school days : 154

どんかん
どうしてこんなことになったのだろうと、ヒュウは歩きながらはあっと深い溜息をついた。今日もいつも通り剣道部の男3人で帰るのだとばかり思っていたのに、何の因果かそこに女子が1人混じることになってしまった。沈黙が重苦しい、正直言って気まずくて仕方がない。何でオレがこんな思いをしなければならないのかと、ヒュウは真っ暗な夜空を仰ぎ見て1人密かに嘆いた。

(何つーか……。調子狂うぜ)

いつも通りでないことが起きるだけで、自分がこんなにも落ち着かなくなるとは思わなかった。男3人の中に女が1人混じって下校しているというだけなのだが、それでも気まずさは拭えない。向こうからかかってくる電話やらで割と話す機会のあるユキがこの場に混じるというならまだマシと言えるものだが、自分のすぐ近くにいるのは碌に話したこともない女子なのだ。感じた苛立ちをぶつけるように彼女に対して声を荒げた過去がある身としては、顔をしっかりと向けるのは尚更気恥ずかしくて。だからヒュウは、ラクツの右隣で彼と同じく物静かに歩いている女子を盗み見るように横目で見やった。

(名前は確か……。ファイツ、だったか)

おとなしくて、妙におどおどしていて。そして何となく放っておけないというか、どこかとろくて危なっかしい女。現時点でヒュウがファイツに抱いている印象はまさにこれだった。いったいこの女は何者なのだろうと、ヒュウは心の中で呟く。自分の左側で放心したようにとぼとぼと歩いているペタシのことだって気にはなるのだが、正直今はそれ以上に気になることがあった。つまりはファイツ自身のことと、彼女とラクツの関係だ。
普段はうるさいくらいに喋るペタシは現在妙に静かに歩いているわけなのだが、紛れもなくそれはファイツの存在が原因だろう。緊張しているのもあるのだろうが、ペタシはラクツと彼女のさっきのやり取りを見て何かを悟ってしまったらしく碌に喋っていなかった。正直ペタシのあの反応に憐れみを覚えてしまったヒュウは先程彼の肩に手を置いたのだけれど、ペタシはそれすら気付かない様子で打ちのめされたかのように呆然としていたのだ。それは今も続いていて、時折自分にしか聞こえないような極小さな声でペタシはぶつぶつと何かを呟いていた。
よく喋るペタシにこの気まずい空気を打破して欲しいというのが自分の本音なのだが、流石に今の彼の心情を思うとそれを強要するわけにもいかない。かと言って自分が話をしてこの場を盛り上げる気にも到底なれなかったヒュウは、その代わりにファイツという女は何者なのだろうという疑問点を解消するべく首を捻ることにした。少なくともただ気まずさを感じて溜息を吐き出しながら歩くよりは、考え事をして気が紛れるだけずっとマシというものだろう。

(本当に、いったい何なんだよこの女……)

どうやらさっきのラクツとのやり取りを見るに彼と仲がいいようだが、そもそもその時点で疑問符が溢れるのだ。女嫌いを自称している自分程ではないにしろ、ラクツは日頃からあまり女子と会話を交わさない男であるはずなのだ。少なくとも自分の知る限りでは、きゃあきゃあとうるさい女どもに話しかけられて仕方なく応じるという感じであるはずなのに。それなのに今日のラクツは何かが変だ。自分から女子に話しかけているだけなら”ラクツにしては珍しい”で済むのだが、話はそれで終わらなかった。さらっとファイツだなんて呼び捨てで呼んでいるし、あろうことか先に帰ろうとした彼女を引き止めて「一緒に帰ろう」なんて言い出す始末だし。
基本的に男女の色恋にはまるで興味がないヒュウだけれど、流石に今度ばかりは2人の関係がものすごく気になってしまった。何しろあのラクツが女子と親しげに会話をしていたのだ、これで気にならない方がおかしいとヒュウは自分に言い聞かせた。正確には2人はただ普通に話していただけなのだが、自分にはものすごく親しげに話しているように見えてしまっているのだから不思議だ。

(何だよ、”一緒に帰ろう”って……。本当にラクツなのかよ、こいつ)

