school days : 153
一輪の花
暗がりの中でその女の子の姿を見つけた瞬間に、ペタシの心臓はどきんと大きく音を立てた。元々女子というだけで自分はいつもそうなってしまうのだけれど、今感じているその鼓動は普段より強いものだった。まだ遠い上にこの暗い中だ。もしかしたら見間違いかもと思ったけれど、目をよく凝らしてみたら特徴的な髪型をしたあの子の姿がやっぱり浮かんでくれて、ペタシは心の中でやっただすと叫んだ。間違いなくあの女の子はファイツだ。控えめで可愛らしくて、この前帰り道で見かけてから何だかやけに気になるようになった女の子だ。その子に会えたという驚きと喜びで、のんびりと歩いていたペタシの足は思わず止まった。ぴたりと立ち止まったというより、ぴしりと固まってしまったという方がより的確な表現だろう。とにかくその場から動けなくなったペタシは、こちらに向かってゆっくりと歩いているファイツを見ながら1人挙動不審な動きをしていた。(だ……だどもファイツさんは1人で何してるんだっぺか?しかも、あんなところで……)
自分だって今は1人なわけだが、それは主将と副主将になったラクツとヒュウに先に行っておいて欲しいと頼まれたからだ。剣道部の部室の鍵を閉めるのは2人の担当であり、もう慣れっこになっていたペタシはその言葉に頷いていつも通りに先に部室を出たのだ。新学期初日も何事もなく終わったなあと思いながらゆっくりと歩いていたはずが、最後の最後でとんでもないことが起こったことに驚く。本当に彼女はどうしてここにいるのだろう?いや、もちろん彼女の姿を見れたことは自分としてはものすごく嬉しいのだけれど。だけどその嬉しいという気持ち以上に、彼女がここにいる理由が気になった。
この道をまっすぐ行けばそこには剣道部の部室があるが、剣道部員でない人間がこんなところにいるというのがペタシには不思議で仕方がなかった。放課後になった直後というならまだ分かるが、今の時間は夜の6時半を回ったばかりなのだ。単に部活が長引いたという線もあるだろうが、部活の練習中に姿を見たことがないという事実から彼女は運動部には入っていないのだろうとペタシは勝手に思っていた。運動部でないなら文化部か帰宅部になるわけだが、文化部は運動部より基本的に早く終わるのだ。帰宅部は当然放課後になったらすぐに帰れるわけで、ますますペタシの疑問は膨らんだ。部活でないとすれば、彼女がこんな遅くまで学校に残っている理由なんて1つしか思い浮かばなかった。
(ま、まさか……。剣道部の誰かに用でもあるんだすか……?)
ファイツに話しかけたいと思いつつ、ペタシは心の中で独り言をぶつぶつと呟いた。剣道部員の誰かに何かの用事があって、ファイツはこんなところにいるのかもしれない。その用がある誰かの姿をペタシは勝手に思い浮かべた。まず一番に考えられるのはやっぱりラクツだろう。何しろ以前、ファイツは彼に用事があるのと言ったのだ。それにいつだっただろうか、自分が彼女の為にラクツを呼びに走ったこともペタシはよく憶えていた。少なくとも2人が知り合いであることは確かだろう。自分とは違って女の子に人気があるラクツをペタシはいつだって尊敬しているのだけれど、今は羨ましいと思うと同時にものすごく落ち込んでしまった。ああ、どうしてラクツはあんなにも女の子に人気があるのだろう。おまけにファイツと知り合いなんて羨ましい……。彼女がラクツに用があるというのは自分の勝手な想像でしかないわけで、その結果勝手に落ち込んでいるだけなのだけれど、どうしたって前向きな気持ちにはなれなかった。ファイツを気にし始めたからこそそう思ってしまうのだろう。
暗がりの中で暗い気持ちになったペタシは、落ち込んだ気分になったことで無意識にはあっと息を吐いた。そうしてしまってからファイツに気付かれたかもしれないと慌てて口を手で押さえたのだけれど、幸か不幸か彼女が自分に気付くことはなかった。単に暗いからこちらの姿が見えなかったというのもあるのだろうが、相変わらずゆっくりと歩いている彼女の視線が下に向けられていることが大きいのだろう。やっぱり固まったままで近付いて来るファイツをぼんやりと見つめていたペタシは、ふとあることに気が付いた。彼女の視線はずっと下に向けられたままで、前に向けられる様子がまるでないのだ。おまけに下ばかり見つめている彼女は時折首を動かしている。それを見たペタシの中で、ある考えが閃いた。多分その様子からすると、彼女は何かを探しているのだろう。
(こ……。これはもしかして、大チャンスだべか!?)
