school days : 144
物言わぬ唇、物語る瞳
コートを着込んでいても、やはり冬の夜というのは冷え込むものだ。ただでさえ冷えるのに、時折吹きすさぶ風のお陰で余計に寒いとラクツは思った。ファイツだってコートを着ているけれど、見る限りではかなり寒そうにしていた。かたかたと震えている彼女を見るに見かねて自販機で温かい飲み物を買って来ると申し出たのだが、自分の判断は絶対に間違っていないと思う。何しろ、自販機の前で飲み物を選んでいるこの瞬間も段々と風が強くなっているのだから。いくつかのボタンには売り切れと表示が出ているものの、幸いなことにミルクティーはまだ売られていた。良かったとラクツは安堵した。ファイツは「何でもいいよ」と言ってくれたけれど、どうせなら好物を買ってあげたい。自分の飲み物はコーヒーで、あの娘にはミルクティーにしよう。いつも通りと言えばそれまでだけれど、彼女は甘党だからまず間違いなく喜んでくれるはずだ。今なお震えているであろうあの娘をいたずらに待たせるのは嫌だったラクツは、財布から小銭を素早く出して自販機のボタンを押した。ガコンと音がして、自分の分のコーヒーが取り出し口に落ちる。そこからボトルコーヒーを取り出したラクツは自分の犯した間違いに気付いた、急いでいた為に無糖ではなくその隣にあった微糖のコーヒーを買ってしまったのだ。
「……まあ、たまには甘いものもいいか」
別に苦手なだけで、どうしても甘い物が飲めないわけではないのだ。払い戻しなんて出来ないのだし、買ってしまったものはもう仕方ないと諦めたラクツは今しがた買ったボトルコーヒーを左手に持った。今度は間違いなくミルクティーのボタンを押したラクツは、ファイツの元へと戻った。イルミネーションを見ている人々の中に両の二の腕を何度か擦っている彼女の姿を視界に捉えて、先程より更に足早に歩を進める。
「あ、ラクツくん……」
「キミの好物のミルクティーを買って来た。寒いだろう、待たせてすまなかったな」
「待たせただなんて、そんなことないよ……。わざわざありがとう……っ。えっと、いくらだった?」
「代金はいい。大した金額ではないし、温かい物を飲みたくなったボクがキミの分も一緒に買っただけのことなんだ。ほら、冷めないうちに飲むといい」
鞄から財布を取り出しかけたファイツを制して、ラクツは温かいミルクティーを差し出した。”ついで”などでは決してないのだけれど、こうでも言わないとこの場は引き下がってもらえそうにないと思ったのだ。数秒の躊躇いを見せつつも「ありがとう」とはにかんだ彼女に頷いて、微糖コーヒーのボトルキャップを捻る。ミルクティーを飲んだ彼女に倣って飲み口からコーヒーを口内に入れると、途端に甘さが広がった。ボトルには微糖と書かれてはいたが、普段あまり甘い物を口にしない自分にはそれでも充分過ぎる程の甘さだ。間違えたのもこれを飲もうと決めたのもラクツ自身なのだが、それにしても甘い。ラクツは胸中でそう呟いて一気に飲み干す、口に残る甘味に眉間の皺をいつも以上に深く刻んだ。
「……どうしたの?」
「ん?ああ……。甘過ぎると思って……な」
目敏くもこちらの表情の変化に気付いたらしい彼女に、ラクツは苦笑いをしつつも答える。どうして彼女は、こういうことには鋭いのだろうか。基本的に鈍いところも含めてファイツのことを可愛いと思えてしまうのだから不思議だ。これは多分、惚れた弱みというやつなのだろう。
「甘過ぎるって……。ラクツくん、甘いコーヒーを買ったんだ。……珍しいね?」
「本当は無糖の物にするはずだったんだがな、ボタンを押し間違えた」
「ええっ!?」
「何だ、急に。随分と驚いた顔をしているな」
「だ、だって……。ラクツくんが間違えるだなんて、すごく意外なんだもん……っ」
「ボクだって普通の人間なんだ、時には間違えもするさ」
脳裏に浮かぶのは、この娘に対してしでかした数々の所業だ。あの時は本気でそう信じ込んでいたとは言っても、結局自分がこの娘への対応を間違えていたという事実は消せない。だから、今度こそは間違えないようにしなければとラクツは自分自身に言い聞かせた。しげしげと物珍しげにこちらを見つめるファイツに、ラクツもまた視線を向けた。そうしてしばらくの間見つめ合っていたのだけれど、やがてファイツはそろりと視線を逸らした。恥ずかしそうにしているその態度からは、嫌がっている気配はまるで感じられない。果たしてこれはラクツの自惚れなのだろうか、自分に都合のいい解釈をしているだけなのだろうか。
彼女が自分のことをどう想ってくれているのかについて、気にならないと言えば真っ赤な嘘になるけれど。しかしラクツは尋ねないことにしようと決めている、少なくともこの場で訊くのは良くないような気がするのだ。
「……綺麗だな、ファイツ」
ファイツは何も言わなかったけれど、瞳が「あたしに向けられる視線と沈黙が気まずいです」と物語っているように自分には思えて仕方なくて。だからラクツは、彼女から視線を外してそう言った。
「……えっ?」
「だから……イルミネーションが、な。調べたら規模が小さいとは書いてあったが、それでも立派なものだ」
「……う、うん。そうだね……。あたし達以外にも、何人か見に来てるもんね……」
きょろきょろと辺りを見回していたファイツは、正面にあるイルミネーションを不自然な程に見つめて小さく呟いた。確かに彼女の言う通り、カップルらしき男女が周囲に何組もいるのが見受けられる。実にクリスマスイブの夜らしい光景だ。
「せっかくだから、色々と見て回らないか」
「うん……」
色とりどりの光が彩る夜の公園内を、ファイツのペースに合わせてゆっくりと歩く。右隣を歩いているファイツは言葉少なで、ミルクティーの缶を両手にしっかりと包み込むようにしていた。
(……もしかして、まだ寒さを感じているのか?)
