school days : 143
恋の方程式
さっき口にした温かいカフェラテによって喉の渇きは充分に潤されたはずなのに、どういうわけかファイツの口の中は今やすっかり渇いていた。道行く人々に混じって早足で歩きながら、ファイツは少し前を歩く幼馴染の後を小走りに追いかける。歩くのは元々早くない上に、それに加えてぼんやりと考え事をしていたおかげでいつも以上に歩く速度が遅くなってしまったのだ。彼との距離が段々と開いていくことに気が付いたファイツは、慌てて名前を呼んだ。ラクツの背中がこれ以上遠ざかって行くのは、何だかすごく嫌だった。「ラ、ラクツくん……!待って……っ!」
「……ファイツ?」
振り向いた彼と目が合ったのはほんの数秒で、ふと気が付いたファイツはさっと斜め下に視線を逸らした。自分から彼を呼び止めておいてそうするなんて失礼にも程があるとは思うのだけれど、だけどどうしても今のファイツはそうせざるを得なかった。ラクツと目が合うとどうしても緊張して、自分の顔は瞬く間に熱を持ってしまうのだ。前に進めていた足をその場に留めてくれているラクツに近付くにつれて、離れていた彼との距離が自然と縮まって行く。
「きゃあっ!?」
待ってくれているラクツに早く近付こうと焦っていたファイツは、悲鳴を上げて前によろけた。何が何だか分からないが、数秒後に襲いかかるであろう衝撃を想像したファイツは反射的に瞳をぎゅうっと瞑った。
(あ、あれ……?)
確かに衝撃を感じはしたものの、それは思っていたよりずっと小さいものだった。自分の今の状況が知りたくて、ファイツはおそるおそる目を開ける。すると、黒いコートが視界いっぱいに映り込むのが確認出来た。この黒いコートはあまりにも見覚えがあり過ぎる、ラクツがその身にまとっていたコートに間違いない。
(あ、あたし……。ラクツくんにしがみついちゃったの!?)
どうやら転ぶのを恐れるあまり、自分のちょうど一番近くにいた彼に思わずしがみついてしまったらしい。事態をものの一瞬で把握したファイツは、しかしそれでも彼から離れなかった。どくどくどく、と心臓の音が耳に響いてうるさい、胸が苦しい。一刻も早くラクツくんから離れなきゃと自分に言い聞かせながら、だけど同時にファイツはそんなことを思った。自分のことなのに、どうしてあたしの身体は彼から離れてくれないんだろうとも思った。
いつまでそうしていたことだろう、不意に小さな溜息が耳に聞こえた。その小さな溜息の出所は紛れもなく頭上からで、つまりはラクツが発したものなのだろう。金縛りに遭っていたかの如く動かなかったはずの自分の身体は、彼の溜息によって驚く程簡単に動いた。ファイツはようやくラクツから身を離したものの、視線を上げることはせずに足元をひたすら見つめた。気まず過ぎて、どうしてもすぐには彼の顔が見られなかったのだ。
(あ、ほどけてる……)
どうして急に前によろめいたのか、今となっては正直大したことではない疑問は即座に氷解した。情けないことに、いつの間にかほどけていたショートブーツの靴紐を踏んでしまったことがどうやらよろけた原因らしい。
「……ファイツ、大丈夫か?」
相変わらず穏やかな、ラクツの落ち着いた声が耳に聞こえる。本当に落ち着いている彼とは対照的に、ファイツはとても心穏やかではいられなかった。
「う、うん……。大丈夫……」
そう答えてから、ファイツはようやく顔を斜め上へと上げた。そして弱々しく、「ごめんなさい」と謝った。しがみついてしまったこととすぐに離れなかったこと、その両方の意味での”ごめんなさい”だ。
「気にするな。それより、靴紐がほどけているぞ」
「うん。今、結んじゃうね……」
「手が塞がっていると結び辛いだろう。その間、ファイツの鞄はボクが持っておくから」