女の子に興味津々であるペタシは、けれど自分が女の子に上手く話しかけられない性格をしていることをよく理解していた。それが例え軽い世間話レベルの会話だったとしても、何かしらのきっかけがなければ自分から女の子に話しかけるなんて出来ないだろう。ペタシはそう思っていたのだけれど、今の状況は自分にとってまさに千載一遇のチャンスかもしれない。どの道もう少し近付かれれば流石にファイツも自分の存在に気付くだろうし、何よりいつまでもこうしているとラクツとヒュウが自分に追い付いてしまうだろう。ファイツと落ち着いて話せる機会はこれを逃せばもうないのかもしれないと思うと、自然と心の底から熱い何かが生まれて来る。うるさいくらいに心臓を動かしながら、ペタシは緊張で震える足を一歩踏み出した。
「ファ、ファイツさん!」
「……ひゃあっ!?」
緊張から裏返った声で何とか彼女の名前を呼ぶことに成功したペタシは、弾かれたように顔を上げると同時に後ろへ後退ったファイツのその反応に心臓をさっきとは違う意味で高鳴らせた。自分もまた後ろへ後退って、手を心臓の辺りに押し付けながら必死に心臓を宥める。せっかく2人きりで話せるこのチャンスを不意にはしたくないと、緊張で強張った口元を無理やりに上げてみせた。
「な、何か探し物をしてるみたいだども……。もしそうならオラも手伝うだすよ!」
彼女とお近付きになりたいという下心もあるけれど、純粋に困っている人を助けたいという気持ちからペタシはそう申し出た。ファイツはしばらくの間ぼうっとしたように自分を見つめていたのだけれど、そうされるこちらにとっては堪ったものではなかった。女の子にこんなに見つめられるなんて今までの人生で初めてのことかもしれない。途端に再び暴れ出した心臓にもっと落ち着くように言い聞かせながら、ペタシはファイツの反応を待った。半ば無理やりに笑顔を作りながら、しかし内心ではまたはあっと溜息をつく。慣れていないから仕方のないこととはいえ、女の子にただ見つめられただけで緊張してしまう自分が情けないと思ってしまったのだ。比べても仕方のないことだけれど、例えばラクツやヒュウならこんなことはないに違いないはずなのに。
「で、でも……。その、迷惑じゃないですか……?」
まるで消え入りそうな程に小さな声でそう言ったファイツに向かって、ペタシは必死に首を横に振る。迷惑に思うなんてとんでもない、そんなことは考えもしなかったくらいなのだ。
「迷惑なんかじゃないっぺよ!む、むしろその……。……な、何でもないだす!」
「え……?」
「と、とにかく!オラは困ってるファイツさんを見過ごせないだけなんだすよ!ずっと見てたども、何かすごく困ってたみたいだった……。あ!」
「…………」
目を丸くしてこちらを見たファイツのその反応で、ペタシは自分が失言をしたことに気付いて口元に手をやった。やましいことは考えていないにしろ、”ずっと見ていた”なんて発言は良くなかったかもしれない。しでかした失態に頭を抱えたくなったペタシは、けれど次の瞬間更なる衝撃に襲われることとなった。自分を見つめていたファイツが、あまりにも綺麗に笑った為だ。
「……ありがとうございます。実は大事な物を落としちゃったみたいで、ずっと探してたんですけど見つからなくて困ってたところだったんです……。もし一緒に探してくれるなら、すっごく助かります……っ!」
「…………」
あまりにも綺麗なファイツの微笑みに言葉を失ったペタシは、何とか彼女の言葉に反応しようとこくこくと何度も頷いた。ありがとうございますと言ってもう一度綺麗に笑った彼女が眩しくて直視出来ない。本当に、どうしてこんなに綺麗に笑えるのだろう?まるで小さな花が咲くように表情を綻ばせたファイツを見つめたまま、ペタシはそんなことをぼんやりと思った。
