school days : 151
なくしたもの
心臓をどきどきと高鳴らせながら、ファイツは目的地へ向かって廊下を歩いていた。すれ違う生徒達の視線を時折やけに感じるのだけれど、それは多分こちらの表情が気になるからなのだろう。鏡を見なくても分かる。自分は今、それはもう強張った顔をしているに違いないはずなのだ。ファイツだって逆の立場だったらいったいどうしたのかなと注目してしまうだろうから、じろじろと見られることに対しての文句は言えない。そもそも気弱な自分には、親しくもない相手に向かって文句など言えるはずもないのだけれど。どうにも気まずくて、ファイツは生徒達の視線を避けるように伏し目がちに歩いた。(ど……。どうしよう、どうしよう……っ)
目指す場所へ近付くにつれて、胸のどきどきはより一層強まっていく。心の中でどうしようなんて呟いてみたものの、そうしたところで何がどうなるわけでもないことはファイツにだってよく分かっていた。心臓を宥めようと胸を思い切り押さえてみたのだけれどその効果はまるでなくて、唇からは深い溜息が零れ落ちる。
(ペンダントを掴んでも、どきどきが治まらないよ……)
首から下げているペンダントを服の上からそっと掴んでそう独り言ちる、Nの写真が入ったペンダントだ。正直彼に抱いているこの気持ちは今ではもうよく分からなくなっているのだが、かと言ってすぐに外す気にもなれなかった。今までずっとこのペンダントをつけていたのだ、今更外すというのも何だかものすごく心細い気がする……。だから今まで通り宝物を首から下げていることに決めたのだけれど、その宝物のペンダントの力をもってしても心臓の鼓動は落ち着いてなんてくれなかった。もちろんこの宝物に特別な力が備わっているわけではなくて、Nの写真が入ったペンダントに触れていると単に安心出来るというだけのことなのだけれど。
だけど、いつもなら時間が経てば治まってくれるはずのどきどきは一向に良くならなかった。何回か深呼吸を試みても、やっぱり効果はなかった。どうやってもこの胸の鼓動は静まってくれそうもない、多分自分が目的地へたどり着いてもどきどきと高鳴ってしまうのだろう。いや、むしろその場所へたどり着いたら今以上に激しく高鳴ってしまうかもしれない。今でさえこんなにもどきどきしているというのに、これ以上激しくなったらどうなるんだろうとファイツは思った。いよいよ心臓が壊れてしまうかもしれない。
(本当、どうなっちゃうんだろう……)
そう声に出さずに呟いて、ファイツは踏み出す足に力を込めた。そのまま1段1段、階段を踏みしめるようにゆっくりと上っていく。遅いとはいえ、ただでさえ体力がない自分にとって階段を続けて上るのは辛かった。たちまち自然と息が切れて、目的地である屋上へと繋がる扉の前で膝に手を当てて呼吸を整える。はあはあと荒い呼吸を繰り返しながら、ファイツは扉をじっと見つめた。何だかとても重そうな扉に見えて仕方がなかった。この扉の向こうに彼がいるのだと思うと、やっぱりどうしようもなく緊張してしまう。
「はあ……」
緊張感を紛らわすかの如く、また大きく溜息をつく。自分がこうなってしまったのは、紛れもなく昼休みになってすぐに届いた1通のメールが原因だ。バレンタインにあげるチョコレート作りを教えてもらえるかお願いすると言って教室を出て行ったワイをサファイアやプラチナと一緒に見送った、そのまさに数秒後のことだった。新着のメールが携帯に届いたのを知ったファイツは、お弁当を食べながら何気なく携帯の画面を見て、そして差出人の名前に目をやって固まった。何度画面を見返してみてもそこに書かれている差出人の名前は変わらない、いくら画面を睨んでみても”ラクツくん”の5文字が表示されていたのだ。彼のことだ、何か自分に用があってメールを送ったに決まっている。どきどきどきと胸を高鳴らせながら、それでもサファイアやプラチナにどうしたのかと言われる前に確かめてしまおうとどうにかメール本文を読んだファイツは、またもや見事に固まった。ラクツからのメールには、”用があるから今日の夜に家に行ってもいいか”と書かれていたのだ。
