school days : 140

andante
心底惚れている相手をデートに誘うとなれば、例えどんな男であろうと緊張するだろう。その例に漏れず、ラクツもファイツをデートに誘った際には非常に緊張したものだった。しかし今自分が抱いている緊張感は、正直あの時以上だと思う。何しろ自分のすぐ隣にファイツがいて、更には自分の肩にもたれかかってすうすうと寝息を立てているのだから。どうでもいい相手ならいざ知らず、心から好いている相手にそうされているとなれば自然と心臓の鼓動が高まってしまう。その鼓動が彼女に聞こえてしまうのではないかと、ラクツは気が気でならなかった。

「……ファイツ」

いつまでもこの状況のままでいるのは彼女にも、そして自分の為にもいいとは言えない。そんなわけでラクツは声を潜めて彼女の名を呼んだものの、ファイツが目を覚ますことはなかった。肩を軽く叩いてもみたが、それでも彼女の様子は変わらない。相変わらず寝息を立てて、それは気持ちよさそうに眠ってしまっている。もう少し大きな声を出すなり強く肩を揺さぶるなりすれば、流石に気付いてくれるだろうとは思う。こうしている間にも時間は確実に進んでいて、ファイツのことを思えば起こすのが正解であるのは明らかなのだが、ここまで熟睡しているこの娘を起こすのもそれはそれで悪いような気がする……。

(……仕方ないな)

少し逡巡したものの結局はこの娘を無理に起こさないことに決めて、ラクツは姿勢を正して顔を上に向けた。そこにはまだ昼間だというのに満点の星が瞬いている。そう、自分達が今いる場所はプラネタリウムなのだ。ファイツをデートに誘ったはいいが、肝心の行き先はその場ではすぐに決めなかった。デートの行き先とはいえあの場で何かしらの決断を迫るというのは、彼女を急かすようで嫌だった。だから彼女の気持ちが充分に落ち着いた頃合いを見計らって、デートの日時と行き先をどこにするかということを後日電話で尋ねたのだ。
「どこか行きたいところはあるか」と訊いた途端に携帯の向こう側で不自然に黙り込んでしまった彼女の態度に少しだけ苦笑しつつも、それならばとラクツは前々から考えていたいくつかの候補を告げた。ファイツは申し訳なさそうに「ごめんね」と謝罪をしたけれど、元々誘ったのはこちらの方なのだしラクツは気にもしなかった。デートの定番の映画館に水族館、動物園に遊園地。プラネタリウムを挙げたのは一番最後だったが、ファイツは控えめながらもはっきりとした声で『プラネタリウムがいい』と言ってくれた。やはり、ファイツは今も星が好きであるのは変わらないらしい。もちろん自分もそうだが、今日のデートでは何よりファイツに楽しんでもらいたいと考えていたラクツは、彼女の反応にこれならばと期待したものだった。
やはり今日の日付けが理由なのだろう、館内にはカップルらしき男女の2人組がやけに多いような気がする。互いの予定を照らし合わせた結果、何の因果かクリスマスイブにデートをすることになったのは自分だって驚いた。この偶然は果たして吉と出るか凶と出るのか、それは分からないけれど。だけどどうせなら、ファイツと2人でイルミネーションを見たいとラクツは思っていた。このプラネタリウムからそう遠くないところにイルミネーションがあることは既に調査済みだ。知り合いに見られて学校で噂になるのは避けたい自分としては、最寄り駅から離れた場所にイルミネーションがあるという事実は僥倖でしかない。そこはきっとカップルで賑わっているだろうが、知り合いにさえ目撃されなければそれでいい。とにかくラクツは、彼女との思い出を作りたかった。

(ファイツは、果たして頷いてくれるだろうか……?)

内心大いに浮足立ちながら日々を過ごしてやっと今日を迎えたラクツは、ファイツを伴って電車を乗り継いでこの場所までやって来たのだけれど、暗くなって幾ばくも経たないうちに、彼女はこともあろうにすうすうと寝息を立てて眠ってしまったのだ。確かに電車内での彼女はやけに眠そうにしていたとは思ったが、まさか始まってすぐに眠るとは思わなかった。今現在解説委員が星座について詳しく説明しているのだが、その内容はまるで頭に入って来なかった。自分の隣で見事に寝入っているファイツのことが気になって気になって、もう仕方がない……。それでもせっかくプラネタリウムに来たのだからと、しばらくは天井を何とか見上げていたラクツだったが、”プラネタリウムより惚れた女を見ていたい”という気持ちが段々と強まっていくのを感じざるを得なかった。

「…………」

そしてとうとうその気持ちに抗えなくなったラクツは、顔を少しだけ横に向けた。別に不埒な真似をするわけでもないのだ。ファイツだって眠っているのだし、単に見つめるだけならいいだろうと自分に言い聞かせながら。

(本当に……。可愛い、な)