ありがたいことを申し出てくれた彼にお礼を言って、ファイツはのろのろと端の方へ移動した。今から思えば、自分達は道のど真ん中で派手に立ち往生していたことになる。いや、それは全面的に自分が悪いのだ。どう考えても、ほどけた靴紐を踏んだ自分が悪いに決まっている。彼には申し訳ないけれど、人の往来が少ないところで思い切りしがみついたのは不幸中の幸いだった。流石に道行く人々の注目をある程度は集めてしまっただろうが、それでも幾分ましな方ではあっただろう。もしこれが学校の廊下で何てことになったらと思うと、ファイツはそれだけでぞっとする気持ちになる。
(ああもう……っ。あたしったら、何やってるんだろう……)
確かに彼に追いつこうとして焦っていたのは事実なのだけれど、それにしてもあのタイミングで靴紐を踏んでしまうのは考えられるタイミングとしては最悪だったと思う。反射的にしがみついておいて何だが、あれならまだ盛大に転んでしまった方が良かったような気がする。少なくとも彼の迷惑にはならなかったに違いないのだ。はあっと溜息をついたファイツは、ほどけていた方の靴の紐をこれでもかと言う程しっかり結び直した。ついでにもう片方の靴紐も同じくきっちりと結ばれていることを確認してから、やっとのことで立ち上がる。そして自分を待ってくれている彼の元へとファイツは歩いた。恥ずかしい上にやっぱり気まずい、どうしたって気まずい。その重苦しい程の気まずさから、彼の横にある空間を見つめながら話しかける。
「待たせてごめんね、ラクツくん……」
「いや、ボクの方こそ早く歩き過ぎたな。もう少しゆっくり歩くことにしよう」
手渡された鞄をありがとうと受け取って、ファイツは彼の言葉を心の中で繰り返した。ゆっくりと歩くだなんて、何だかものすごく彼に気を遣われているような気がする……。ありがたいのだけれど、流石に申し訳なさ過ぎるとファイツは思った。
「そ、そこまで気を遣わなくてもいいよ……?ラクツくんのペースで普通に歩いても、あたしは大丈夫だから。ほら、あたしの歩く速さが遅いだけなんだし!」
「そういうわけにはいかないな。それでまたファイツがよろめいて、今度は転ぶ羽目になったらどうする」
「え……。えっと……」
思い切って口にした自分の反論は、ものの一瞬で封殺されることとなった。そんなことはない、と自信を持って言い切れないのが何だか悲しい。
「一応付け加えておく。あくまでボクがそうしたいからの話であって、別に無理に気遣っているわけじゃない。それとも、ボクにそうされるのは迷惑か?」
「う、ううん!そんなことないよ、迷惑だなんて……!」
ファイツは思い切り首を横に振った。迷惑だ、なんてとんでもない。今度は自信を持ってそう言い切れる、何しろ心からそう思っているのだから。
「じゃあ遠慮なく、好きなようにさせてもらう。ファイツが気に病む必要もない」
「は、はい……」
笑みを湛えた彼に頷いて、今度は彼の隣でゆっくりと歩き出したファイツは”やっぱりラクツくんは優しい”と思った。だけど、その優しさは彼の負担になっているのではないか。自分が危なっかしいから、仕方なく彼はそうしているのではないか……。そんな考えが浮かんでは消えない、消えてくれない。
(ラクツくんはあたしのことを”素直だ”って言ったけど、絶対そんなことないと思う……)
もし本当にそうだったら、そもそもこんなことを思うはずがない。それでもファイツはわざわざ口には出さなかった。そんなことを言ったらきっと、”卑下するな”と言われてしまうような気がするからだ。こんな可愛げのない考えを抱いた自分自身に呆れ果てながら、だけどそれを何とか表に出さないようにファイツは歩いた。
「……ところで、ファイツ。これからどうする?」
「あ……。そうだよね、イルミネーションを見に行くにはまだ早いよね……?今は1時を回ったところだし……」
どうしようと首を捻ったファイツの耳に、小さな泣き声が飛び込んで来た。その方向へ顔を向けると、小さな女の子が階段に座り込んでしゃくり上げているのが目に入る。足を止めた自分のすぐ横を何人かの人々が通り過ぎていったが、目線をちらちらとその女の子に向けるだけで誰も駆け寄ろうとはしなかった。考える間もなく、ファイツはその子の方へ小走りで向かった。気が付いたら、身体が勝手に動いていたのだ。目線を合わせるように自分もしゃがんで、泣いている子に向かって口を開いた。
