school days : 145

灰色の気持ち
「はあ……」

ベッドに横たわったファイツは、暗がりの中で深い溜息をついた。特に意識をしなくても唇からは自然と息が漏れてしまう。いつもならばお風呂上がりにこうして横たわっているとすぐに眠気が襲って来るはずなのだけれど、今日は少しも眠くならなかった。自分がどれくらいの間こうしてただ横たわっているのか、ファイツには分からなかった。だけどあえて時間を確認する気にも、眠くなるまで本を読む気にもなれなくて、意味もなくごろごろと寝返りを打つ。何だか身体がふわふわと浮いているような気さえする、少なくとも気持ちはまったく落ち着いてはくれなかった。せっかくホワイトが用意してくれたクリスマスの豪勢な夕飯もあまり喉を通らなかったくらいだ。大丈夫と心配したホワイトには笑顔を作ってうんと言ったのだけれど、本当はとても大丈夫じゃなかった。具合が悪いわけではないのだけれど、身体が熱くて熱くて、もう仕方がない……。

「…………」

お風呂上がりなのだから、全身が熱いのは当然と言えば当然だろう。けれど今感じている熱さはそれとは無関係なのではないかとファイツは思った、何しろ熱さを感じているのは身体と言うより顔の方なのだ。ファイツはだらりと伸ばしていた腕を何となく目で追った。そして自分の手の平を見つめて、また溜息をつく。

(あたし……。ラクツくんに手を握られちゃったんだよね……)

幼い頃は、ラクツにそうされることに戸惑いなんて感じなかった。自分達がプラネタリウムで出会った少女の歳の頃は、それこそラクツに会う度に手を繋いでいたくらいなのだ。むしろファイツの方から手を握っていたのではないだろうか?記憶が正しければ、確かそうだったような気がする……。幼い彼と手を繋いでいると、ファイツは幸せな気持ちになれたものだった。彼と手を繋いでいるあの時間がファイツは好きだった。そして何も言わずに、だけどしっかりと握り返してくれる彼のことも、ファイツは大好きだった。

(ラクツくんと手を繋がなくなったのって、確か小学校の中学年くらいだったっけ……?)

幼馴染と言えど、自分は女で彼は男の子なわけなのだから、幼い頃のようにずっと手を繋いでいる方が多分おかしいのだろう。現に自分の中での、それは仲がいい幼馴染の代表格であるエックスとワイだって、手を繋いでいる所をファイツは見たことがないのだ。同性ならばともかく、この歳で異性と手を繋ぐなんて滅多にないことなのだと、ファイツは思っている。それこそ、余程のことでない限りは。
数ヶ月前にラクツと手を繋いだことは未だに憶えているけれど、それは夏祭の人混みで逸れないようにという理由があったからだ。そうでなければあの彼が、自分と手を繋ぐはずがない。あの彼が、理由もなく異性と手を繋ぐなんてない……。

(やっぱり、あの子に言われたから……なのかなあ……)

別れ際に何度もありがとうと言ってくれた、それはそれは可愛らしい女の子。そんなあの子は自分達のことを夫婦の関係だと勘違いしていたけれど、その可愛らしい夢を壊さないように配慮したということなのだろうか。だから、ラクツは自分と手を繋いだのだろうか……。胸の内でそう呟いて、自分の大切な幼馴染の男の子のことを頭に思い浮かべる。彼は大人っぽくて落ち着いていて、とてもとても優しい人だ。キミのことが心配だからと言って、わざわざ家の前まで送ってくれた程に優しい人なのだ。彼は自分自身を優しくないなんて言うけれど、絶対にそんなことはないと思う。
夜道を彼と2人で歩く道すがら、ものすごく気まずいと思っていたファイツは話題を必死に探していたのだけれど、その途中でふとあることを思い出した。自分の幼馴染は、そういえば迷子になっていたあの子に必要以上に話しかけなかったような気がする。自分は子供が大好きなのだけれど、もしかすると彼の方はそうではなかったのかもしれない。もし自分の考えが当たっていたら彼に迷惑をかけてしまったことになるわけなのだ。少し迷ったけれど、このまま沈黙を続けて歩くよりはずっといい。そう考えたファイツは意を決してラクツに尋ねてみたのだ、彼の答によっては謝らなくちゃと声に出さずに呟いて。隣を歩く彼に「ラクツくんって子供が苦手なの?」と訊いたら、やや間が空いて「いや」という答が返って来て、ファイツはホッと胸を撫で下ろしたものだった。