いつかのように、ペタシがその言葉を口にするなら納得も出来るのだ。女子とお近付きになりたいという願望が常日頃から駄々洩れしているペタシならそう言っても何の違和感もないのだが、そうではないからおかしいのだ。女に興味がなさそうなラクツがそう口にするのはやっぱり変だとヒュウは思った。絶対に何かがおかしい。実はこのラクツ、よく出来た偽者なのではないだろうか。もしくは、今日のラクツは双子の兄弟だった……とか。いや、ラクツが双子だという話はヒュウだって聞いたことがないのだけれど。

(でもそういう理由でもないと納得出来ねえよな、普段のこいつと違い過ぎるし……)

ファイツからラクツにさっと視線を移して、ヒュウは独り言ちた。今自分の隣にいる男は実は双子だったとかもしくは熱があったとか、何かそういう落ちでもないと納得出来ない。そうではないことは自分でもよく分かっているのだけれど、それでもやっぱり納得出来なかった。
自分の知っているラクツという男は、帰ろうとしている女子をわざわざ引き止めない人間だ。落とし物らしき何かを渡されたファイツは、ラクツにひとしきり礼を言った後でまるで何かに気付いたかのように慌ててこちらに背中を向けた。「さよなら」と言ってどういうわけか逃げるように足早に立ち去った彼女の腕を掴んで強引に引き留めたのは、何を隠そうラクツだった。「暗いから1人だと危ない」と言ったラクツのその言葉を聞いた時、ヒュウは一瞬自分の耳がおかしくなったのかと思ったものだ。今は自分の耳どころかラクツ本人を疑っているわけなのだけれど、それくらいに衝撃的な言葉だったのだ。

(ラクツとこの女って、やっぱりつき合ってんのかな……)

ヒュウは心の中でぼそりとそう呟いた。こんなことを自分が考えるなんて本当にらしくないけれど、どうしたってそう考えざるを得なかった。しかし、本当につき合っているというなら彼女の態度はおかしいのではないかという疑問もまた生まれてしまう。何というか、妙に女の方がよそよそしいのだ。
実際「嫌じゃなければ一緒に帰ろう」とラクツに言われたファイツは、最初こそ「でも」とか「だって」とか言いつつ戸惑う素振りを見せていた。それでもラクツの「不審者が出たらしいぞ」との言葉についに止めを刺されたようで、こちらを窺うようにじっと見つめて来たファイツの瞳は不安そうに揺れていた。その瞳で見られることに耐えられなくなったヒュウは息を吐き出しながら「別にオレはいいけど」と言ったのだ。正直何でこの女と一緒に帰らなくちゃならないんだよなんて内心で思ったのだが、彼女を突き放した結果不審者に襲われましたなんてことになったらこちらだって寝覚めが悪い……。

「……ヒュウ」
「……あ?」

物思いに耽っていたヒュウは、ラクツの声でふと我に返った。彼は4人で歩き出してからも碌に声を出していなかったのだが、それはいつもと同じなのでその点に関して特に違和感は抱かなかった。相変わらず眉間に皺を作っているラクツを見ながら、ヒュウは「何だよ」と少し早口で答えた。彼がようやく口を開いてくれたことに対して安堵する気になれなかったのは何故だろうか。

「それはこちらの台詞だ。ボクに何か言いたいことでもあるのか?」

自分からすれば違和感の塊である今日のラクツは、いつも通りの落ち着いた声色でそう問いかけて来た。元々素直じゃないこともあり、更には彼を横目でじっと見てしまっていたことに対しての気まずさも手伝って「別に」と言いながらそっぽを向いたヒュウは、けれどすぐに「やっぱ訊いていいか」と言いつつ深い息を吐き出した。一度、別になんて言った以上こんなことを尋ねるのは何となく悔しいような気もするが、寄せては返すさざ波のような好奇心には結局勝てなかった。

「その、何ていうか……。今日のお前ってらしくねえなって思ってよ。その女のこともそうだけど、いつの間にか足に青痣だって作ってるしよ……。あれって部活で作った痣じゃねえだろ?お前が怪我するなんて珍しいよな」
「ヒュウ!」
「な、何だよ……!?」

いきなりストレートに「その女とつき合ってんのか」と尋ねるのは流石に躊躇われて、ヒュウは半ば苦し紛れに後半部分の言葉を付け加えた。しかしその途端に鋭い声でラクツに名を呼ばれて、ヒュウはさっきと同じ言葉を口にした。彼にこれ程までに鋭い目付きをされる意味が分からない、本当にさっぱり分からない。何かまずいことを言ってしまったのかと自分の発言を振り返っても見たものの、それでもやっぱり意味が理解出来なかった。ヒュウはただ、怪我をするなんてらしくないと言っただけなのだ。

