school days : 136

これはきっと恋じゃない
その言葉を初めて知ったのは、いったい自分が何歳の頃だっただろうか。学校までの道をいつも通りに歩きながら、ファイツはふとそう思った。はっきりとは思い出せないけれど、幼稚園に通っていた頃は周りの皆が時折その言葉を口にしていたことは何となく憶えている。皆がそう言っているから、だから自分も皆の真似をしてみようと、つまりはその言葉を幼稚園に通っていた誰かに言おうと思ったことはある。だけど当時の自分は何かと避けられがちで、結局は心の中でその言葉を繰り返すだけだった。あの頃は今以上に引っ込み思案な性格をしていたから、自分から誰かに話しかけることはほとんどなかったのだ。
確かな淋しさを覚えながらも、自分ではどうすることも出来ずに1人でいたファイツに、ある日ようやく友達が出来た。自分にとって産まれて初めての、同い歳の男の子の友達だ。目付きはあまり良くないけれど、その男の子は優しかった。いつも1人でいた自分の傍にいてくれるし、一緒に遊んでくれた。幼稚園で孤独だったファイツはそのことが嬉しかったし、何よりその男の子に対して自然とそう思えたから。皆の真似をするのではなく、心からの気持ちを込めて、ファイツはその男の子に『だいすき』だと告げたのだ。意識はしていないものの、家族以外にそう言うのはファイツにとって初めてだった。

(懐かしいなあ……)

幼稚園での懐かしい思い出が頭に蘇って、ファイツは口元を綻ばせながら冬の寒空の下をゆっくりと歩く。本当はもう少し速く歩けるのだけれど、今日はゆっくりと歩きたい気分だった。元々歩く速度が遅い上に今日は殊更ゆっくりと歩いているので、小さな子供達に簡単に追い抜かされることになり、ファイツは再び笑みを浮かべた。どこかの幼稚園に通っているのか、特徴的な制服に身を包んだ可愛い男の子と女の子だった。母親らしき大人に見守られて元気に歩くその男の子と女の子は、仲良く手を繋いでいた。

「…………」

その子供達の姿がふと幼稚園に通っていた頃の自分達に重なって見えて、ファイツは思わず足を止めた。そのまま数秒立ち尽くしてから、また再びゆっくりと歩き出す。心の中で懐かしいなと呟いた、あの頃は自分達も事ある毎に手を繋いで色々なところを歩いていた。確か彼と繋いでいたのは、いつも左手だったような気がする……。無意識に左手を見て、そしてそのままその手を胸元に添えた。いつも身に着けているペンダントに服の上から触れる、大好きな人の写真が入っている自分の宝物だ。
あの人を一目見た時から今までに感じたことのない衝撃を受けた、だけどこれが何なのか1人で考えても分からなかった。従姉に相談したファイツは、ようやくこれが”恋”なのだと知った。今までに誰かに感じた”好き”という気持ちが色褪せて思えるくらい、あの人に夢中になった。あの人にもっと近付きたい、そしてあの人にもっと自分を見て欲しい。そう思ったからファイツは勉強を頑張ったのだ。あの人が受け持つクラスの一員になる為に、幼馴染に勉強を教わってまで。そしてその夢は、あと一歩で叶うところまで来ている。今日行われる期末テストでいい点数が出せれば、自分がずっと思い浮かべていた夢が叶うのだ。
ゆっくりと歩くファイツのすぐ横を、今度は自分と同じ制服を着た人達が追い越していく。もうすぐ学校に着く、そして自分にとっては命運がかかったと言ってもいいテストがもうすぐ始まるのだ。そう思うとファイツの心臓は自然にどきどきと高鳴った。だけどその胸の高鳴りはテストに対することへの緊張や興奮ではなく、”別の何か”によってもたらされたものだった。

「…………」

数ヶ月間自分の勉強を見てくれた彼に改めてお礼がしたい、以前からそうファイツは思っていた。彼と彼の家族の為の料理は今も作っていたけれど、それだけでは感謝の気持ちがちゃんと伝わらないような気がした。彼の誕生日を忘れていたという罪悪感も手伝って、だからファイツは何か欲しいものはないかと尋ねたのだ。もしかしたらまた手作りのクッキーを望まれるかもしれないと、最初こそラクツの答をそわそわと待っていたが、彼は何も言わなかった。何か気に障ることでも言ってしまったのかと不安になっていたはずの自分の心は、幼馴染が告げた言葉を理解した途端に戸惑いと衝撃でいっぱいになってしまった。先日ラクツに言われた言葉が鮮明に、そしてラクツの真剣な表情が色鮮やかに蘇る。