(”多分怖がられるから自分からは話しかけなかった”ってラクツくんは言ってたけど、あたしはそうは思わないなあ……。だってラクツくんって、本当に優しい人だし……)

確かに目付きこそ鋭いのだけれど、それでもラクツは優しいのだ。可愛らしいあの子におねえちゃんと呼ばれたことにくすぐったくなったファイツだが、それ以上に嬉しいと思った。自分の幼馴染も、”ラクツおにいちゃん”なんて呼ばれていた。そういえばあたしも彼のことをお兄ちゃんと呼んだことがあったなあなんて、その光景を微笑ましく眺めながらファイツは小さく呟いた。彼にああ言ったことが、何だか随分昔の出来事のような気がする……。
そう、あれから数ヶ月が経ったのだ。たかが数ヶ月と言ってしまえばそれまでだけれど、だけどその数ヶ月の間に自分の何かが変わってしまったような気がする。幼馴染に勉強を教えてもらっていた最初のうちは、彼と話しても何とも思わなかったはずだった。それが今はどうだろう。彼と話す時はおろか、彼の顔を思い浮かべるだけでも、ファイツの顔には自然と熱が集まってしまうのだ。あの頃のように彼の顔をまじまじと長時間見つめることなんて、とても出来そうにないとファイツは思った。今そんなことをしたら、心臓が本気で壊れてしまいそうだ。

「でも……」

でもという言葉が、唇からぽろりと零れ落ちる。何だか、今日のラクツはこちらをやけに見つめてはいやしなかっただろうか。特に家まで送ってくれた帰り道で彼の視線を何度か感じたのだけれど、あれは果たして自分の思い過ごしなのだろうか。彼に手を握られてしまったから、そして彼にあんなことを言われたから、変に意識してしまっているだけなのだろうか……。
そんなわけがないもんと自分に言い聞かせてはみても、心の中に浮かぶ考えは消えない。彼にあんなことを言われてしまった直後から、どうしようもなく心の中で渦巻いている考えは消えない。自意識過剰だと、バカみたいと自分を嘲ってみても、どうしたって消えてくれない。それどころか否定しようとすればする程にこの考えはますます膨らんでしまい、ファイツははあっと溜息をついた。自分がベッドに横たわってから何度溜息をついたのかを、最早数える気にもなれなかった。
ラクツと2人きりで遊びに行くなんて、きっと今日限りのことなのだろう。ファイツはそう思っていたのに、彼は”また誘っていいか”と言って来たのだ。静かだったけれど、その言葉は確かに自分の頭の中に鳴り響いた。気が付いたらこくんと頷いてしまっていたのだけれど、今更ながらにどうしようとファイツは思った。

(ど、どうしよう……)

別に彼のことが嫌いだというわけでもないし、彼と遊びに行くことが嫌だというわけでもない。確かに緊張はしたけれど、それでも今日彼と過ごした時間は楽しかったと言える。大好きなプラネタリウムにも行けたし、気になっていた店での買い物にもつき合ってくれたし、イルミネーションまで見れたのだ。でも、こんなことはこれっきりだろうとファイツは思っていた。ラクツに誘われるあの瞬間まで、本当に本当にそう思っていたのに。けれど実際はそうではなくて、気が付いたらファイツは彼と遊びに行く約束をしてしまっていた。二度目の約束だ。

「幼馴染だから、あたしを誘ってくれたのかなあ……」

そう呟いたけれど、ファイツはすぐにその考えを否定した。否定というよりはもっとそれらしい答が浮かんでいるというのがより正しいのだけれど、とにかくこの説は違うのではないかと思った。根拠なんて何にもないけれど、多分ラクツは幼馴染だから自分を誘ったのではないのだと思った。
それでもそんなことはあり得ないと、自分の勘違いでしかないのだと、ファイツは何度も自分自身に言い聞かせた。彼と2人で夜道を歩いている時も、お風呂に入っている時も、まるで呪文を唱えるかのように言い聞かせてみたものだった。だけどやっぱりその考えは消えてくれないどころか、ますます自分の中で大きくなっていく。とうとうファイツは両手でぱっと顔を覆った、もう口にせずにはいられなかった。