暗闇の中で、ファイツの姿が星に照らされて朧気に浮かび上がる。今までにだって数え切れないくらいそう思って来たが、今日のこの娘はいつにも増して可愛いと思う。そう感じてしまうのは彼女の格好の所為か、はたまたこの場の状況がそうさせるのかは分からないが、とにかく自分の目には今日のファイツはとてつもなく可愛い娘としか映らないのだ。薄い桃色のコートを身にまとったファイツを目の当たりにした時、その可愛さにラクツの呼吸は一瞬止まった。いつかの浴衣姿と比べても甲乙つけ難い程の可愛さに、紛れもなく見惚れたのだ。気が付いたらラクツは「可愛い」と口にしていた。雰囲気作りの為に褒めたのではなく、心からの言葉だった。そしてファイツの反応は、こちらの顔を見ずに「ありがとう」と恥ずかしそうに言うというものだった。その態度に普段以上に彼女のことを強く意識してしまい、ラクツはここに来るまでまともに会話をしていなかった。電車内でのファイツも同じくいつも以上に物静かだったわけだけれど、それは単に眠そうだったからではないと思いたい……。
初めてのなりゆきでないファイツとのデートで今の自分が緊張しているのは事実だが、流石に会話らしい会話もないままデートを終えるわけにはいかない。彼女だって多大なる気まずさを覚えていることだろう。だからこの後の食事で少しずつ話をして、まずは彼女と自分の緊張を解そうとラクツは考えていた。このデートを皮切りにして、ファイツに自分のことを幼馴染ではなく男として見てもらいたい。もし少しでもそう想ってくれているのなら、もっと意識をして欲しい。そう思っているのは確かなのだが、何よりもファイツに今日のデートを楽しんでもらいたいという気持ちもまた事実なのだ。

(だが、それにしてもよく寝ているな……)

見る限り具合が悪いというわけでもなさそうだし、触れている箇所から伝わる体温も別段高くは感じられなかった。退屈しているのではないかとも考えたが、その考えが合っているとは流石に思いたくない。多分、ファイツはかなりの寝不足だったのだろうとラクツは勝手に推測した。依然として自分にもたれかかっている彼女は一向に目を覚ます気配がない。こちらの心音が彼女に聞こえるのではないかという自分の心配は、どうやら杞憂に終わりそうだ。それはもう見事なまでに寝入っているファイツを改めて一瞥して、ラクツは内心で苦笑した。
自分のすぐ近くにファイツがいる。手を伸ばせばその手に触れることも、あまつさえキスをすることも容易い程の近距離に、心の底から惚れている娘がいる。自分だって健全な男なのだ、そのような欲望を抱くのは男として至極当然だし、むしろそうならない方がおかしいとすら思っているくらいなのだ。もちろん決して実行に移す気はないが、それにしても今の彼女は危なっかしい。本当に、無防備にも程があるだろうとラクツは思った。おそらくは眠気を我慢出来なかったのだろうが、ファイツは仮にも男である自分にもたれかかって眠っているのだ。”彼はそういうことをする人ではない”のだと、多少なりとも信頼している証故の行動なのだろうか。

「……複雑だな」

それは喜ぶべきことではあるかもしれないが、自分としてはやはり男として見られたいのだ。思わず複雑だと小声で呟いたちょうどその時、暗かった周囲が不意に明るくなった。次第に人々が席を立って移動していく、どうやら今回の上映は終わったらしい。結局は自分もプラネタリウムよりファイツを見ているだけだったなと思いながら、ラクツは軽く身動ぎした。いつまでも座っている自分達は目立つのか、何人かの視線を感じたものの、ラクツは歯牙にもかけなかった。そんなことはどうでもいい、上映が終わった以上は彼女を起こさなければならないのだ。

「ファイツ、起きてくれ」

以前までは彼女と2人きりでいる時でも基本的に敬称をつけていたのだけれど、もうラクツはそうする気はなかった。自分が呼び捨てで呼ぶ異性はこの娘だけなのだ。ただ名前を呼ぶという小さな行為とは言っても、ファイツ本人に”特別に想っている”というこちらの気持ちがそれとなく伝わるかもしれない。この鈍感な彼女相手ではそれすらも伝わるかどうか分からないのだけれど、それは元より承知の上だ。ファイツが好きで、どうしようもなく好きで、だからこそ今より距離を縮めたいとは思う。それは言うまでもなく自分の本心だ、どうあっても自分の中でごまかしようがない感情だ。しかしだからと言って、急激に距離を詰めるのは良くないような気がする。相変わらずうるさい自分の心臓の鼓動とは真逆のペースで彼女との距離を詰めるべきだと、自分の直感が言っていた。急いては事を仕損じるとは言うが、それとは関係なくそうするべきだと根拠もなく思った。

(長期戦になるかもしれないが……。望むところ、だな)

元々気は長い方ではあるし、それがファイツに関係することなら苦でも何でもない。呼びかけに応じない彼女の肩を少しだけ強く叩くと、今まで閉じていたファイツの目がようやく開かれた。未だに眠いのか、彼女は目を擦りながら身体をゆっくりと元の体勢へと戻した。ぼんやりとした不思議そうな表情で、自分達以外には誰もいなくなった周囲をきょろきょろと見回している。どうやらファイツはまだ夢の中にいるらしい。彼女の体温が自分の身体で感じ取れなくなったことを名残り惜しく思いながら、ラクツは好きな娘に向かって「おはよう」と優しい声で言った。