携帯を持ったまま微動だにしない自分を流石に訝しんだのだろう、プラチナの「どうしたのですか」との指摘にようやく我に返ったファイツは「何でもないの」と笑ってごまかした。心なしか震える指で何とか彼にメールを返信して、すぐにまた返事を送って来た彼とやっぱり震える指で何通かメールのやり取りをして。そしてその結果ファイツは彼が今いる場所へ、つまりは屋上へ行こうと決めたのだ。突如として立ち上がった自分に驚いたのか、サファイアの「どぎゃんしたと?」という言葉に口早に「ちょっと用が出来たの」と言い残して、ファイツは教室を飛び出した。ラクツの用件次第ではお昼をあまり食べられない結果になるかもしれないけれど、もうお弁当のことなどまるで気にならなかった。どの道体型を気にして最近ダイエットに励んでいる自分にとっては些細なことだし、彼の用件の方がもう気になって仕方なくて、とても夜までなんて待てそうになかったのだ。
用件を尋ねたところ返って来たメールに書かれていた、”出来れば直接会って話したい”という文を見てしまっては尚更だ。優しい幼馴染は昼食を食べ終えてからでいいと書いてくれたけれど、ファイツは彼の気遣いをありがたいと思いながらも実行しなかった。だってあんな文章を見てしまったのだ、落ち着いてお昼を食べるなんて芸当は今の自分にはとても出来そうもなかった。
(も、もしかして……。す、好きだって……。言われちゃうのかなあ……っ)
あの日からずっとずっと心の中にあり続けていた、幼馴染が自分のことを好いていてくれているのではないかという考え。その不確かな、こちらが勝手に考えているだけでしかないことを、いよいよ直接言われてしまうのではないか。そんな考えがどうしても消えてくれない。もちろん、あのラクツが自分を好きだというはっきりとした証拠があるわけではない。むしろ彼には別に好きな子がいて、女で幼馴染である自分に直接会って相談する為にメールを送ったという方が余程しっくり来る気がする……。それなのにこう考えてしまうのは、やっぱり自分がラクツのことを少なからず意識している所為なのだろう。
(ど、どうしよう……。あたし、まだ気持ちの整理がついてないのに……)
決して迷惑ではないが、そうかといってラクツの気持ちをすんなりと受け入れられるかというとやっぱり首を傾げざるを得なかった。自分が幼馴染である彼をどう想っているのかがよく分からない、確かにどきどきはするのだけれど、これが恋愛感情なのかも分からない。未だに気持ちの整理はついていないのだ。それにNのこともある、彼の姿をひと目見るだけで堪らなく幸せな気持ちになれた今までの日々を思うと、どうしたって胸はずきずきと痛くなる。勝手に幼馴染に告白されるかもしれないと思っているだけなのだけれど、やっぱりラクツの告白を素直に受け入れられない自分が確かにいる。制服である白いブラウスの第2ボタンを開けて宝物であるペンダントをそっと引っ張り出したファイツは、中に入っているNの写真を見つめた。今は自分以外に誰もいないからこそ出来る行為だ。
(N先生……)
やっぱりそうだ、こうして彼の写真を見るだけでも自然と幸せな気持ちになる。ファイツは無意識に眉根を寄せてNの写真入りのペンダントと目の前にそびえ立つ扉とを見比べていたが、はっと我に返るとペンダントを服の中に慌ててしまい込んだ。そしてブラウスの第2ボタンを開けたまま扉の前に向き直る。制服を着崩していることになるわけで正直落ち着かないが、とにかく今は一刻も早くラクツの話を聞かなければと思ったのだ。そうしなければというより、ファイツ自身がそうしたかった。ボタンを止めるのは彼の話を聞いてからでもいいだろう。ブラウスのボタンが普段より1個分余計に空いているからといって、それがいったい何だと言うのだろうか。そんな小さなことを気にするより、今はこの扉の向こうへ行くことの方がずっと大事であるように思えた。大きく深呼吸をしたファイツは扉の取っ手にそっと手をかける。いつまでもここで立ち尽くしているわけにいかない、このままでは昼休みが終わりかねない。
(ふぁ……。ふぁいとふぁいと、ファイツ!)
