school days : 152

はじけるほのお
今日も今日とて陸上部の放課後練を終えたサファイアは、両手を真っ暗な空に高く突き上げてぐぐっと大きな伸びをした。続いて肩や首を回したり足首を手で掴んで膝を曲げたりと、簡単なストレッチをしてからふうっと息をつく。もちろん家に帰ってからもっとちゃんとしたストレッチをするつもりだが、練習で疲れた身体には今のままでも充分に気持ちがよかった。

「今日もたくさん走ったとね、やっぱり走るのは気持ちよかとよ!」

大きな独り言を言ったサファイアは、額から汗が滲んでいることに気が付いて腕で拭った。ハンカチは毎日持って来ているのだけれど、今は生憎更衣室に脱ぎ捨てている制服のスカートの中に入っているのだ。ハンカチで汗を拭く為だけに更衣室にわざわざ戻るというのも実に面倒なことだし、どうせこの後すぐに顔を洗いに水飲み場へ行くわけだから腕で汗を拭ったところで問題もないだろう。

(ルビーば嫌がるやろうけど、あたしは別に平気ったいね!)

不意に彼氏の顔がぽんっと頭に浮かんで、サファイアの口角は自然と上がった。潔癖気味なくらいに綺麗好きなルビーは、少しでも身体が汚れるとハンカチで丁寧に汚れを拭き取るのだ。そんなルビーのことだ、当然汗を自分の腕で拭うなんて真似はしたことがないに違いない。もしルビーがこの場にいたなら、”女の子なんだからちゃんとハンカチを使いなよ”と言って使っていない真っ白なハンカチを自分に差し出して来そうだ。そんなルビーの姿が簡単に想像出来て、サファイアはまた笑った。
ルビーと出会った最初の頃は彼のお小言が癇に障って仕方がなかったのだけれど、今は真逆に思うくらいなのだから本当に不思議なものだ。昔から”男の子っぽい”とか”女にしておくにはもったいないくらいに男前”とか、そういうことを人に言われて来たサファイアは、だけどやっぱり女の子だった。それ一直線ではないものの恋愛にちゃんと興味はあったわけで、けれどそれでも正反対の性格であるルビーとは絶対にどうこうなるわけがないとあの頃の自分は本気で信じていたのに。

「やけん……。結局ば違ったわけやから、ほんまこつ不思議ったいね……」

そう呟くと同時に1回だけでは拭いきれなかった汗が左頬を伝ったのが分かって、今度は指先で汗を拭き取った。次にジャージの裾を摘まんで上半身に風を通す、冷たい冬の風が練習で火照った身体をいい感じに冷ましてくれるようで実に気持ちがよかった。何回かそうしてからグラウンドに設置されている時計を睨みつけるように見てみたが、その短針は何度見ても6の字をしっかりと指していた。つまり今の時刻は6時ということになる。大会前でもない限りはいつも部活はその時間に終わるから当たり前でしかないわけなのだけれど、その事実はやっぱり悲しい。サファイアはいつだってこう思うのだ、部活が終わってしまった後のこの時間はどうしたってこんな気持ちになる。淋しさと悲しさとついでに切なさが入り混じった、何とももやもやしたすっきりしない気分になるのだ。

「こ、こんなことじゃいけないったい!早く顔ば洗ってすっきりするとよ!」

せっかく部活で思い切り走っていい気分になったというのに、こんなすっきりしない気持ちのままで帰りたくはなかった。自分が表情を顔に出すタイプの人間だということはよく知っている、もしかしたら出迎えた父親を心配させてしまうかもしれない。それはやっぱり嫌だった。気持ちを切り替えようとぶんぶんと頭を振ったサファイアは、早く顔を洗おうと水飲み場へ向かった。冷たい水で文字通り頭を冷やせばこの気持ちもすっきりすることだろう。だけど一度もやもやした気分になってしまったからなのか、大好きな親友の様子がおかしかったことが不意に思い出されて、サファイアは眉根を寄せた。

(やっぱりファイツのことが気になるったい……)

昼休みのことだ。せっかく作った美味しそうなお弁当をあまり食べずに慌てた様子で教室を出て行ったあの子は、それはそれは沈んだ表情をして教室へと戻って来た。ファイツがあまりに暗い面持ちで沈んでいたから、バレンタインのチョコレート作りを教えてもらうという約束を見事取りつけて教室に帰って来たワイとプラチナと一緒にどうしたのかと一斉に尋ねたものだった。だけどファイツの答は「何でもないの」の一点張りで、どうあっても理由を教えてくれないことを悟ったサファイアは2人の親友と揃って顔を見合わせたのだ。

(いったいどうしたんやろうか?……やっぱり失恋ばした、とか……?)