(あんなこと言われるなんて、思わなかった……)

幼馴染に「希望を聞いて欲しい」と言われた時、ファイツは安堵しながらもいったい何を言われるのだろうと身構えていた。てっきり”物”か、それとも”自分が作った食べ物”か何かだろうと考えていた。いや、そもそもそれだって勝手に予想しただけのことなのだけれど。だけどだけど、それにしたってあんなことを言われるなんてまったく思ってもみなかった。”2人きりでどこかへ遊びに行きたい”だなんて、誰がどう考えたってデート以外の何物でもない。今度こそ本当に、デート以外の何物でもない……。

(ち、違う……よね?だ、だからつまり……。その、そういう意味じゃないよね……?)

”キミと2人きりで過ごす時間が欲しい”。彼の口から発せられたその言葉を聞いた時、ファイツは一瞬自分の聞き間違いかと思った。しばらくの間固まって、ようやく硬直が直った瞬間にもう一度言って欲しいと頼んだくらいだ。一字一句同じ言葉を繰り返してくれた彼に感謝するでもなく、ファイツはバカみたいにポカンと口を開けて彼の顔を見つめていた。今度は冗談かとも思ったが、彼が発言を撤回することはついになかった。どうしてそんなことを言ったのとは訊かなかった、訊けるわけがなかった。心の中に膨らむ疑問を口に出来ないまま、自分から目を逸らさない彼に微かに頷き返すだけで精一杯だった。その日はどの道を通って帰ったのかまったく憶えていなかった。気が付いたらファイツは家にいて、部屋のベッドに横たわっていた。
従姉にも友人達にも余計な心配はかけたくない、その一心で皆の前では何でもないように必死で振舞ってはいるものの、それもいつまで持つか分からない。こうして1人になると、どうしたって自然とラクツのことを考えてしまうのだが、そのうち常にそうなるかもしれない。ラクツのことが気になって気になって仕方がない、そして彼が自分のことをどう想ってくれているのかが気になる。気になるけど分からない、どうしても分からない。幼馴染としてならそれでいい、今までと何も変わらない。ただそれだけのことだ。そう、ワイだって幼馴染であるエックスと2人で出かけたことが何度もあるではないか。そう思って、だけどと思う。もし彼が、幼馴染以上に自分のことを想ってくれているとしたらどうしようとファイツは思った。その数秒後には、浮かび上がったその考えを思い切り否定した。

(ち、違うよね?だってだって、あのラクツくんがあたしのことを……。その、す……好き……だなんて……。あるわけないもん……)

大人びている彼と、子供っぽい自分。彼の隣には自分は相応しくないとファイツは思った。ラクツのあの発言だって、きっとテストが終わった気分転換を理由に言ったのだろう。そうだ、そうに違いない。絶対にそうに決まっている。あの彼が自分のことを好きだなんてあるわけがないと、ファイツは何度も何度も声に出さずに呟いた。自分の胸はまだどきどきしているのだけれど、ラクツが自分を想ってそうなるとはとても思えない……。

(ラクツくんはああ言ってくれたけど……。やっぱりそういう意味じゃないよね?幼馴染として出かけるだけだよね?)

一瞬、まだ幼かったあの頃の自分達の姿がファイツの脳裏に浮かんだ。ラクツに対して、あの頃の自分は何の躊躇いもなく好きだと言えたのに、いつしか言えなくなってしまっていたなと思った。ぼんやりとそう思って、ファイツは我に返った。慌ててぶんぶんと、それはもう必死に首を横に振る。

(す、好きって……違うよ、何考えてるの!確かにデートはデートだけど……。お、幼馴染としてデートするだけだもん!……そ、そうに決まってるもん……っ!)

支離滅裂なことをぶつぶつと呟きながら、ファイツは他の生徒達と同じように前へ前へと進んだ。宝物であるペンダントの中の写真に写っている人物が校門に立っていたのだけれど、自分にそう言い聞かせるのに必死なあまり、ファイツはそのことに微塵も気付かなかった。