「あたし……。ラクツくんに……幼馴染以上に想われてる、の……?」

ラクツはただの幼馴染としてではなく、幼馴染以上に自分のことを見てくれているのではないか。つまりは、自分のことを好きなのではないか……。心の中で言うだけだったその考えをとうとう口に出して、ファイツはぎゅっと目を瞑った。遊びに行こうと誘われる前はあり得ないと思った、実際に彼と出かける当日まではそんなはずはないと言い聞かせた。だけどこうして彼と遊びに出かけて、そして再び誘われたという事実を踏まえると、その説は何とも説得力があるように感じられてしまう。
その考えを前提にして思い返せば、色々と思い当たる節はある。まず、ラクツは今日1日、自分のことを呼び捨てで呼んでいた。一度だって、”ファイツくん”とは呼ばなかった。もちろんファイツはそう呼ばれていることに気付いていた。どうして急に呼び捨てになったんだろうと疑問に思いながら、だけどそれを問うことはしなかった。この考えに至った今だからこそ思い浮かんだ仮説なのだけれど、もしかしたらラクツは呼び捨てにすることで特別に想ってくれているということを遠回しに言っていたのかもしれない。事実、ラクツが他の女の子を呼び捨てにしているところをファイツは耳にしたことがないのだ。それにファイツの手を握ったのも、単純に好きでいてくれているからなのかもしれない……。他にも、色々と心当たりはあった。例えば誕生日のプレゼントに手作りのクッキーを望まれたこととか、例えばわざわざ家まで送ってくれることだとか、例えば可愛いと言ってくれたことだとか。それはもう色々と思い当たる節が、それこそ山のようにざくざくと出て来る……。

(あたしの考えがもし正しかったら、どうすればいいんだろう……)

目を開いて、そう呟く。勘違いならそれでいいのだ。自分がバカな思い違いを、早とちりをしたというだけの話だ。だけどもしこの考えが合っていたら、自分は果たしてどうすればいいのだろう。もし、仮に、万が一、彼に告白されてしまったとしたら。好きだと言われてしまったら、何て答えればいいのだろう。ファイツはそう考えて、ふとホワイトに以前言われた言葉を思い出した。”すごく優しくて笑顔が素敵で数学が出来る男の子にもし告白されたらどうするのか”、確かそんなことを訊かれたような気がする。それに対してファイツは断ると答えたはずだ、”相手がN先生でない以上は絶対にその場で断る”のだと、そう言い切ったはずだ。だけど今となってはどうなのだろうと思う。万が一ラクツに告白されたとして、果たして自分はその場で断れるのだろうか。「他に好きな人がいるからあなたの気持ちには応えられません」と、はっきりと言い切れるのだろうか……。

「…………」

自分がラクツに告白されているところを想像したファイツは、顔から手を離した手を胸に押し当てた。もちろん今はNの写真入りのペンダントは身に着けていない。あの写真入りのペンダントは自分の大切な宝物だ、何しろ好きな人の写真が入っているのだから。

「N先生……」

大好きな人の名を呟いて、ファイツは机の引き出しに目を向ける。あの引き出しには青い石がついたネックレスがしまわれているのだ。誕生日にプレゼントされた物なのだけれど、子供っぽい自分にはとても似合わないような気がして、実は一度も身に着けたことはなかったのだ。

「……ラクツ、くん」

自分にあのネックレスをプレゼントしてくれた男の人の名前を弱々しく呟いて、ファイツは何もない天井を見つめた。本来は真っ白い天井なのだけれど、今は電気を消している為に真っ黒に見えるのだ。頭の中はもうぐちゃぐちゃだった、白黒はっきりしている天井のようにはっきりとした答が浮かんではくれなかった。

(もう、分かんないよ……)

ラクツを想うと、どきどきする。それに胸が締め付けられるように苦しいのだ。自分はNのことを好きなはずなのに、それでもどうしてもそう感じてしまう。もし告白されたらなんて思うと、戸惑うと同時に嬉しいという気持ちになる……。自分にとって唯一無二の人であるはずのNのことを想うとやっぱり胸がどきどきして幸せな気持ちになるのに、だけど同時にラクツのことも気になってしまうのだ。2人共自分にとっては大切な人で、確かに好きであることに変わりはないけれど。だけど2人のことを恋愛対象として見ているのかが、自分には分からなかった。いや、例え分かっていたとしても、2人の男の人をそういう目で見るというのは流石にダメだと思う。いつだったか、ワイもそんなことを言っていたではないか……。
ファイツはもう分からなかった。Nに抱いている気持ちも、そしてラクツに抱いている気持ちも分からないとファイツは思った。自分のことなのに、だけど全然分からなかった。色で例えるならば、多分それは灰色の気持ちなのだろう。いくら考えても答は出そうになくて、再びぎゅっと目を瞑る。はあっと深い溜息をつきながら、ファイツは白か黒か、はっきりとした答が今すぐ出ればいいのにと思った。