「あ……。青痣って……。もしかしてあたしの所為……?」
「……あ?」

首を捻ったヒュウの耳に聞こえたのは、消え入りそうな程に小さいファイツの震え声だった。思わず声が聞こえた方向に顔を向けると、声どころか身体ごとわなわなと震わせているファイツの姿が目に映る。

「あたしを受け止めた時に、怪我したの……?」
「……いや、ファイツの所為じゃない。ボクが単に足をぶつけただけのことだ」
「で、でも……っ。それだって、あたしを庇ったからでしょう……?」

震え声でそう呟かれたファイツの言葉もヒュウはまるで理解出来なかったが、自分の目の前で繰り広げられる彼らのやり取りもやっぱり理解出来なかった。「違う」とか「気にするな」とか、少しばかり狼狽えたようにファイツに対して声を投げかけ続けるラクツの姿はこんな状況でなければちょっとした見ものだったことだろう。けれど目の前の状況に理解が追いつかなかったヒュウはとりあえずペタシを見たのだが、彼はと言うと全身が凍り付いたかのように固まっていた。つい哀れみの視線を向けたヒュウと固まったペタシを他所に、ラクツとファイツのやり取りは続いていた。

「ほ……本当にごめんね、ラクツくん……っ。あたしの所為で怪我させるなんて、本当に最低だよね……っ」
「何を言っている。ファイツが怪我をするよりずっといいし、痣なんて部活をしていれば日常茶飯事だ。別に大怪我をしたというわけでもないんだ、ファイツに気にされる方がかえって困る。だからもう気にしないでくれ」
「うう……。ラクツくんってば、本当に優し過ぎるよ……っ」
「そうか?」
「うん……」

どうやらまたもラクツに意見を押し通される結果になったらしいファイツは、何度もそうだよと頷いていた。それを見たヒュウはもう本日何度目になるか分からない溜息をついた。それと同時に深く後悔をする、どうして自分はラクツに対して「怪我をしたなんてらしくないな」なんて言ってしまったのだろうか。自分のあの発言がなければ彼女が今にも泣きそうな程に落ち込むことも、そしてこんなにも気まずさを感じることもなかっただろうに。こんなことなら2人を置いて先に帰れば良かったと、ヒュウは今更ながらに後悔した。何しろラクツとファイツから滲み出る雰囲気が、彼氏彼女のそれであるようにしか自分には思えないのだ。

(帰りてえ……)

ヒュウは最早げんなりとしていた、例えるならひたすら甘いケーキを無理やりに食べさせられているような感じだ。別にこの2人に何かをされたというわけではないのだけれど、この場にいたくないとヒュウは心の底から思った。今からでも遅くない、固まっているペタシを強引に歩かせてでもこの場から逃げてしまうべきだろうか。

「ラ、ラクツ!それに、ファ……ファイツさん……っ!」

ずっと固まっていたペタシは何とか復活したらしく、盛大につっかえながら2人の名前を呼んだ。ちょうど彼に声をかけようとしていたヒュウは、ペタシが言葉の続きを言うのを思わず固唾を飲んで見守った。彼が何を言おうとしているのかが、何だか簡単に想像出来る……。

「も……。もしかして、2人はつき合ってるんだすか……!?」

ああ、やっぱりそれを訊くんだな。そりゃあやっぱり気になるもんな。そう声に出さずに呟きながら、ヒュウはペタシからラクツとファイツに視線を移した。ラクツは特に動揺した素振りを見せなかったものの、ファイツの方はそうではなかった。この暗い中でもはっきりと分かるくらいに顔を真っ赤に染めた彼女は今、必死に首を横に振っている。

「ち、ち、違います!!そんなんじゃないんです……っ!ラ、ラクツくんとはただの幼馴染で……っ!」
「……幼馴染?」

目に見えて動揺してしまったらしいファイツは、ペタシ以上に盛大にどもりつつも彼の問いかけを必死に否定していた。彼女が言った”ただの幼馴染”という言葉を正直意外だと思いながらもヒュウは何気なくラクツの方を見て、そして思わず目を大きく見開いた。それはほんの一瞬だったけれど、確かにラクツは熱と切なさが入り混じったような瞳をファイツに向けていたのだ。

(おい、ラクツ。お前、何て目をしてんだよ……)

