school days : 137
将来の夢
教室内にチャイムの音が響き渡る、今日の授業が終わった証だ。予備校での授業を今日も滞りなく終えたクリスタルは、周囲の人間が帰り支度をしている中で黒板に書かれたこととノートの内容を念入りに見比べた。自分が書き間違えをしていないかを、そして今日の授業で分からないことはなかったかをもう一度しっかりと確認しているのだ。パラパラとノートを捲っていたクリスタルは、あるページでぴたりとその手を止めた。ノートの中段辺りに書いた事柄を見つめて、そういえばこの計算式が一度聞いただけじゃよく分からなかったのよねと声に出さずに呟く。そうと決まれば質問するしかないと、クリスタルはノートを手に持って席を立った。騒がしかったはずの教室はしんと静まり返っていて、ここにいるのは自分と予備校の先生であるマツバだけになっていることに今更ながら気が付いた。「すみません、マツバ先生。分からないところがあるんですけど……」
「キミはいつも熱心だな。で、勤勉なキミでも分からない箇所というのはいったいどこのことなんだい?」
「そんな、勤勉だなんて……」
クリスタルはよく人からそう言われるのだけれど、自分で自分をそう思ったことはない。ただ、分からないところをそのままにしておくのが嫌なだけなのだ。そう主張したもののくすくすと笑いながら「謙虚だな」と返されてしまい、眉根を寄せながらそうでしょうかと問い返す。
「正直、このクラスの中ではキミが一番勤勉な生徒だと思うがな。分からない箇所をこうして積極的に尋ねに来るのだから。成績もいいのにそれでいて鼻にかけないんだ、これが勤勉で謙虚以外の何だって言うんだい?」
「も、もうその辺りで止めてください!そ……それで、ここなんですけど……」
むず痒くなったクリスタルは、本題に入るべくノートに指を思い切り突き付けて話を逸らした。面と向かって褒められるのは恥ずかしいし、何よりいつも予備校から一緒に帰る2人を長い間待たせたくなかった。
「なるほど、そういうことですか……」
「この説明で理解出来たかな?望みとあらば、もう一度説明するが」
「いえ、おかげで理解出来ました。いつもありがとうございます、マツバ先生」
丁寧に説明をしてくれたマツバにお礼と挨拶をして、帰り支度を済ませたクリスタルはようやく教室を出た。水色の腕時計をちらりと見て、はあっと溜息をつく。要点だけ尋ねてすぐに教室を出るつもりが、思った以上に長居してしまった。
(怒ってるかな、ホワイトちゃんとベルちゃん……)
夜遅い時間に女1人で帰るのは危ないということで、クリスタルは同じ予備校に通っているホワイトとベルといつも一緒に帰っているのだ。こうして自分の帰りが遅くなるということは即ち、ホワイトとベルの帰りまで遅くなってしまうことになるわけで。先生に尋ねることであの2人を待たせる羽目になってしまうのはどうしたって心苦しく思うのだけれど、それでも疑問点をそのままにしておくのはどうしても嫌だった。階段を出来る限りの早歩きで駆け下りると、予備校の入口の前で2人の女の子がお喋りをしているのが目に入る。遠目からでも分かる、あの女の子達はホワイトとベルだ。
「ホワイトちゃん、ベルちゃん!」
「あ、クリスちゃん!」
息せききって名前を呼ぶと、リュックを背負ったベルがくるりと振り向いて笑顔を見せた。隣にいるホワイトも手を振って笑っている。2人のすぐ傍まで駆け寄ったクリスタルは、両手を合わせて頭を下げた。毎度のことながら、人を待たせるというのはやっぱり申し訳なく感じてしまう。
「いつもごめんね、こんなに待たせちゃって……!」
「いいのいいの!アタシ達は好きで待ってるんだし、もうすぐ受験なんだもの。アタシ達もクリスちゃんを見習わなくちゃって話してたところだったのよ?それにこうしてベルちゃんとお喋りしてるのも楽しいし、そんなに謝らないでね!」
「そうだよ、だからそんなに気にしないで!ほら、あたしの家って門限が厳しいのは知ってるでしょう?こういう時じゃないと夜遅くに帰るのも怒られるくらいだし、だからクリスちゃんには感謝してるんだよ?こうして皆と話せるのってすっごく楽しいもん!」
「え、ベルちゃんの家ってそんなに厳しいの?」
「あれ、話したことなかったっけ。あたしのパパがちょっと過保護でね、本当は車で送り迎えをするからって言われたんだけど、あたしが説得したの。……ほらほら、3人揃ったことだしさ、家に帰ろう?」
