school days : 130
意識と無意識
落ち着いた雰囲気の喫茶店で、ファイツは幼馴染の男の子に勉強を教わっていた。ラクツに数学を教わるのはこれが初めてではない。それなのにこんなにも心がそわそわして落ち着かないのは、きっとここが彼の部屋ではないからなのだろう。既にそう結論を出していたファイツは胸を高鳴らせながらも必死に勉強に集中した。自分の為に時間を割いてくれている彼の為にも、そして何より自分の為にも勉強を頑張らなければいけないのだ。彼が作ってくれた問題を何とか解き終えたファイツは、いつものように「お願いします」と言って向かい側に座っている幼馴染に問題を手渡した。彼が自分の回答結果を採点する様子をじっと見守るのも怖い、かといってメニューを眺めるのも食い意地が張っていると思われそうで気が引けた。飲み物を飲もうにも、勉強を始める前に頼んだミルクティーは既になくなってしまっている。だからファイツはただぼんやりと前を見つめることにしたのだが、その実幼馴染のことを見てしまっていることにファイツだけが気付いていなかった。”ファイツだけが”ということは当然ラクツも気付いていることになるわけで、そして彼は内心で様々な思考を巡らせているのだけれど、そんなことはファイツは知らない。やがて採点を終えたらしい彼は、左手に持ったシャープペンをテーブルの上に静かに置いた。そして彼は、俯いていた顔をゆっくりと上げる。
「……っ」
前方を見つめていた自分と幼馴染の視線がしっかりとかち合ってしまい、ファイツは思わずさっと視線を逸らした。そうしてしまったのはほとんど無意識だった。あの頃とはもう違うのに、彼を嫌っているわけではないのに。それなのにどうしてなのだろう?
「……ど、どう?頑張って解いてみたけど、どうだった?ラクツくん……」
彼から露骨に目を逸らしてしまったことには一言も触れず、ファイツは幼馴染から目を逸らしたままおずおずとそう問いかける。前を見ていたことには見ていたのだが彼の手元に注目していたわけではなかったので、ファイツは採点結果を知らないのだ。
「結果か?全問正解している」
「ほ、本当!?」
彼の言葉に驚いたファイツは、幼馴染から目を逸らした事実を忘れてついつい顔を前に向けた。その結果は先程とまったく同じで、つまりはまたもや幼馴染の顔をまともに見ることになってしまった。これで本日二度目だ。
「あ、あの……」
この状況に困った結果とりあえずそう口に出したはいいが、続きを何て言えばいいのか分からなかったファイツは口ごもった。さっき彼から思い切り視線を逸らしたことを謝るべきなのか、それとも何か他のことを言えばいいのだろうか。さっきのことを謝るとしてもどうして目を逸らしたのかと問われそうで怖い、かといって何か他のことを言うにしてもいったい何を言えばいいのだろう?そんなことを考えてぐるぐると頭を悩ませていた自分を救ってくれたのは、目の前の幼馴染だった。
「ファイツくん。勉強はこれで終わりにして、何か注文しないか」
「え?でも……」
「それなりに勉強したから疲れているだろう?ボクも正直そろそろコーヒーが飲みたいと思っていたところだからな。キミがもう少し続けたいと言うならつき合うが、どうする?」
「う、うん……。分かった、あたしもずっとパフェが食べたいって思ってたから……。……あ!」
今しがたのことを深く追及されなくてホッとしたのも束の間、自分の発言を聞いてか途端に忍び笑いを漏らし始めた幼馴染にファイツは慌てて「違うの」と反論する。そうは言っても今言ったことは事実でしかないからまったく違わないわけなのだけれど、それでも食い意地が張っていると思われるのは女として嫌だった。
「い、今のはね!ラクツくんに釣られて言っちゃっただけでね……っ!」
「ああ、分かっている。キミが先に選んでくれ」
「そんな!いいよ、ラクツくんから選んで!」