彼女のことを心配しつつも、ラクツは特にこれといった行動を起こそうとはしなかった。もちろん正直なところはそうしたい。寒さを感じているというのなら、ファイツの手を握って温めてやりたいとは思う。しかし、既に自分は数時間前にこの娘の手を握っているのだ。プラネタリウムで出会った少女の発言にこれ幸いと好いた娘の手を握ったのは、果たしてどこの誰だっただろうか。結局のところは、ただファイツの手を握りたいだけなのだ。
自分が彼女の手を握った際、ファイツは明らかに戸惑っていた。だけど、こちらの手を振りほどいて拒絶することもしなかった。幼馴染故なのだろうかと思案したその時、何人かの子供達の興奮した声がラクツの鼓膜を震わせた。点滅しているイルミネーションに駆け寄って、綺麗だ綺麗だとはしゃいでいる。
「あの子達、すっごく楽しそうにはしゃいでるね……」
「……そうだな」
あの子供達とは対照的に、静かな声で呟くファイツに同意する。もう遠目にしか見えないけれど、確かに全身から”楽しい”という感情が滲み出ているようだった。
「あの子達を見てると、さっきのチエちゃんを思い出しちゃうな……。おじいさんに会えて、本当に良かった……」
「……ああ」
ファイツの手を握って幾ばくもしないうちに、少女の祖父らしき人間がこちらに駆け寄って来た光景を思い出す。見た限りでは頑固そうな祖父だったが、少女のことを心配していたのだろう。勝手に歩き回るなと叱りつけていたものの、その声は温かさに満ちていた。結局その後、一緒にプラネタリウムを見たいとせがんだ少女の願いに応じて、自分達は本日2回目のプラネタリウムを見ることにしたのだ。少女の祖父はそれは申し訳なさそうにしていたのだけれど、ラクツは「気にしないでください」と言った。時間はある上に1回目はまったく集中して見られなかったのだし、何よりこちらを見つめるファイツのあの目に逆らえるはずもなかったのだ。
「一緒に見てくれてありがとう、ラクツくん。チエちゃんもすっごく喜んでたみたいだったし、あたしも楽しかったよ。1回目は、その……寝ちゃったから……」
「……そうか」
「うん……。それにプラネタリウムを見た後も、あたしの買い物につき合ってくれたし……。あのお店って前からちょっと興味があったんだけど、行ったことはなくて……。このイルミネーションだってすごく綺麗だし……」
「そう思ってくれているなら、ファイツを誘った甲斐があった」
「あ……」
「……ん?」
「あのね、ラクツくん……」
青い光を放っている小さなイルミネーションの前で、足を止めたファイツはそれは小さな声で呟いた。静かな公園内でなければ、聞き取れない程の声量だ。
「ううん……。やっぱり、何でもない……」
沈黙の後で小さく頭を振ったファイツに「そうか」と答えて、ラクツは眼前のイルミネーションを見つめた。青い光がちかちかと点滅している。自分の隣にいる娘の瞳と同じような、深い青色だ。
「……ファイツ」
「……っ。……な、なあに……?」
びくりと身を、そして声を震わせて。こちらを見つめる彼女は口を閉ざしてしまったものの、その瞳は確かに戸惑いの色を映していた。怯えさせたいわけではないし、怖がらせたいわけでもないのだ。もしかしたら首を横に振られるかもしれないと思うと、やはり怖いと感じてしまうけれど。その緊張感から硬い表情になりそうな自分に何度か言い聞かせて、ラクツは微笑んだ。
「また……。ファイツを誘っても、いいか?」
一瞬だけ目を見開いた彼女は相変わらず何も言わなかったけれど、やがて小さくこくんと頷いた。そんなファイツに「ありがとう」と伝えて、ラクツは眼前の青い光を見つめた。