school days : 135

先の先
特進クラスに入れるか否かは、2学期の成績で決まるという。けれどそのクラスに苦もなく在籍しているラクツにとっては、今更焦って勉強することの程でもない。普段通りに問題を解けば、十中八九、自分は来年も特進クラスに籍を置くことになるだろう。”来年に特進クラスに在籍することになる”という予感は、眼前に座って問題を解いているこの娘にも当てはまるだろうとラクツは思っている。
本人の努力の甲斐あって、彼女の成績は勉強を教え始めた頃と比べると目に見えて向上していた。中間テストの成績も悪くなかったのだ、期末テストで余程のミスをしない限りは大丈夫だろう。けれど自分の眼前に座っているこの娘にとってはそう簡単な話ではないのか、彼女はそれはもう真剣な表情で勉強に取り組んでいた。中間テストの直前に教えた時もそうだったが、今度はあの時以上に真剣に勉強に取り組んでいるように思えてならない。もう”次”がないと知っている為なのだろう。やがて問題を解き終えたらしい彼女が自分の回答を何度も見返す様子を、ラクツは黙って見つめていた。その瞳に、決して彼女には届かない感情を湛えて。

「……はい、ラクツくん。採点をお願いします」
「ああ」

律儀にも頭をぺこりと下げた彼女に目を柔らかく細めて、答案を受け取ったラクツはすぐに採点を始めた。左手に持ったペンで次々に○を描きながら、自分の予想がまず間違いなく当たっているであろうことを改めて確信する。初めて自分が作った問題を解かせた時には3割程しか正解出来ていなかったのに、それが今では全問正解だ。間近に迫った期末テストでこの実力を出せれば、彼女の目的は自ずと達成されることになるだろう。

「全問正解だ、ファイツくん」
「……うん」

小さく頷いたファイツは、はあっと深い溜息をついた後に俯いた。問題を解いたことによる疲労の為だろう。そんな思考を抱いたラクツの口からは、自然と言葉がついて出る。

「疲れたか?」
「……え?……あ、えっと……。大丈夫だよ」
「だが、盛大な溜息をついていただろう」
「それは、もうすぐ期末テストだなあって思ったから……。あたしのことだから、今のテストも何問か間違えてそうだなあって心配だったんだけど……。全部合ってて良かった……」

いつまで経っても自分に自信が持てないらしい彼女は、やはりそういう言葉を口にしてしまった。また自身を卑下する言葉を出させてはなるまいと、少し眉をひそめて彼女の名を呼ぶ。すると、ファイツは小さな声で「またやっちゃった」と呟いた。

「……自信、持たなきゃね。あんなに苦手だった数学が、ここまで出来るようになったんだもん。本当、ラクツくんがあたしに教えてくれたおかげだね!」
「いや。キミが頑張ったから、だろう。今の実力を出せれば、特進クラスに入れるだろうとボクは思っている」
「そ、そう……かなあ?」
「ああ。……今までよく頑張ったな」

”ファイツが特進クラスに入れるように出来る限り協力する”と決めたのはラクツ自身だ。そして、特進クラスに入れるかどうかは2学期の成績で決まるのだ。つまり、もうファイツに勉強を教えるのも今日が最後ということになる。心に浮かんだ淋しさは決して表に出さずに、ラクツは柔らかい口調で告げた。

「あ……っ」

弱々しい声を漏らしたファイツは、今まで自分と目を合わせてくれていたのにさっと視線を逸らしてしまった。そうされるのはこれでもう何度目だろうか。どう考えても恥ずかしがっているようにしか思えない反応だ、まさか嫌われているということはないだろう。

(ボクを少しでも意識してくれていると……。そういうこと……だろうか……)

果たしてこの考えは事実なのだろうか。それとも、やはり自分に都合のいい解釈をしているだけなのだろうか?自分1人でいくら考えたところで明確な答が出るはずもないのだが、だからと言ってそれをそのままファイツ本人に尋ねるわけにもいかない。結局、今日も何も訊けないままで終わるのだろうなと心中で呟きながら、ラクツは黙ってファイツを見つめた。未だに俯いているファイツは、顔を赤く染めたままの状態で固まっている。

「…………」

”ファイツを今すぐに抱き締めたい”という、自分の中に湧き上がった衝動を何とか抑え込んで、ラクツは息をついた。微動だにしない彼女の今の心境を出来るものなら知りたかった。それでも彼女を困らせる結果になるのは分かりきっているから、何も訊かないことに決めたのだが。

(ボクとしては、ファイツをこのままずっと見つめていたいところだが……。そろそろ彼女を帰さないといけないな)

窓の外から見える空は、どう見ても暗い。休日故に午後からつきっきりで彼女の勉強を見ていたのだけれど、いつの間にかすっかり日が沈んでしまっていた。先程のテストを解かせる前にいったん休憩したとはいえ、いいかげん彼女も疲労していることだろう。それに何より、ずっとこのままでファイツと2人きりでいるというのは自分の精神が持たない。自分の思うままに行動出来たら、つまりファイツを今すぐに抱き締められたのならどれ程いいだろうとも思うが、それが赦されるはずもないとよく理解している。緩慢に立ち上がったラクツは、座り込んだままのファイツを見下ろした。