メニューを差し出して来たラクツに向けて、ファイツは必死にそう言った。普段からそうだと思っているけれど、どうも彼は自分に対して気を遣い過ぎているように感じられてならない。今もそうだ、ラクツは自分の為にわざわざデザートのページを開いてメニューを差し出してくれているのだ。
「いや。レディファーストだ、キミが先でいい」
穏やかな口調でラクツにそう言われてしまっては、こちらとしては何も言い返せない。元々ファイツは気が弱く、他人と押し問答をするのは苦手なのだ。小声で「ありがとう」と呟いてファイツはメニューを受け取った、またもや胸が高鳴りだしたのには気付かない振りをした。半ば無理やりにメニューに目を凝らすと、美味しそうなパフェの写真が飛び込んで来る。どれもこれも本当に美味しそうだ。散々悩んで結局は普通のチョコレートパフェとミルクティーを選んだファイツは、彼に倣って飲み物のページを開いてから「はい」と言ってラクツにメニューを渡した。自分に礼を言った彼は、しかし一目見てあっという間にメニューを閉じるとウエイトレスを呼びつけて注文をし始めた。
「……ラクツくん、決めるの早いね」
店員が自分達の注文を聞き終えて立ち去った後で、ファイツはぽつりとそう言った。何事にも優柔不断でいつも迷ってばかりの自分とは大違いだ。
「先程ブレンドコーヒーを頼んだ際に、次はあれにしようと決めていただけのことだ。普段から早いわけじゃない」
「あれって、エスプレッソコーヒーだよね。あたしなら絶対飲めないよ……」
「……まあ、キミは甘党だからな」
隣に置いた鞄の中身を覗き込みながらそう返して来た幼馴染を、ファイツはそっと見つめた。数え切れないくらい思って来たけれど、やっぱり彼は大人びている。同い歳なのに、自分よりずっとずっと大人びている……。
「ラクツくんって、やっぱりすごいな……」
「”すごい”って……。何がだ?」
極小さな声で言ったのにも拘らず、彼の耳にはしっかり届いていたらしい。鞄から手を放して、ついでにこちらをまっすぐに見つめて静かにそう尋ねたラクツに、ファイツは少しの気まずさを覚えながらも「だってラクツくんてば大人びてるし」と言った。
「あたしは子供っぽいし、色々迷ってばかりだもん。だから、ラクツくんを見習わなくちゃって思ったの」
「……キミはボクを買い被り過ぎだ。ボクにも子供染みている部分はちゃんとあるし、迷いもする」
「え?……嘘!」
「こんなところで嘘をついてどうするんだ。現に今だって、迷っていることがあるわけだが」
「……進路のこと?」
そう尋ねたのは、自分がまさにそのことで迷っているからだ。つい先日行われた進路指導で、ファイツは具体的な進路を先生に言えなかったのだ。
「まあ、それもそうだな。……だが、ボクにとってはそれ以上に大切な事柄だ。日頃から頭を悩ませている」
「……そうなの?意外かも、ラクツくんでもそんな風に迷ったりするんだ……。あたしに出来ることがあったら言ってね、喜んで協力するから!」
自分などではそもそも彼の力になれないかもしれないが、それでも黙っているのは嫌だったファイツは意気込んでそう告げた。しかし、目の前の彼は何も言わなかった。口を閉ざしたまま、ただただこちらを見つめている……。
「……ラ、ラクツくん?」
もしかして、自分の言葉は彼に届かなかったのではないか。そんな考えを抱いたファイツは幼馴染の名前を呼んだ。そうしてからやや間が空いて、彼の「ありがとう」が聞こえて来てファイツはホッとした。良かった、彼にはちゃんと聞こえていたらしい。
「……そう、だな。ボクが迷っている事柄について、ファイツくんにはいつか聞いてもらうことになるかもしれない。もしそうなった暁には、よろしく頼む」
「う、うん……」
幼馴染の彼があまりに真剣な瞳でそう告げるものだから、ファイツの顔には瞬く間に熱が集まってしまった。顔を逸らしたいと思いつつも、結局はそれを実行出来ずに小さく頷く。
(ラクツくんが迷ってることって、いったい何なんだろう……?)
