school days : 122

どうして、こんなに。
”どうしてあたしは、剣道部の部室に向かって歩いているんだろう”。そう心の中で呟きながら、ファイツは目的地へ向かって足を進めていた。この言葉を呟くのはこれで何度目だろうか。いちいち数えているわけではないけれど、多分5回は優に超えているだろう。いくら考えても分からない、さっぱり分からない。自分のことなのに、どうしてこんな考えを抱いたのかが分からない……。
今から数時間前のことだ。プラチナが落としてしまったハンカチを何気なく拾ったその瞬間、ファイツの頭の中である考えが閃いた。幼馴染に誕生日のプレゼントは何がいいかと訊かれてすぐに答が出せなかったファイツだけれど、”まさにこれ”という答が浮かんだのだ。そうだ、彼にもらうプレゼントはハンカチにしよう。ハンカチなら何枚あっても困らないし、毎日使う物だし、何より金銭的な意味で彼の負担にはならないはずだ。見るからに高価そうだったプラチナの刺繍が施された白いハンカチを思い出して、ファイツは口元に小さく笑みを浮かべた。だけどそれも少しの間だけで、気が付けばファイツはそっと溜息をついていた。

(もう、どうしてこんな時に携帯が使えないんだろう……)

携帯の充電をして来るのを忘れたのは他でもない自分なのに、ファイツは心の中で文句を言った。そもそも携帯の充電が切れてさえいなければ、きっとこんなにも頭を悩ませることはなかったに違いない。多くの疑問符を浮かべたファイツは、首を傾げながら1人廊下を歩いた。
幼馴染には「数日中に誕生日のプレゼントを考えるから」と言ったのは確かに自分なのだが、何もわざわざ剣道部の部室に向かう必要はなかったのではないだろうか。別に緊急の連絡をするというわけでもないのだ、携帯の電池が切れているなら帰宅してからメールを送ればそれで済むはずではないか。それを分かっていてなお剣道部の部室に歩いている自分のことが、ファイツは不思議でならなかった。上手く言葉に出来ないのだけれど、何だかそうしなければいけないような気がした。幼馴染に直接会って、そして彼の顔を見て「誕生日のプレゼントはハンカチがいいの」と言わなければならないと……根拠もなく思ったのだ。

(本当、何でだろう……)

大勢の女子生徒達にきゃあきゃあと騒がれていた幼馴染のことを思い出して、ファイツはまたそっと息を吐いた。無意識に溜息をついてしまった事実に気が付いて、つい意味もなくきょろきょろと辺りを見回す。自分と同じく昇降口に向かっている生徒達に今の溜息が聞こえてしまったのではないかと、急に不安に感じてしまったのだ。そうした後で、いったいあたしは何をやってるんだろうと心の中で呟いた。本当に本当に、最近の自分はどうかしてしまっている……。
先程もそうだった。バスケットボールの審判をしていたNのことを見ていたはずが、気が付けば幼馴染の姿を目で追ってしまっていたのだ。コート内を走る彼の姿が、そして綺麗に決まったあのシュートが、頭に焼き付いて消えてくれなかった。

(懐かしいなあ……。小学生の時もすごかったけど、高校生になってもバスケは得意なままなんだ……。勉強もそうだけど、運動もあんなに出来るだなんてすごいよ……。試合をしてた時のラクツくん、本当にかっこよかったな……)

声に出さずにそう言ったファイツは、次の瞬間両手でぱっと口を覆った。自分の呟きは実際には声に出ていなかったわけだから、今の自分の行動には何の意味もなかった。むしろ突如として口を覆ってしまった自分は、端から見れば奇妙に映ったことだろう。だけど今のファイツにはそんなことを気にする余裕はまるでなかった。

(あ……。あたしったら……何を考えてる、の……?)

確かにさっきの彼はすごかったけれど、色々な女子に騒がれていたけれど。だけどかっこいいというのはどうなのだろう?自分でそう思っておきながら、ファイツは今しがたの心の声を否定した。きっと、これは周りの人に釣られただけなのだ。色々な女子がかっこいいと騒ぐから、だから自分も彼のことをそう思ってしまっただけのことなのだ。そうに決まってるもんと唇だけで呟いたファイツは、軽く首を振って頭の中の考えを振り払った。

(もう、こんなことを考えてる場合じゃないのに!)

昇降口にたどり着いたファイツは、自分の下駄箱から靴を取り出した。もたもたしていたら部活が始まってしまう時間になる、そうなる前に剣道部の部室に行かなければ。部外者でしかない自分が部活が始まる前の忙しい時間に剣道部の部室に押しかけようというのだ、幼馴染が部活に遅刻する事態だけは避けなくてはならない。急がなくちゃと小さく呟いたファイツの耳に、不意に女子生徒の声が飛び込んで来た。

「……やっぱりラクツくんったらかっこいいよねー!あんなに何本もシュートを打ったのに1本も外してないし!ラクツくんって、本当完璧な男子だよね!」
「……っ!」

幼馴染の名前がやけにはっきりと聞こえて、ファイツは弾かれたように声が聞こえて来た方向に顔を向けた。以前見かけたことのある、金髪の女子と目がしっかりと合う。確かユキという名前の生徒で、試合直後の幼馴染にやたらと話しかけていた女子でもあった。彼女と目が合ったことを気まずく思う間もなく、靴を履いている最中だったファイツは悲鳴を上げた。ただでさえ片足だけで立っているという不安定な状態に加えて、顔を思い切り横に向けた為にバランスを崩したのだ。結果として大勢の生徒達の前で盛大に転んでしまったファイツの顔中にはみるみるうちに熱が集まった、こんなところで転ぶなんて恥ずかしくて仕方がなかった。

