだ。言葉足らずだった自分の所為で彼女を不安にさせたのだと思うと自分自身が情けなく思えて来て、彼女に気付かれないように息を吐く。

「あれは別に、そういう意味で言ったんじゃない。下手に言いふらされた結果、ファイツがボクの幼馴染だと周囲に知られるのを防ぐ為だ。ボクが原因でファイツがまたいじめられる羽目になるのは、どうにもごめん被りたいからな。ヒュウとペタシには知られたわけだが、まああの2人なら口止めした以上は問題ないだろう」
「……あたしの為に、わざわざ口止めしてくれてたの?」
「いや、ファイツの為だけにそうしていたわけでもないな。単純にボクがそれを望んでいないからだ」
「……ラクツくんって……」
「ん?」

そこで言葉を切って黙ってしまったファイツが続きを言うのを好き勝手に予想しながら、ラクツは思考の片隅でこの娘の誤解を解けて良かったと思った。再び敬遠になっていたかもしれない未来を想像してしまった今はなおのことそう思う、やはりこの娘は自分にとって何ものにも代えられない存在なのだということを強く思い知らされた。そのことは分かっていたことだけれど、本当の意味では理解していなかったのかもしれないと胸中で呟く。

「何度だって思うんだけど、ラクツくんってやっぱりすごく優しい人だよね……。こんなに優しい人があたしと仲良くしてくれるなんて、あたしはすごく恵まれてるんだなあって思ったの」
「ボク自身はそうは思わないがな。ボクはファイツ程他人に気を遣わないぞ」
「あたしだって、自分のことばっかり考えてるよ。……あたしもね、実はラクツくんと幼馴染だっていうことを色んな人に口止めしてたの。でも、それはあたしがただ目立ちたくないからって理由だけで……ラクツくんのことなんて全然考えてなかった……!」

幸い涙こそ零してはいなかったものの、目を伏せてそう言った彼女の声は明らかに震えていた。ファイツを見つめながら、ラクツは穏やかな声で「それでいいと思うが」と言葉を紡ぐ。泣かせることに罪悪感があるからそうしたのではなくて、彼女相手だと自然とそうなってしまうのだ。

「日頃から、ファイツは周囲に対して気を遣い過ぎだ。ボクに対してだって、過剰に謝らなくていいんだ。……まあ、そうは言ってもすぐには治せないと理解しているが」
「う……。だったら、ラクツくんもあたしに対して変な気を遣わなくていいよ……?それとも、もしかしてあたしが誘拐されたことをまだ気にしてたりする……?後は、えっと……。あの頃のこととか……」

彼女の言う”あの頃”が、自分が冷たく接していた頃を指しているのだと悟ったラクツは薄く嗤う。本当に、何故自分はこの娘に冷たく接しようなどと考えたのだろうか。

「……あ!別に責めてるわけじゃないんだよ!?ラクツくんがあたしの為を思ってくれたのは分かってるから!本当に、よく分かってるからね!」

すぐに答えなかったこちらの反応を悪い方にでも解釈したのだろう。早口でそんな言葉を付け加えて来た彼女に、ラクツは先程とは違う種類の笑みを浮かべた。こちらのことで慌てているファイツを、心の底から愛おしいと思った。

「ああ……。ボクもそのことは理解している、少し考え事をしていただけだ」
「そっか……。それで、その……。あたしに余計な気を遣ってない?ラクツくん、無理してない?」

ファイツの問いかけに少しの間思案して、やがてラクツは無言で首を横に振った。確かに彼女に対して冷たく接していた自分の態度は猛省すべきものだろう。その悔恨はずっと自分の中にあるし、それはこれからも燻ぶり続けるに違いない。だけど今の自分がファイツのことを何かと気にかけてしまうのは、それとは無関係だという結論をラクツは出した。それは単に、自分がこの娘を好きだからだ。

「いや……それは関係ないな。一応念の為に言っておくが、ボクは無理に気遣っているわけでもない。ファイツだから自然とそうしたくなるだけだ」
「え……っ」

そう発言してしまった後で、ラクツは自分が何を言っているのかを一瞬遅れて理解した。”ファイツだから気を遣いたくなる”というのは確かに事実なのだが、言い方があまり良くなかった。正確に言えばまずかった、この言い方は完全に告白だ。取り消そうにも内容が内容なだけにそれ自体が悪手になってしまうだろう。

(ここで言うつもりはなかったんだがな……)

いずれは言うかもしれないとは思っていたが、少なくとも今日言うつもりはまったくなかった。いくら鈍いファイツでも、ここまで言えば流石に伝わるだろう。自分が彼女のことを特別に想っているのだと、幼馴染ではなく異性として好きなのだと、伝わってしまうことだろう。痛いくらいに自分の心臓が音を立てていることに今更ながらに気付いたけれど、ラクツはただまっすぐに好いた娘を何も言わずに見つめていた。

「……う、うん……っ。あたし、すっごく鈍いもんね……」
「……は?」
「ドジばっかり踏んでるし、もっと色々気を付けなきゃね……っ。心配してくれてありがとう、ラクツくん……っ」

自分にとっては気が遠くなるくらいの沈黙の後で言い放たれたのは、予想外にも程がある言葉だった。呆気に取られて間抜けな声を出したラクツの声に被せるようにして、ファイツは「気を付けないと」なんて小さく頷きながら言っている。

(ボクの気持ちに本当に気付いていないのか、それとも気付いた上で躱されているのか……。正直判断がつかないな)

こちらとしては固唾を呑んで彼女の返答を待ったというのに、その結果はこれだった。これまでの経験上彼女の鈍さをよく理解しているとはいえど、ラクツは大いに脱力感を覚えた。人並み以上に鈍感なこの娘のことだ、前者である可能性もないとは言えない。むしろ、そちらの可能性の方が高いような気がする……。今日告白するつもりは元々なかったのだから結果的には良かったのかもしれないけれど、それでもどこか釈然としない気持ちになった。

(分かっていたことだが……。まったくもって、一筋縄ではいかない娘だ)

わざわざ「2人きりで過ごす時間が欲しい」なんて言った上でデートだってしたのだ。こちらの好意はある程度は伝わっているものだとラクツは思っていたのだけれど、その認識は間違っているのかもしれない。今の発言で自分に大切に想われていることは何となく察してくれたようだが、重要なのはそこではないのだ。幼馴染としてではなく異性として好いているとはっきり言葉にしない限り、いくら態度で好意を示したとしても彼女相手では無駄な結果に終わるだけだろう。
そんな確信を抱いたラクツは内心で溜息をつく、どうやら自分は思った以上にこの結果に落胆を覚えてしまっているようだった。つまりはいくら言い訳を重ねようとも、自分はこの娘に好きだと言うことを内心では望んでいたらしい。その結論に至ったところで、ラクツは”変な気を遣わなくていいよ”と言って来たファイツの言葉をふと思い出した。そういう意味で言ったのではないとちゃんと理解していたのだけれど、ラクツはその言葉を自分の都合のいいように解釈しようと思った。流石に線引きはしっかりとするが、それ以外では基本的にこちらの好きにさせてもらうつもりだ。それを許容したのは他でもないこの娘なのだ。

「……ラクツくん?」

無意識に足を止めていたらしい自分を呼ぶ、ファイツの声が聞こえる。その声に応じて歩をゆっくりと進めながら、ラクツはそれじゃあ遠慮なく言葉に甘えさせてもらおうかと声に出さずに呟いた。