ファイツの頬には涙の跡が幾筋もあった、つまりは大粒の涙を零してしまったのだろう。お世辞にも頭がいいとは言えない自分にはやっぱりファイツが大泣きする理由が失恋しか思い浮かばなくて、今度は顔を顰めた。自分の勝手な想像でしかないわけだが、もしそうだとしたらそれは何とも悲しいことだった。何しろ想っている人のクラスの一員になりたいが為にファイツが長い間頑張っていたことを、自分はよく知っているのだ。サファイアはそんなファイツの力になりたかった、親友が何かに悩んでいるというなら尚更だった。だけど実際にはあの子は何も言ってはくれなかった、どうしたのかと誰が訊いても理由を教えてはくれなかった。多分、よっぽど言いたくないことだったのだろう。自分が親友の力になれないことが悔しくて、サファイアは眉間に作った皺を更に深く刻んだ。ついでに足元に転がっていた石を邪魔とばかりに蹴飛ばしてみたけれど、やっぱりこの悔しさは晴れてくれなかった。

「サファイアー!」

後ろから自分の名前を呼ぶ声が聞こえて来て、サファイアはばっと振り返った。暗い中でも目立つような赤い髪を持つ部活仲間が、こちらに向かって走って来るのが目に映る。

「……アスナ!」

サファイアは彼女の名を呼び返した。まるで炎がそのまま人間になったようなアスナはとにかく熱い心を持つ女子で、自分とは何かと話が合うのだ。

「珍しいね、サファイアがこんなに遅くまで残ってるのって。いつもなら練習が終わったらすぐに顔を洗いに行って、すぐに帰っちゃうでしょ?それに思い切り難しい顔してるし、いったいどうしたの?」
「あたし、そんなに変な顔してたやろうか……?」
「うん!こーんなにね!」

あっという間に自分に追いついたアスナは、”こんなに”という言葉をおどけたように長く伸ばしながら眉間に皺を作ってみせた。そうした直後に「そんな顔してたら疲れちゃうよ」と言って、あっという間に険しい表情を戻したアスナは白い歯を見せて笑った。表情をころころ変えるアスナを見ていたサファイアは歩きながら思わず吹き出す、彼女と話しているといつだって前向きな明るい気持ちになれるのだ。

「で、どうしたの?サファイアらしくないそんな顔しちゃって」
「実は、ファイツば何かに悩んでるみたいで……。あたし、ファイツの力になれんことが悔しかったとよ」
「ファイツ?……ああ、サファイアの話によく出て来る子だっけ」

ファイツがNを想っていて、その気持ちを親しい人以外にはひた隠しにしていることはよく知っていた。そんな彼女が失恋したという自分の勝手な思い込みをアスナに話すわけにもいかず、サファイアは簡単に話をかいつまんで説明した。アスナはファイツと親しくもないわけだけれど、その分客観的な意見をしてくれるかもしれない。

「ふーん……。そのファイツって子についてはよく知らないけどさ、やっぱり言いたくないってことなんじゃないかな。だったらサファイアがそんなに気にすることないよ。今だけ落ち込んでるってこともあるし、そのうち話してくれるかもよ?」
「そうやろうか……?」
「あたしは落ち込んでる時はやけ食いするけど、気分の盛り上げ方なんて人それぞれだしやっぱりサファイアが気にすることないって思う。でもそんなにその子が気になるなら、好きな物をプレゼントしてみたらどうかな。それか、一緒に甘い物食べに行くとか!……あ、それはあたしのことか」
「好きな物……」

明るいアスナが「思い切り走るとお腹空くよね」と言っているのを聞きながら、サファイアはファイツの好きな物を思い浮かべた。自分の例だとアスナは言ったが、確かにファイツだって甘い物が、とりわけパフェが好きだった。

(そういえば、ここのところ皆でお茶してないけんね……)

プラチナを含めた4人で最後にお茶をしたのは、確か随分前だったような気がする。美味しいパフェを食べれば、ファイツだっていつもの調子を取り戻してくれるかもしれない。

「そう……たいね。……うん、誘ってみることにするったい。ありがとう、アスナ!」
「どういたしまして。……うんうん、やっぱりサファイアは笑顔が似合うねー!こっちまで明るい気持ちになれるよ!」
「そ、そうやろうか……?」
「事実なんだから照れなくてもいいのに。……あ、もうこんな時間!サファイア、早く顔洗って帰らないと。帰りのHRで不審者が出たってナギ先生が言ってたでしょ?先生に見つかったら早く帰りなさいってこっぴどく怒られるよ!」
「あ、そういえばそうやったとね……」
「ねえ、久し振りに一緒に帰ろうよ。フウもランも今日は部活を休んで先に帰っちゃったからさ、あたし1人で帰るの何だか怖くって……」

いつもは双子のフウやランと一緒に帰っているアスナは、両手を合わせてそう懇願した。彼女の話でそんなことがあったことをようやく思い出したサファイアは、身を震わせて二つ返事で頷く。そういえば、学校の近くで不審者が出たから気を付けて帰るようにとルビーからも念を押されていた。いくら男勝りだとか女らしくないとか言われようと、自分だって歴とした女で怖いものはやっぱり怖いのだ。

「そうと決まればダッシュで帰るとよ!……アスナ、どっちが早く顔ば洗って更衣室まで行けるか競争ったい!」
「よし、その挑戦乗ったよ!」

「絶対に退けてやるんだから」と宣言した直後、弾かれるように走り出したアスナの後をサファイアは慌てて追った。息を切らしながら、だけどやっぱり走るのは気持ちいいとサファイアは思った。