勇気を奮い立たせるように魔法の呪文を心の中でそれはもう大声で叫んで、その勢いのままにファイツは扉を思い切り押し開く。しかし、それがいけなかった。存在はもちろん知っていたものの、これまで屋上になど来たことがなかったファイツは勝手にこの扉はかなり重いものだと思い込んでいたのだ。生徒が出入りするのだからそうではないことはよく考えれば分かるのだけれど、今のファイツにはそんなことに気を回す余裕がまるでなかった。とにかく自分の想像以上にその扉は軽くて、結果としてファイツは派手に前のめりになることとなった。
「きゃああっ!」
反射的に悲鳴を上げて、扉の取っ手から手を離してしまったファイツは前へとよろけた。屋上の固いコンクリートの地面が段々と迫っていくのがやけにゆっくりと見える。膝を擦りむいたらかなり痛そうだなんて頭の片隅で考えて、思わず目を瞑る。瞳を思い切り瞑ったことで真っ暗になった視界の中で、どうしてこんなに自分は鈍いのだろうとファイツは思った。運動神経が人より良くないことはもう諦めているけれど、何もこんなところでその鈍さを発揮しなくてもいいだろうに。いつものことといえばそれまでなのだが、ファイツは自分の情けなさに泣きたくなった。
「……あれ?」
違和感を感じてファイツは小さく声を漏らす。確かに膝に何かが当たる衝撃はあった、だけどどう考えてもこの感触は固いコンクリートのそれではない。もっと柔らかい何かだ、例えば人の身体のような……。
「……っ」
ある可能性に思い当たったファイツは、間違っていて欲しいと思いながらもおそるおそる目を開く。すると視界には悲しくも想像した通りの光景があって、ファイツは思わず顔をさあっと青ざめさせた。コンクリートの地面と自分との身体に挟まれた幼馴染を、つまりは倒れながらも自分の身体を受け止めてくれた彼の名前を、ファイツは震え声で呟いた。
「ラクツ、くん……」
「怪我はないか?ファイツ」
「うん、あたしは大丈夫……」
「そうか、それならいい」
「えっと……。ラクツくんは大丈夫?」
自分の問いかけに「ああ」と言って頷いたラクツのその答に、ファイツはそっと息を吐いた。どうやら自分の所為で彼が怪我を負うという最悪の未来は避けられたようだった。
「……まったく。勢いよくここに来たかと思えば、そのまま倒れ込んで来るから焦ったぞ。どこか具合でも悪いのか?」
「ち、違うの……。あの扉を勢いよく開けちゃって、それで……」
「なるほど、そういうことか。とにかく間に合って良かった、ファイツが怪我をするのは耐えがたいからな。目の前で怪我をされたら、ボクの立つ瀬がない」
「…………」
彼と目を合わせて、おまけに彼の両肩をしっかりと掴んだ状態で、ファイツはぼうっと放心していた。以前というか、つい最近転ぶのを避けようとして彼にしがみついてしまったことはあったけれど、今はそれよりずっとまずい状況だ。何しろ前によろけたその弾みで、幼馴染を見事に下敷きにしてしまったのだから。謝らなければならないと頭では分かっても、肝心の言葉が上手く出て来ない。
「ご、ごめんなさい……」
何度か試みた上でようやく出せたその言葉は、情けなくも風に吹かれれば消えてしまいそうな程に小さなものだった。距離が極々近いからこそ聞き取れたのだろう、ラクツは「別に謝られることでもない」と穏やかに言った。そのどこまでも穏やかで、どこまでもいつも通りの彼の優しい声だ。思わず泣きたくなったが、そんな気持ちになった自分を必死に抑えてファイツは微笑んだ。
「あの……。助けてくれてありがとう、ラクツくん……」
「……ああ」
理由はどうあれ彼を固いコンクリートの地面に押し倒してしまったのだ。それに対する申し訳なさは大いにあるのだけれど、同時にどこかホッとしている自分がいることに気付いてファイツは首を捻った。自分の身体にいるラクツが視線を横に逸らしたことにも気が付いて、ますます首を傾げる。彼の視線の先を目で追ってみたものの、やっぱりそこにはただただ白い地面が広がっているだけだった。それとも、彼の瞳には別の何かが映っているのだろうか。
「ラクツくん、どうしたの?」
「……それより、ファイツ。その……」
自分の問いかけには答えずに、ラクツは相変わらず目線を横に逸らしたままでそう言った。言葉を言い淀んだ彼の反応を珍しいと思いながらも、ファイツは彼が言葉の続きを言うのをじっと待った。そうしているうちにまた心臓はどきどきと高鳴る、いったい何を言われるのだろうか?
(や……。やっぱり告白されちゃうの、あたし……?)