「どうしたの、大丈夫?」
「ひっく……。お、おねえちゃんは……?」
泣いてはいるものの、可愛らしい女の子だとファイツは思った。不安そうにこちらを見る目はくりくりと丸く、ふっくらとした両頬は仄かにピンク色に染まっている。その女の子を安心させるようににっこりと笑いかけて、ファイツは自分の名前を名乗った。
「ファイツ、おねえちゃん……?」
「うん。あなたのお名前は?」
「うう……。チエ……」
「チエちゃんね。どうしてチエちゃんは泣いてるのかな。良かったらお姉ちゃんに聞かせてくれる?」
「ガ、ガンテツおじいちゃんと来てたんだけど……。ま、迷子になっちゃったの……。わたしが言うことを聞かないで、勝手に歩いちゃったから……」
チエの話を総合すると、どうやら一緒に来ていた祖父と逸れてしまったらしい。「怒って帰っちゃったらどうしよう」と不安そうにしゃくり上げる女の子の頭をあやすように撫でたファイツは、その子の隣に腰かけた。そして、笑顔で「大丈夫だよ」と告げる。迷子であるなら係員の人の元へ連れて行って事情を説明するのが賢明なのだろうが、泣いているこの子をこのまま放っておくなんてどうしても出来なかったのだ。
「そのおじいちゃんも、きっとチエちゃんのことを一生懸命捜してるよ」
「ほ、ほんとかなあ……。怒ってないかなあ……」
「ね、どんなおじいちゃんなの?」
「えっとね。怒るとすっごく怖いけど……。でも、怒った後はわたしのことをいつも撫でてくれるの……」
「そっか……。厳しいけど、優しいおじいちゃんなんだね」
「うん!」
勢いよく頷いたその子の瞳からは涙が零れ落ちているものの、口元は確かに上がっていた。さっきだって可愛らしい子だと思ったけれど、やっぱり笑った顔の方がずっと可愛い。元々子供が好きなファイツは、目をとろんとさせてチエのことを見つめた。
「いつもね、パパとママの代わりにわたしを幼稚園に送ってってくれるのよ!」
「うんうん。チエちゃんは、おじいちゃんのことが大好きなんだね。幼稚園に通ってるの?」
「うん!わたし、幼稚園大好き!」
いつの間にか、チエの瞳から流れていた涙は止まっていた。どうやら自分と話したことで、少しは落ち着いてくれたらしい。あたしもよく迷子になったっけ、とファイツが小さかった頃を思い出して1人懐かしんでいたその時だった。隣でしゃがんでいたチエは、不思議そうに首を傾げて不意にある一点を指差した。
「ね、あのおにいちゃんは?わたし達のこと、さっきから見てるよ?」
「え?……あ、ラクツくんのこと?」
彼を置きざりにしてしまったことを、ファイツはやっと思い出した。ラクツは自分達から少し離れたところで腕組みをして柱に寄りかかっていた。彼の顔はあまり長い間見つめていられそうになかったから、黒いコートに視線を固定する。途端にさっきの記憶が蘇って、ファイツはふるふると首を小さく振った。幸いなことに、この小さな女の子には気付かれなかったようだけれど。
「ラクツ、おにいちゃん……?」
「う、うん。ラクツくんはね、あたしの……」
いつものように幼馴染と言いかけて、ファイツはふと口ごもった。幼稚園に通うような小さな女の子では、そもそも”幼馴染”という言葉を理解出来ないのではないか。ラクツならどうか分からないが、少なくとも自分はそうだった。
「あー!もしかして、”ふうふ”なの!?」
「えっ!?チ、チエちゃん!?」
少しだけ悩んで、結局は”あたしのお友達なの”と言おうとしたファイツは、チエの言葉に面食らった。思わず目線がラクツの顔に向いてしまい、おまけに彼が目を柔らかく細めたものだから、ファイツの顔は見る見るうちに熱を持つことになってしまった。さらに悪いことに、今度はチエに気付かれてしまったらしい。小さな女の子に顔が赤くなっていると指摘されて、ファイツはますます困り果ててしまった。
