school days : 123
揺れる瞳
「待たせてすまないな、ファイツくん」木の下で立ち尽くしていた想い人の姿を認めて、彼女に足早に近寄りながらラクツはそう告げた。一応手早く着替えたつもりだったのだが、ヒュウに声をかけられた時には制服から胴着に着替えていた途中だった為に少々遅れたのだ。
「あ……っ。ううん、全然待ってないから大丈夫だよ。あたしの方こそ急に呼び出しちゃってごめんね、ラクツくん……」
「…………」
そう言ったファイツの口元は上がっていたが、彼女のその蒼い瞳には陰りがあるように思えてならなかった。自分には彼女が無理に笑っているようにしか見えなくて、しかしそれをそのまま指摘するのは彼女を困らせる結果になるのではないかと思ったラクツは、結局口を開かないままで彼女を見つめた。都合のいいことに、自分達の周囲には誰もいない。普段は教職員やら生徒やらが幾人か通りがかるわけだから、今の状況はやはり幸運だと考えていいのだろう。誰の目にも触れないのをいいことに、ラクツはそのまま彼女を見つめ続けた。もちろん部活が始まる時間が迫っているのは理解しているのだが、それでもラクツはそうしたいと思った。
いつも帰りのHRが終わるとすぐに部室に向かうのだけれど、それは何人かの女子生徒に必要以上に話しかけられるのを防ぐ為だ。既に今日は興奮した様子だったユキにやたらと話しかけられているわけなのだが、やはりあまりいい気分にはならなかった。そうされることに慣れているということもあるが、単純にそれ自体が億劫だとしか感じなくなっていたのが理由だろう。プラチナとは別の意味で球技大会が憂鬱だと思っているラクツの気分は、先程までは見事に鬱屈していたはずだった。部活で思い切り汗を流せば少しは気晴らしになるかもしれないと考えていたくらいなのだ。ところがどうだろうか、ファイツの顔を見つめているだけだというのに、憂鬱だった気分は今やすっかり晴れていた。我ながら単純なものだと内心苦笑しながら、それでも彼女を見つめる瞳は動かさなかった。
「ど、どうしたの……?」
自分がそうした途端にそわそわと落ち着かない様子を見せ始めた彼女は、やがてこの場に漂う沈黙に耐え切れなくなったのだろう。おずおずと口を開いて、そしてやはり遠慮がちにそう口にしたファイツの眉はすっかり下がってしまっている。彼女が今現在困っていることを重々承知していて、しかしそれでもなお見つめ続けている自分は、どうにも酷い男だと思う。ファイツは大切な幼馴染で、何より心の底から惚れている相手だ。決して困らせたいわけではないのだが、自分が見つめ始めた途端に恥ずかしそうな反応を見せるファイツが愛おしくて仕方なくて、ラクツは問いかけられた後もしばらくの間は彼女のことを見つめていた。
「ああ……。いや、別に……」
出来ることならずっとこのまま彼女を見つめていたいというのが本音なのだけれど、流石にファイツをこれ以上困らせるのは気が引けた。素知らぬ顔でそう告げて目線を下に落としたラクツの視界に、ふとある物が映る。顔ばかり見ていて今まで気付かなかったが、どうやらファイツは足を怪我しているらしい。
「ファイツくん、その足はどうした?擦りむいているようだが」
「あ、あの……。実は、さっき昇降口で転んじゃったの」
「……転んだ?」
「うん、靴を履いてた最中に派手にやっちゃって……。色んな人に見られちゃったみたいで、すごく恥ずかしかった……。あたしって本当に鈍いよね……」
そう溜息混じりに話す幼馴染に、ラクツは沈黙を以って返した。確かに彼女は色々な意味で鈍いが、それを正直に告げるのは流石に躊躇われたのだ。
「ペタシくんとヒュウくんにも転んだところをしっかり見られててね……。ペタシくんは心配してくれたんだけど、ヒュウくんには呆れられちゃって……」
「ヒュウとペタシに?……ああ、なるほど。そういうことか」
「そういうことかって……。えっと、もしかして……2人共、あたしのことを何か噂してたの?」
「……まあ、な。どういう風の吹き回しだと不思議に思っていたんだが、2人はキミが転んだ場面を見ていたというわけか。ペタシはともかくとしても、ヒュウまでそのような話題を口にするのは珍しいからずっと気にかかっていたんだ」
「……そうなの?」