「だ、大丈夫!?」
「は、はい……っ」
「本当に?膝を擦りむいてるけど、保健室に行った方がいいんじゃない?アタシの声の所為で転んじゃったのよね。驚かせてごめんね!」
「いいえ、あたしは大丈夫です。こんなの、大した怪我じゃないですから……」

慌てて駆け寄って来た金髪の女子に、のろのろと立ち上がったファイツはそう言って無理やりに微笑んでみせた。膝は確かにずきずきと痛んだし、どういうわけか胸まで痛くなってしまった。けれど、とにかく今は一刻も早くここから離れたかったのだ。頭を軽く下げたファイツは逃げるように階段をかけ下りた。

「ああもう、恥ずかしいよ……」
「ファ、ファイツさん!その……だ、大丈夫だすか?」
「きゃあっ!」

自分しかいないと思ったから声に出したというのに、実際にはそうではなかったらしい。驚きからまたしても悲鳴を上げたファイツは、胸をどきどきさせたまま勢いよく振り向いた。以前剣道部の部室前で幼馴染を待っていた際に言葉を交わした、2人の男子生徒が視界に映る。悲鳴を上げた自分に負けず劣らず驚いた表情で硬直している男子を一瞥して、鋭い目付きをしている男子が口を開いた。

「……さっきも聞いたけど、すげー声だな」
「さ、さっきのって……。あの、もしかして……。き、聞こえちゃってたんですか……?」
「あ?聞き取り辛えよ、もっとでかい声で喋れって。……聞こえてたっつうか、お前がこけたところもしっかり見てたぜ。それにしてもあんなに派手にすっ転ぶなんて、お前ってとろいやつだな」
「う……」
「じ、女子にそんなこと言っちゃダメだすよ!ファイツさんも落ち込むことないだす!」
「何だよ、お前の方から女に話しかけるなんて珍しいじゃねーか。いつもガチガチになって動けなくなる癖によ」
「そ、それはファイツさんが心配になったからだすよ!あの、大丈夫だすか……?」

心配そうにそう尋ねて来た男子生徒に対して、ファイツはこくんと頷くだけで答えた。幼馴染の彼は別にしても、元々男子と話すのは苦手なのだ。そんな自分が親しくもない男子と、それもこちらを睨んでいる男子の目を見て話すのは珍しいことだ。彼のことを怖いと思ってしまったのが顔に出ていたのだろう、訛りがある男子が慌てたように手を振った。

「だ、大丈夫だすよファイツさん!怖い目付きをしてるのは確かだども、本当に睨んでるわけじゃないだすから」
「……おい、何言ってんだ」
「オ、オラはファイツさんに誤解されないように言っただけだす!とにかくそういうことだすから!」
「あ、あの……。えっと……?」

こちらの名前を憶えていてくれた相手に対して、ストレートに”あなたの名前は何ですか”と言うのは躊躇われたファイツは言葉に詰まった。しかし意外にも、目付きの悪い男子は言いたいことを察してくれたらしい。

「あー……。そういや名前を言ってなかったか?オレはヒュウ。……んで、こいつがペタシ」
「は、はい……。あ、ありがとうございます……」
「何でいちいち礼を言うんだよ、分かんねえやつだな。……分かんねえといえば、何で剣道部の部員じゃねえお前がこっちに来てんだよ。またラクツに用でもあんのか?」
「は、はい……。彼に、ちょっと話があって……」

ヒュウの言葉をファイツが肯定した途端、彼は舌打ちと共に足元に落ちていた小石を思い切り蹴飛ばした。多分慣れているのかペタシは何も言わなかったが、ファイツは軽く身を竦ませた。気付かないうちに、彼の気に障る発言をしてしまったのだろうか。

「……んだよ。お前もやっぱりラクツ目当ての女か?いつも思ってたけど、練習中にきゃあきゃあうるせえんだよ。部活を真面目にやってるこっちの身にもなれっつーんだよ」
「そ、そんなんじゃないです!」

気付けば、ファイツはそう口に出していた。自分でも驚くような声の大きさだった。びくびくと怯えながらもヒュウの目を見つめて、必死に言葉を紡ぐ。

「ほ、本当にそうなんです!別にあたしがラクツくんを……その、どうこうってわけじゃなくて……。ただ、ちょっと話があるだけで……っ」

そう言いながら、ファイツは軽く眉根を寄せた。どういうわけか、また胸がずきずきと痛み出したのだ。胸を打ったわけでもないのにどうしてと思いながら、「信じてください」と言葉を続ける。ファイツの言葉を遮って大きくはあっと溜息をついたヒュウは、軽く頷いた。

「あー、分かったよ。ったく、そんなに必死に弁解すんなよな。何だかオレが悪者みたいじゃねーか」
「ヒュウ、実際そう思われても仕方ないだすよ!何もしてないファイツさんに怒鳴るだなんて……!」
「黙ってろペタシ!……その……怒鳴ったりして、悪かったな」
「い、いいえ……。あたしは気にしてないですから……」
「ラクツを呼んで来る。ここで少し待ってろ」

言うが早いが、ヒュウは剣道部の部室まで走って行ってしまった。ペタシも彼の後を慌てて追いかけたことで、ファイツはその場に1人ぽつんと取り残されることとなった。

(ど、どうしよう……)

こんな道のど真ん中で話すのはどうかと思い、とりあえず大きな木の下に移動したファイツは胸に手を当てた。彼に話をする気で剣道部の部室まで行こうと思っていたのに、今更になってとてつもない緊張感に襲われることになってしまった。

「ど、どうしてこんなに緊張してるんだろう……」

首を傾げながら、ファイツはそう小さく声に出した。どきどきと胸がうるさい中で、時折ずきずきと胸が痛む気がして。ファイツは幼馴染の男の子を待ちながら、胸の辺りをぎゅうっと押さえた。