「落とし物を預けてある場所に行ってもなくて、校内をあちこち歩いて探してもみたんですけどどうしても見つからなくて……。後はもう、体育の時に通ったこの辺りの道しかないかなって……」
「あの……。そんなに大事な物なんだっぺか?」
「はい……。あたしの宝物なんです……」
「そうだすか、じゃあ絶対見つけないとだすね!2人で探せばきっと早く見つかるだすよ!」
「はい……っ!ありがとうございます……っ」
「……あの、ファイツさん。普通でいいっぺよ」
「え?」
目線を逸らしながらペタシはそう告げたが、ファイツは意味が分からないのか小首を軽く傾げた。そんな何でもない動作が、だけどものすごく可愛い。本当に、見れば見る程彼女は可愛い女の子だとペタシは思った。そんな彼女ともっとお近付きになりたいという思いから告げた言葉は、しかし上手く伝わらなかったらしい。言葉が足りなかったから当然とも言えるが、そのおかげでこんなに可愛らしいファイツが見れたのだから間違えて良かったのかもしれない。そんなことを考えつつ、今度はちゃんと言おうと思いながらペタシはファイツの顔を何とかまっすぐに見つめた。やっぱり心臓は派手に音を立てたが、目を逸らしたままでは上手く伝わらないと思ったのだ。
「その、オラには普通の言葉遣いをしてくれていいだす。敬語だと、オラも緊張するだすから……」
「は、はい……。あ、うん……。じゃあ、そうするね……」
心なしか恥ずかしそうにしているファイツを見て、ペタシの中で更に彼女の好感度は上がった。声が小さいところも控えめで可愛らしいし、何より恥ずかしそうにしている態度が可愛い。本当にどこもかしこも可愛らしい、まさに彼女は自分の理想のタイプの女の子だった。
(い、今はこんなことを考えてる場合じゃないだす!早く探してあげねえと……!)
ぶんぶんと首を横に振ったペタシは、不思議そうにしているファイツに何でもないだすと言ってごまかした。今は自分のことより彼女のことだ。もし彼女の落とし物を見つけられれば、距離が今よりぐっと近付くに違いない。自分の為にも彼女の為にも絶対見つけようと意気込んだペタシは、その必要もないのに腕まくりをした。肝心の探し物のことを尋ねようと口を開いたその瞬間に背後から声が聞こえて、ペタシは驚きでまたもや固まった。気になっている女の子と2人きりという美味しい状況で第三者の声が聞こえた事実に単純に驚いたこともそうだが、何より”彼”が発した言葉の内容に驚いたのだ。その衝撃で思わずペタシの呼吸は一瞬止まった。自分の聞き違いでなければ、今の言葉を発した人物であるラクツは敬称をつけずに彼女のことを呼んだのだ。つまりは呼び捨てだ。
「ラ、ラクツくん……っ」
「こんな遅くまでどうしたんだ?」
「えっと……。あたし、落とし物しちゃったみたいで……。ずっと探してたんだけど見つからなくてね……っ」
「落とし物?……ああ、やはりこれはファイツの物か。屋上近くの階段で拾ったんだが、すぐに渡しに行けなくてすまなかったな」
「あ、あたしのペンダント……っ!見つけてくれてありがとう、ずっとずっと探してたの……っ!」
「そうか……。見つかって良かったな」
「うん……っ」
どうやら自分が出るまでもなくファイツの落とし物は見つかったらしい。だけどペタシはそのことを喜ぶ間もなく眼前で行われるラクツとあの子のやり取りを黙って見つめていた。正確に言えば声が出なかったのだ。何だか2人の仲がやけにいいように思うのだけれど、それは果たして自分の思い違いなのだろうか。いつの間にか隣にいたヒュウが自分の肩に手を静かに置いたことにも気付かないままに、ペタシは呆然とファイツを、そしてラクツをただひたすら見つめていた。