「ああ。ヒュウと何かあったのか?」
「え?う……ううん。別に、そういうわけじゃないから……」
ファイツはそう言ったものの、その蒼い瞳は見事に泳いでいた。まず間違いなく彼女は嘘をついているのだろうが、素直な性格が災いしてか表情にしっかりと表れていた。嘘をつくと決まって目が泳ぐという昔からの癖は、やはり今も直っていないらしい。何故嘘をついたのかは気になったが、無理に問いただしてまで知りたいとは思わなかった。そんなことをしても、ファイツを傷付けて終わるだけだ。
「……そうか。ヒュウは少々口が悪いが、根はいい男だ。どうかそれだけは誤解しないでやってくれ」
「うん、それは何となく分かるかも……。実はちょっとだけ睨まれちゃったんだけど、転んだあたしのことを心配してくれたみたいだったし……。あ、別に睨んだことを責めてるわけじゃないんだよ?あたしって色々と鈍いから、気付かないうちにヒュウくんの気に障ることをしちゃったんだろうし。うう、本当にどうして昇降口なんかで転んじゃったんだろう……」
「…………」
余程気にしているのか、ファイツは再び自分が転んだことについて沈んだ表情でぶつぶつと呟いていた。この話題をこのまま続けさせるのは彼女にとってあまり良くなさそうだと判断したラクツは、話題を逸らす為に「ところでボクに何の話なんだ」と口にした。
「あ……っ。せっかく来てくれたのに、あたしってばこんな話ばっかりして……。本当にごめんね、ラクツくんは部活があるのにね……。それで、話っていうのはね……」
「ああ」
「えっとね、その……。だ、だから……っ」
「…………?」
口を噤んでしまった眼前の幼馴染の様子にラクツは訝んだ。どういうわけか顔を赤く染めて口ごもったファイツは、明らかに視線を下に逸らしてしまったからだ。俯いてしまったファイツはそれでも数秒程で顔を上げたが、自分と目が合うとすぐにまた俯いてしまう。どうやら、何か余程言いにくいことなのだろう。
(ファイツは何を言おうとしてくれているのだろうか?)
想い人と2人きりとはいえ、胸中で呟いたラクツの頭は冷静だった。間違っても彼女に告白されるというわけではないだろう。いや、もちろんそうなってくれればどれ程嬉しいだろうとは思うのだけれど。しかし、そんなことがあるはずもないであろうことは自分がよく理解している。
自分でも気は長い方ではあると思う、それがファイツに関することなら尚更だ。部活が始まるまでにはまだ時間があることだし、ラクツは俯いては顔を上げる幼馴染を静かに見つめる。多分今の彼女はとても困っているのだろうが、そんな姿すらも可愛いと思えてくるのだから不思議だ。やがて意を決したらしいファイツが拳を握って数回深呼吸をする様子を、ラクツは目を細めて見ていた。
「ハ、ハンカチがいいなって……。そう思ったの!」
「……ハンカチ?」
「あ!あの、あたしの誕生日のプレゼントのこと……。なるべく早く考えるって言ったから……」
「……それをボクに言う為に、わざわざ部室まで来ようとしてくれたのか?」
いったい何を言われるのだろうと身構えていたラクツは、少々意外に思いながらもそう問いかけた。まさか誕生日のプレゼントの希望を言う為だけにわざわざ剣道部の部室の近くに来てくれるなんて、まるで予想だにしなかったのだ。
「う、うん……。あの、携帯の電池が切れてて……。えっと……。こんな時間に本当にごめんね、それじゃああたしはもう帰るから……っ!」
「ファイツくん!」
”帰るから”と言うが早いが、くるりと踵を返した幼馴染の名をラクツは呼んだ。一瞬身を大きく震わせてから、想い人がゆっくりと振り返る。その拍子に彼女の髪がさらりと揺れた、彼女の蒼い瞳まで揺らめいて見えるのは目の錯覚なのだろうか。
「な、なあに……?」
「いや……。擦りむいただけとはいえ、キミは足を怪我しているんだ。どうか気を付けて帰ってくれ」
「……うん。……ありがとう、ラクツくん」
そう言ったファイツは再び自分に背を向けて歩き出した、今度はゆっくりとした足取りだった。自分は何故ファイツを呼び止めたのだろうと疑問に思いながら、遠ざかる彼女の姿を見つめた。結局放課後の部活が始まることを知らせるチャイムが鳴るまで、ラクツはその場に立ち尽くしていた。