「おにいちゃん、ラクツおにいちゃん!」
にこにこと笑っているチエは、しきりにラクツの名前を呼んでぶんぶんと手を振っている。ラクツが彼女の声に応えて、柱から身体を離してこちらに近付くのが自分の目にはやけにゆっくりと見えた。さっきチエに言われてしまったことも手伝って、ファイツはいつも以上に小さな声で彼に話しかける。
「ラ、ラクツくん……。ごめんね、急に……。どうしても、この子を放っておけなくて……」
「気にするな、ファイツ。どの道時間は充分にあるんだ。ボクが係員に事情を説明するから、ファイツはその子の傍にいてやってくれ」
「うん、分かった……」
「ファイツおねえちゃん、ラクツおにいちゃんはどこかに行っちゃうの?」
「大丈夫よ、ラクツくんはすぐに戻って来るから」
「……ラクツおにいちゃん」
「……ん?」
背中を向けたラクツを、チエの小さな声が呼び止める。振り返ったラクツはチエが手招きをしているのを見て、自分と同じように身を屈めて目線を合わせた。何だと尋ねる彼の声も、いつもより優しいような気がする。それは、きっとあたしの思い違いではないんだろうな。ファイツはぼうっとなった頭でそう思った。
「ラクツおにいちゃんはファイツおねえちゃんの”だんなさん”なのに、”おくさん”をひとりぼっちにしちゃうの?」
「チ、チエちゃん……っ!あの、それは……っ」
「違うの?だって、おにいちゃんとおねえちゃんってすっごく仲良しなんでしょう?それって、”ふうふ”なんじゃないの?」
「えっと、あの……っ!」
子供らしい純粋な疑問をぶつけられて、ファイツはまたもや口ごもった。どうやらこの子の頭の中では、仲のいい男女=夫婦という方程式が成り立っているらしい。もちろんその事実は間違っている、自分達は夫婦どころか恋人ですらないのだ。だけど違うとはっきり否定するのもそれはそれでチエの夢を壊すようで、何となく気が引けてしまう。
「ふうふなら、一緒にいなきゃダメだよ!」
「で、でも……。チエちゃんは迷子なんでしょう?おじいちゃんを捜さなきゃ……」
「迷子になったら、勝手に動いちゃダメだっておじいちゃんに言われてるの。それを思い出したから、だからわたし……ここでおじいちゃんを待ってる!」
だからおにいちゃんとおねえちゃんもここにいて。そう言ったこの子にくりくりとした瞳でじっと見つめられて、ファイツは思わずうんと頷いてしまった。
「やったあ!ねえ、おにいちゃんとおねえちゃんは手を繋がないの?」
「え……ええ!?」
頷いた途端に嬉しそうにはしゃぎ出したチエにとんでもないことを言われてしまい、ファイツは狼狽えた。小さな女の子の言うことなのだからさらりと流せばいい。そう頭では思うのだが、どうしてもそれが出来ない。
(ラ、ラクツくんも……。きっと困ってるよね……)
どうしたものかと、助けを求めるようにラクツの顔を仰ぎ見る。屈んだ状態のままで何も言わなかったラクツは、無言のままで腰を浮かした。適当にはぐらかして、そのままどこかに歩いてしまうのだろうというファイツの予想はものの見事に裏切られた。あっという間に自分のすぐ隣に腰を落ち着けたラクツは、突如として自分の手を握ったのだ。
「あ……っ!」
「わーい!やっぱりおにいちゃんとおねえちゃんは”ふうふ”で、ラブラブなんだ!」
「えええっ!?」
ファイツはチエとラクツの顔を交互に見比べたが、チエはにこにこと笑っているばかりだった。ラクツもラクツで、笑みを浮かべたまま何も言わない。もちろん自分の片手は彼のそれに握られたままだ。
(ど、どうしよう……。どうしよう……っ!)
彼と手を繋ぐのはこれが初めてではないのだけれど、ファイツはどうしようと心の中で叫んだ。ファイツの戸惑いとどきどきという胸の高鳴りは、数分後にやって来た1人の老人が自分達と一緒にいるこの子の名前を叫ぶまで続いた。