ベルの言葉に頷いて、クリスタルは3人の中で一番最後に予備校を出た。その途端に寒さが身体を襲う、厚着はしているのだけれどやっぱり冬の夜というのは寒いものだ。思わずぶるりと身震いして、両手を数回擦り合わせた。自分と同じように身体を震わせて歩いていたベルが、震え声でぽつりと呟いた。
「う~……。今日ってやっぱりいつもより寒いよねえ……。こういう時って早く春になって欲しいって思わない?」
「うんうん、春どころかいっそ夏になって欲しいって思う!でもいざ夏になると、今度は早く冬になって欲しいって思うのよね!クリスちゃんはどう?」
「ふふ、私も一緒!やっぱり冬は苦手だわ、早く春にならないかしら!」
相変わらず冷え込むのは変わらないが、それでもこうして友達と話していると寒さが和らぐような気がするから不思議だ。3人横並びで取り留めのない話をしながら歩いていると、ベルが「早く受験が終わって欲しいよ」としみじみと言いながら両手を空に高く上げた。
「……ねえ。クリスちゃんって、将来は海外に行って貧しい人達の支援をするのが夢なんだよね?」
「うん……。例えば塾の先生とか学校の先生とか、子供と触れ合える仕事にも興味があったんだけどね。色々考えたけど、海外でそういう仕事に関われたらいいなって思ってるの」
両手を上げたままのポーズでそう尋ねたベルに、クリスタルはしっかりと頷いて返した。既に母親には自分の夢を告げていて理解も得ている。「頑張るぴょん」と言いながら背中をばしばしと叩かれたのは記憶に新しい、あれはそれなりに痛かった。
「そっかあ……。ホワイトちゃんは芸能事務所の社長さんになるのが夢だし、クリスちゃんにも夢があるんだよねえ……。この中で将来の夢がないのって、あたしだけなんだね……。大学に行くのだってパパに言われたからだしさあ、やりたいことがあるっていいよねえ……」
「そんな……!ベルちゃん、そんなに落ち込まないで!」
伸ばしていた手をだらりと下げてはあっと溜息をついた友達に、クリスタルとホワイトは揃って声をかけた。別に今決めなくてもいいし、これから見つければ何の問題もないことを告げると、ベルは眉根を寄せながら「そうかなあ」と言葉を漏らした。
「そうよ!ベルちゃんは自分のペースでゆっくりと将来の夢を見つければいいのよ、焦ることなんかないわ!」
「自分のペースで、かあ……」
横断歩道の近くに備えつけられている歩行者用のボタンを押して、信号が青に変わるのを待っている間、ベルはうんうんと頷いていた。やがて大きく息を吐いたベルの顔は、既にいつもの表情に戻っていた。ベルはのんびりしているのだけれど、その実中々に切り替えが早いのだ。
「実を言うとね、あたし……ちょっと焦ってたんだ。幼馴染のチェレンもブラックも、それにホワイトちゃんとクリスちゃんも夢を持ってるでしょう?だからどうしようって思ってたんだけど、自分のペースで前に進んで行けばいいんだよね!……ありがとうね、2人共!あたし、頑張って将来の夢を見つけるよ!」
「その意気よ、ベルちゃん!」
奮起しているベルに笑いかけたホワイトは、だけど表情を曇らせてはあっと溜息をついた。どうやら、彼女にも何か悩み事があるらしい。どうしたのとクリスタルが訊く前にベルがその言葉を発していた。
「……あ、ごめんね急に。実は、ファイツちゃんが最近元気がないみたいで……。話しかけても何だかぼーっとしてるし、どこか上の空だし……。期末テストが終わった頃辺りからかしら、何だか様子がおかしいのよ……」
「あ、ファイツちゃんのことで悩んでたんだ。期末テストが終わって気が抜けちゃったとか?ほら、燃え尽き症候群ってやつ。あたしもよくそうなるよ?」
「ファイツちゃんってすっごく真面目な子みたいだし、その可能性はあり得るわね……。あんまり長い間悩んでるようなら、それとなく尋ねてみたら?」
「うん。そうしようかしら……」
信号の色が変わったことに気付いて、3人同時に足を踏み出す。まだ彼女のことが気になるのか、どこか元気のないホワイトに、すっかりいつもの調子に戻ったベルが明るく話しかけた。
「ホワイトちゃんって、本当にファイツちゃんのこと好きだよねえ。まるで本当の姉妹みたい!」
「あ。それ、私も同じことを思ったわ。従妹だって聞いたけど、ホワイトちゃんの話を聞いてると姉妹にしか思えないもの。それに、2人の仲がすごくいいのが分かるわ!」
「うんうん!……いいなあ、あたしもそんな妹が欲しいよ!」
冗談めかしてそう言ったベルに、ホワイトが慌てた様子で「ダメ!」と返す。2人のやり取りが面白くて、そして何より友達とお喋りが出来るこの時間が楽しくて、だからクリスタルはくすりと微笑んだ。