彼が自分に用件があるらしいことを思い出して、そうなったらどうしようとファイツは思った。何もならないことは分かっているのだけれど、やっぱりそう思った。実の姉のように慕っている従姉とのいつかしたやり取りが脳裏を過ぎる、果たして自分は何と答えるのだろうか。閉じていたラクツの唇が開かれたその瞬間に、彼の言葉を聞きたいような聞きたくないような、相反する2つの気持ちが浮かんでせめぎ合う。だけど耳を塞ぐのはあまりにも失礼過ぎる気がしてならなくて、その代わりにファイツはぎゅっと目を瞑った。
「そろそろ、ボクの上から退いてくれるとありがたいんだが。……この状況は、些かまずい」
「……えっ?」
ファイツはその言葉にそろりと目を開いて、そしてラクツを見下ろした。次の瞬間はっと我に返ったファイツは、慌てて言われた通りに身体を離す。再び青ざめると同時に、顔が見る見るうちに真っ赤になるのが分かった。
「ご、ごめんなさいっ!あたしったら、ぼうっとしてて……!!」
起き上がったラクツに両手を合わせて盛大に謝りながら、穴があったら入りたいとファイツは思った。彼を下敷きにしていたことに気付いていながらそのままにしていたこともそうだが、もしかしたら告白されるかもしれないとのんきに考えていたことが何より恥ずかしい。自己中心的な考えとはまさにこのことだ。盛大な勘違いをした自分は何て愚かなのだろうと、恥ずかしいやら情けないやらで今度こそ泣きたくなった。彼のことをまともに見れなかったファイツは、ラクツが彼自身の左足にほんの少しの間目線を落としたことに気付かなかった。
「あたし、絶対重かったよね……。困らせてばかりで、本当にごめんなさい……!」
「いや、そんなことはないが……。……むしろ、困ったのは目のやり場の方だ」
「……え?」
「……言いにくいことだが、ファイツ。……見えているぞ」
彼自身が着ている制服のワイシャツを指差したラクツは、相も変わらず目線を合わせないままでそう言った。彼の手を目で追って、そして自分の胸元を改めて見たファイツは呆然と立ち尽くした。確かに彼の言った通り、下着の上に着ているキャミソールの一部がものの見事に見えてしまっている。ペンダントの中身を見る為に、ブラウスを第2ボタンまで開けていた所為だろう。気付いていながらすぐに止め直さなかった自業自得でしかないわけなのだが、それでもキャミソールを彼に見られたことには変わりない。いや、もしかしたらキャミソールだけではなくその下に着けている下着まで見られたかもしれない。何しろラクツは自分の身体を抱き留めてくれた結果、自分の下敷きになったのだから。
「…………」
「不可抗力だが、すまなかった。余計な口出しをするようで悪いが、せめて第2ボタンは止めた方がいいと思うぞ。……というより今すぐ止め直してくれ、目のやり場に困る。今日は朝からその格好でいたのか?」
彼がずっと明後日の方向を向いていた理由は分かったが、ファイツはラクツの気遣いとその優しさに感謝するどころではなかった。気になっている幼馴染の男の子に少なくともキャミソールは見られてしまったという事実が頭の中を支配して、もうそれどころではなかった。もしかしたら、下着を誰彼構わず見せつけているようなはしたない子だと思われたかもしれない。ここに来た目的のことは、最早すっかり吹き飛んでしまっていた。
「きゃああああっ!」
「ファイツ!」
気付いたらファイツは盛大な悲鳴を上げて、屋上を転がるように飛び出していた。残されたラクツが何かを言っているのは辛うじて聞こえたが、その内容はまるで頭に入って来なかった。胸元を片手で押さえて屋上へ繋がる階段を駆け下りる、今はとにかく彼から離れたかった。
(もう最悪、よりにもよってラクツくんに見られるなんて……!絶対はしたない子だって思われたよね、あたし……!)
こんなことになるのなら、いつも通りに第2ボタンを止めておけば良かった。どれだけ後悔してもラクツにキャミソールを見られてしまったという事実は消えない。その事実を忘れようと頭をぶんぶんと横に振ってみても効果はなかった。それどころか、彼の”今日は朝からその格好でいたのか”という言葉が頭の中で強く鳴り響いて、頭を両手で抱える。ちょうどその瞬間にチェーンが切れたペンダントが落下して階段に落ちたのだけれど、ファイツがそれに気付くことはなかった。
(どうしよう、どうしよう……っ)
行きの時と同じ言葉を、だけどさっきとはまるで違う気持ちになりながら声に出さずに呟く。頭にはまだ彼に言われたあの言葉が鳴り響いていた。はっきりとは思い出せないけれど、戸惑ったような、何かを堪えているような声だったように思う。あの真面目で優しい彼のことだからはっきりと表さなかっただけで、それでも内心では自分のことを軽蔑したに違いない。下着を周りに見せていても平気な子なのだと思われたかもしれない。それだけは違うのと否定したかったが、今更ラクツがいるであろう屋上に戻る気にもなれなかった。
「そうだ……。ボタン、止めなきゃ……」
ファイツは震える指で第2ボタンに触れたものの、気が動転している所為か中々止まってくれなかった。ボタンを1つ止めるというだけの行為が、何だかものすごく難しいもののように思えてならなかった。
(きっとあたし……ラクツくんに軽蔑されちゃったんだ……。あの優しいラクツくんに今度こそ嫌われちゃったんだ……!気になる人を2人も作っちゃったから、きっと神様の罰が当たったんだ……!)
やっとのことで第2ボタンを止め終えたファイツは、瞳から一筋の涙を零しながら心の中でそう叫んだ。何か大切なものを失くしてしまったような気がするが、それが何なのかが分からなかった。自分が今泣いているその理由にも、自分の下敷きになった彼がその結果足を怪我したことにも、そして大切な宝物を落としたことにも。そのどれにも気付かないまま、ひたすら暗い気持ちになったファイツはのろのろとした足取りで、ただひたすら歩を進めた。