ファイツは決して軽い気持ちでそう言ったわけではなかった。だけど彼の言う”迷っている事柄”というのが気になって、あれこれと好き勝手に想像していた。
「……で、ファイツくん。そろそろプレゼントを渡してもいいか?」
「あ、ありがとう……」
「誕生日おめでとう、ファイツくん」
袋を手にして穏やかにそう言ったラクツに、考え事をしていたファイツは慌てて思考を中断してもう一度「ありがとう」と言った。今日は9月16日、自分の誕生日だ。少し前までは敬遠だったはずの幼馴染は、だけど自分の誕生日を忘れないでいてくれた。その上プレゼントまで贈ってくれるのだ。彼の気持ちが、ファイツには嬉しかった。
「今開けてもいい?」
「ああ」
彼が頷いたのを確認してから、ファイツは青色のリボンが付けられた袋を丁寧に開ける。すると、自分がリクエストしたハンカチが複数枚入っているのが見えた。中身を既に知っているとはいえ、こういう瞬間というのは何度体験してもやっぱり嬉しい。
「わあ!……可愛いハンカチ!」
「キミは桜が好きだろう?迷ったが、結局はそれにしたんだ。気に入ってもらえたらボクとしても嬉しい」
「ありがとうラクツくん!すっごく嬉しいよ!!」
「良かった。……もう1つキミに渡したい物があるんだが、いいか?」
「……え?」
「ボクがキミに似合うと思って買った物だ。キミさえ良ければ、どうか受け取って欲しい」
「う、うん……」
彼から今度は小箱を受け取ったファイツは、何だろうと思いながらも桃色のリボンを解いた。箱の蓋をそっと開けると、小さな蒼い石が印象的なネックレスが視界に飛び込んで来た。青色の光が反射して、きらきらと光っている。
「……これを、あたしに?」
「ああ」
「…………」
しばらくの間ネックレスを見つめていたファイツは彼にお礼を言っていなかったことをようやく思い出した。どういうわけか声は震えてしまったものの、やっとのことで彼に「ありがとう」と言ったファイツはまたネックレスに視線を戻す。本当に綺麗なネックレスだが、だけどとファイツは思った。
「あ、あたしに……似合うかなあ……?こんなに大人っぽいの……」
「ボクはそう思う。それにファイツくんは、キミが言う程子供染みてはいないと思うぞ。そのワンピースもよく似合っている」
「あ、ありがとう……」
ファイツが今着ているワンピースは自分の一番のお気に入りだ。誕生日だしせっかくだから着て行こうと思ったのだが、彼にそう言われると何だか照れてしまう。恥ずかしさは大いに感じていたが、流石に彼から目を逸らして告げるわけにはいかない。顔を赤くしたまま、それでもラクツの目をしっかりと見つめてファイツは口を開いた。
「ハンカチもネックレスも、大事にするね。……本当にありがとう、ラクツくん」
「……ああ。今のうちに言っておくが、今日の代金はボクが支払う」
「え!?……そんな、いいよ!ネックレスも買ってもらったのに、ラクツくんに悪いもん!」
「だが、そもそもボクが行きたいと言い出したことだ。それに今日は、キミの誕生日だろう?」
「そ、それはそうなんだけど……でも!」
”でも”と言ったきり、ファイツは口を噤んだ。彼にばかり支払わせてはいけないと頭では思うのに、上手く言葉が出て来なかった。それに例えそれが出来たところで、彼には上手く言い包められてしまいそうだ。
「……ボクに少しは格好つけさせてくれないか」
「う、うん……。じゃあ、お願いします……」
ダメ押しとばかりに言い渡された彼の言葉に、ファイツは素直に頷いた。ここまで言われてしまっては、断るのはかえって失礼になるだろう。
(でも、でも!……ラクツくんたら、何もあんなこと言わなくてもいいのに!)
”そんなことをしなくてもラクツくんは充分かっこいい”なんて言いそうになった自分に、ファイツは何を考えてるのと一喝した。この場でそんなことを言われても気まずくなるだけだし、何より彼が困るだけだ。今日のこれは、間違ってもデートじゃないのだ。いつも通り、勉強を見てもらっているだけのことなのだ。だけどそれでも彼に対して申し訳なさを感じていたファイツは、無意識のうちに言葉を発していた。
「じゃ、じゃあ!次来た時はあたしが払うから……っ!」
「……え」
呆然としたようなラクツの声で、ファイツは我に返った。自分が無意識に告げてしまった言葉を反芻して、どうしようと何度も声に出さずに呟く。こんなことを口走ってしまうなんて、いったいどうすればいいのだろう?
(”次は”だなんて……。あたしにこんなこと言われて、ラクツくんだって困ってるじゃない!)
実際のところラクツは思いがけない言葉に呆然としていただけで困っていたわけではないのだが、そんなことはファイツは知る由もない。自分の発言を今更取り消すのも憚られたファイツは押し黙った、気まずくて仕方がなかった。
「そうだな。……じゃあ、次の勉強もここで見ることにしようか。また2人で、ここに来よう」
「あ、うん……」
「次はキミの言葉に甘えさせてもらうが、本当にいいんだな?」
「……うん」
彼の言葉に曖昧に頷いたファイツは、あたしったら何考えてるのとまたもや心の中で呟いた。そう、これはあくまで勉強を見てもらうだけでデートではないのだ。自分自身に何度もそう言い聞かせた癖に、しかしファイツはそうは思わなかった。勝手に彼とデートする光景を想像して勝手に気まずいと思うなんて、いったいどういう思考をしているのだろう。自分の考えに我ながら溜息をそっとついたその時、さっきのウエイトレスがお待たせしましたと言いながらテーブルの上にパフェとミルクティーとコーヒーを置いたのがぼんやりと見えた。考えに耽っていた所為で、ウエイトレスがこちらに近付いて来るのにまったく気付かなかった。自分の目の前にパフェとミルクティーを引き寄せながら、ファイツは改めてパフェを見つめる。確かに美味しそうなパフェだった。けれどファイツの頭の中を今占めているのはそれではなくて、目の前にいる幼馴染の彼のことだった。