強引に彼から視線を外して、決して彼には届かない言葉をヒュウは叫んだ。見なければ良かったと後悔しても遅かった。多分ファイツが口にした”自分達はただの幼馴染”という言葉は事実なのだろうが、少なくともラクツにとってはそうではないのだろう。男女の色恋に詳しくないという自覚があるヒュウだけれど、今の彼の瞳を見た瞬間にそうなのだろうと確信を抱いてしまった。つまり、ラクツは幼馴染の関係である女に惚れているのだ。あのラクツでも誰かに恋愛感情を抱くのかという衝撃の事実に、ヒュウは頭をぶん殴られたような衝撃を覚えた。ラクツだけは自分と同じ人種の男に違いないと思っていたのに、けれど現実はそうではなかったらしい。

「お、幼馴染だすか。幼馴染なだけ……なんだすね!」
「そ、そうなの……っ。そうだよね、ラクツくん!」
「……ああ。だが……。このことはあまり他人に言い広めないでくれるか、ペタシ」
「……え?」

何かが気になったのだろう、小さく息を漏らしたファイツは瞳を瞬きさせて彼女曰く幼馴染である男を視線を向けていた。幸か不幸かそんな彼女の様子にはまるで気付いていないペタシは、笑顔を浮かべながら何度も大きく頷いている。ペタシはどうやらファイツのことを気にしているようだが、ラクツも同じ想いを抱いているらしいとあってはペタシに勝ち目はなさそうだ。ついでにユキの想いも叶わないことになるわけだけれど、そんなことは自分の知ったことではない。ペタシに対しての本日何回目かの憐れみの視線を送ったヒュウは、またもやはあっと溜息をついた。将来的にまず間違いなく失恋するであろうユキは、果たして自分に電話をかけて来るのだろうか。そんな未来がもしかしたら訪れるのかもしれないと考えるだけで、ヒュウは酷く憂鬱な気分になった。

「分かっただす、きっと何か深いわけがあるんだっぺね?」
「まあ、そんなところだ。理解が早くて助かる、ヒュウもそうしてもらえるとありがたいんだが」
「あ、ああ……」

ラクツに顔をまっすぐに向けられて、そういえば以前彼がファイツに向けて凍てつくような視線を向けていたことをヒュウは唐突に思い出した。確かにこの2人には何か深い事情とやらがあるのかもしれない。その詳細が気にならないといえばそれは嘘になるが、尋ねても答えてもらえそうになさそうな気がしてならなかったヒュウは潔く諦めることにした。同時にさっき見たことも綺麗さっぱり忘れられればいいのにと思いながら、ヒュウはラクツに向かって「分かった」と頷いてみせた。その頷きは明らかにぎこちなかったが、ラクツがそれに対して何かを言って来ることはなかった。

「……ありがとう。ヒュウ、ペタシ」
「べ、別に礼を言われるようなことじゃねえよ。要は誰かに言いふらさなけりゃいいんだろ?」
「……そうだ」
「その、ファイツさん!ラクツとは小さい頃からのつき合いなんだすか?」

ただの幼馴染であると聞いて安心したらしいペタシはすっかりいつもの調子を取り戻したようで、つっかえつつもファイツと何やら話をしていたのだけれど、ヒュウには彼らの会話が途切れ途切れにしか聞こえなかった。「幼稚園児の頃にラクツくんと仲良くなったの」とか、「その頃から大人びてた」とか、「今もラクツくんは本当に優しくて」とか。自分の幼馴染について何やら説明しているらしいファイツの言葉を右から左へ聞き流しながら、ヒュウはペタシに向けて本日何度目かになる憐れみの視線を向けた。ファイツ曰く”ラクツくんは本当に優しい”らしいが、それは多分彼女がラクツにとって特別な存在だからなのだろう。何となくだけれど、そのことにこの女は気付いてなさそうだとヒュウは思った。つまり、きっとラクツは片恋をしているのだ。

(やっぱり色々な意味でとろい女なんだな、こいつは)

恋愛事に興味はないと断言出来るヒュウだが、流石に今はラクツが気の毒だと思ってしまった。いや、どうやらかなり鈍いらしいこの女にこの場で気付かれてもそれはそれでこっちが困るのだが。こんなことを考えるなんてまったく自分らしくないけれど、そう思ってしまった以上は仕方がなかった。ヒュウはまっすぐ前を見据えたまま、早く気付けよと毒づいた。何度も何度も毒づいた。