「あ、あの……っ!ラクツくん……っ」

座ったままのファイツを急かすのは気が引けるものの、それとなく彼女に声をかけようとしていたラクツは名を呼ばれて不意を突かれた。そしてそのまま、自分とファイツの視線がかち合う。

(これは……。……まずいな)

先程目を逸らしたファイツに今、どういうわけかじっと見つめられているわけなのだが、これはかなり心臓に悪いとラクツは思った。ただでさえ自室に好いた相手と2人きりだというのに、加えてこの上目遣いをされている状況と来ている。正直ファイツを抱き締めたくて仕方がないというのが本音だったが、脳裏に思い描いたその欲を行動に移してはならないと何度も言い聞かせる。そしてやっとのことで冷静さを取り戻したラクツは、「どうした」と問いかけた。

「ラクツくん、何か欲しいものって……ない?」
「……欲しいもの?」
「あ、ごめんね急に……!あのね、この数ヶ月間……あたしはラクツくんに勉強を教えてもらったでしょう?ラクツくんのおかげでこんなに数学が出来るようになったんだもん、そのお礼がしたくて……」
「ああ……。なるほど、そういうことか」

急に欲しいものはないかと問われて何のことかと思ったが、理由を聞いたラクツは軽く頷く。脳裏に最初に浮かんだ”欲しいもの”というのは、まさに目の前の彼女そのものだ。”ファイツが欲しい”というのが自分の偽りなき本音で、しかしその本音は素直に口に出来るはずもなかった。

「え、遠慮なんてしないでね!あたしに用意出来るものなら、何でも用意するから……!」

黙ったままの自分の態度を悪い方に解釈したのか、ファイツは拳を胸の前で握り締めてそう宣言した。いつになく言葉に熱を込めた、必死とも言える彼女を目にしてもなお、ラクツは何も言わなかった。正確に言えば”言えなかった”が正しい。彼女の必死な姿を見た自分の心臓はやけにうるさく高鳴って、正直口を挟むどころではなかったのだ。

「あ、あのね!あたしは、確かにお金はあんまり持ってないけど……。でも、ラクツくんに感謝してるのは本当だからね!ラクツくんに教わるのも今日で最後だし、だからどうしても言っておきたいなって……。そう、思ったから……っ」

熱が込められていたはずのファイツの言葉は、最後には弱々しいものに戻ってしまった。いつまで経っても何も言わない自分の態度に何を思ったのか、再び無言で下を向いてしまったファイツの姿を、ラクツは呆けたように見つめていた。聞き間違いでなければ、今しがたのファイツの言葉の後半部分は確かに震えていた。まるで、自分と過ごす時間の終わりを名残り惜しむかのように震えていた。ファイツの口からはっきりと聞いたわけではないが、ラクツにはそう聞こえたのだ。”あなたと過ごす時間がなくなって淋しい”と、言外に言われているように聞こえてならなかった。

「……ファイツ。それなら、ボクの希望を聞いてくれるか?」

ぱっと顔を上げたファイツとまっすぐに視線を合わせて、そう告げてからラクツは深く息を吸った。いつかこの娘をお茶に誘った時より緊張していたが、それは当たり前だと思った。お茶に誘った時は勉強をするという大切な目的があったのだ、それ故彼女も頷いてくれたのかもしれない。だが、今からこの娘に告げようとしていることには勉強の要素の欠片もない。いくら鈍感なこの娘とて、流石に何かを察するかもしれない。
ファイツには他に好いた男がいることは重々知っている、告げるにしてもこのタイミングで言うのは彼女にとって良くないことも理解している。告げた後にファイツがおそらくは困るであろうことも簡単に予想出来るし、もしかしたら単なる自惚れでしかない可能性も大いにある。しかし、それでもラクツは自分を止められなかった。告げるのなら今しかないと、根拠もなく思った。自分と過ごす時間がなくなることを、わずかでも淋しいと思ってくれているのなら。そしてもし、自分のことをわずかでも男として想ってくれているというのなら、そのわずかな可能性に賭けたいと思った。苦手な先輩に以前焚き付けられたからではなく、自分の意思でそうしたいと……そう思った。

「テストが終わって、落ち着いてからでいい。ボクはキミと、出来ることなら2人きりで遊びに出かけたいと思っている。ボクは”ファイツと過ごす時間”が、欲しい」

結局は彼女の気持ちより自分のそれを優先する結果になったなと内心で苦笑しながら、しかし真剣な表情で告げる。幼馴染の男にデートに誘われたという事実を理解したのか、ファイツの瞳がゆっくりと大きく見開かれるその様子を、ラクツは黙って見つめていた。