school days : 120
アタシの宝物
「おはよう、お姉ちゃん……」リビングのドアが開くと同時に耳に飛び込んで来たその声で、テーブルにお皿を並べていたホワイトは下に向けていた顔を上げた。例えどれ程忙しい時でも、家で挨拶をする時はちゃんと従妹の顔を見てしようと決めている為だ。ましてや引退した今、部活の朝練はもうないわけだから時間にかなりの余裕があるのだ。そんなわけでホワイトはいつも通りに従妹の顔を見て、そして笑顔でおはようと言いかけてそのまま固まった。口を半開きにした状態で、ファイツの顔をまじまじと見つめる。
「お姉ちゃん……?」
おずおずと従妹に呼びかけられたことで、たっぷり10秒くらいフリーズしていたホワイトはようやく我に返った。まるで掴みかからんばかりの勢いで、それは可愛がっている彼女にずいっと詰め寄る。
「ど、どうしたのファイツちゃんっ!」
「え?……お、お姉ちゃんこそどうしたの……?そんなに大声を出して……」
興奮している自分とは対照的に、ファイツはなおも小さな声で言葉を紡ぐ。元々おとなしい性格をしている彼女は日頃から控えめな声量で話すのだが、ホワイトが発した声に畏縮したのか困惑したのかその声は更に小さくなってしまっていた。そんなファイツに慌ててごめんねと謝ってから、ホワイトは言葉を続けた。
「大声くらい出すわよ、だってファイツちゃんの顔色がすごく悪いんだもの!それに何だか疲れた顔してるから、アタシはもう心配で心配で……!」
「え……。……そうなの?」
「そうよ!昨日、よく眠れなかったの?」
従妹という関係だけれど、それでもファイツのことをまるで妹であるかのように可愛がっているホワイトとしては、彼女の顔色が悪いという事実は自分の心を痛めるには充分過ぎる程の理由だった。眉根を思い切り寄せてそう尋ねると、ファイツはほんの少しの沈黙の後に口を開いた。
「あのね、実はちょっとだけ夜更かししたの。……あ、でもそれなりには眠れたと思うから大丈夫だよ?」
「それなりにじゃダメよ!夜更かしするのをダメとは言わないけど、無理だけはしないでね。そんな顔色してるんだもの、夜更かしした分今日は早く寝ること!……分かった?」
「う、うん……。じゃあ、洗面所に行ってくるね……っ」
「行ってらっしゃい、もうすぐご飯が出来るからね」
ありがとうと頷いてから洗面所に向かった従妹の背中をホワイトは見つめた、彼女の足取りが何だかふらついているように見えるのは気の所為だろうか?自分自身にそう問いかけてから、ホワイトはぶんぶんと首を振った。
(ううん……。気の所為なんかじゃないわ、絶対にふらついてた!ファイツちゃんはああ言ってたけど、もしかして具合が悪かったりするのかしら……)
叔母に「ファイツのことをよろしくね」と言われた身としては、従妹の体調が悪いかもしれないというのに学校に行かせるわけにはいかなかった。例え叔母の言葉がなかったとしても、ホワイトは元々ファイツのことを本当の妹のように大切に思っているのだ。無理に登校させて、体調不良で早退しましたなんてことになったら最悪だ。はあっと溜息をついたホワイトが体温計を戸棚の中から取り出してテーブルの上に置いたちょうどその時、オーブントースターが音を立てた。
(焼け具合はどうかしら?失敗してないといいんだけど……。このトースター、最近ちょっと調子がおかしいのよねえ……)
そう心の中で呟きながらキッチンへ向かって、トースターを開ける。するときつね色にこんがりと焼けたトーストが見えて、ホワイトはホッと息を吐いた。取り出した2枚のトーストをあらかじめ用意していたお皿に熱さを堪えながら置いて、更にその上にジャムを塗れば今日の朝食は完成だ。ジャムは従妹の好物である桃味なのだけれど、ホワイトもホワイトでこのジャムを気に入っていた。甘酸っぱい匂いが漂うパンが乗ったお皿を両手で持ってリビングへ戻ると、目をしきりに擦っているファイツの姿が視界に入った。まずは持っていたお皿をテーブルの上に置いてから、あくびを噛み殺している従妹の目の前に体温計を「はい」と差し出す。
「ファイツちゃん、ご飯の前に一応熱を計ってみてくれる?もし熱があったら、今日は休みなさい」
「えっ?……でも、あたしは大丈夫だよ?別に熱っぽくもないし、ちょっと寝不足なだけだから。わざわざ計らなくても大丈夫だよ」
「ダメよ、勝手に大丈夫だって判断しちゃ。今日は球技大会なんだから、体調には尚更気を付けないと!」
「う、うん……。分かった……」
小さく頷いたファイツが体温計を右の脇に挟んだことをしっかりと確認してから、ホワイトは椅子に座った。真正面に座る従妹の顔色はやっぱり、いつもと比べると格段に悪い。”この子は無理をする子だから、アタシが注意して見てないと”とホワイトが密かに意気込んだその時、体温計がピピっと鳴った。脇に挟んでいた体温計を取り出したファイツは画面を見て、そして「やっぱり大丈夫だったよ」と口にした。
「本当?」
「うん。ほら、見てお姉ちゃん。36.7℃だよ?」
「そうね……。でも、今日は早く寝た方がいいと思うわ」
「うん、そうする!……じゃあ、食べていい?」
「もちろん!簡単な物で悪いけど、いただきます」
「そんなことないよ。いつもありがとう、お姉ちゃん。いただきます!」
自分に倣って両手を礼儀正しく合わせたファイツは、美味しそうと呟いてからこんがりと焼けたトーストをかじった。途端に瞳を大きく見開いた従妹はもぐもぐと夢中で咀嚼して、そして飲み込んだ後に再びトーストを食べた。どうやら、余程美味しかったらしい。その反応がもう可愛くて仕方なくて、ホワイトは思わず声を上げて笑ってしまった。
「な、何?……あたし、何か変なことしちゃった?」
「ああ、そういうわけじゃないのよ。ただファイツちゃんが可愛くてしょうがないから、つい」
「え、ええ……?」
自分の言葉に困惑したのか、ファイツは眉根を寄せて首を傾げた。もう数え切れないくらいそう告げているけれど、ホワイトはやっぱりこの子のことを可愛いと思う。それに可愛いだけじゃなくて、この子はいい子でもあるのだ。今日は早く寝なさいと発言したことについては自身でもちょっと過保護かなとは思ったのだけれど、それでもファイツは口答えをすることなく素直に頷いてくれた。こんなに可愛くて素直でおまけにいい子である女の子が自分の従妹であったことは、とてつもない幸運だったとホワイトは日頃から思っているのだ。ありがとう神様なんて、心の中で呟いてみる。そして同じ女の目から見てもこんなに可愛いのだから、この子に好意を抱いている男の子はやっぱりいるのではないだろうかとホワイトは思った。
「……やっぱり、アタシはいると思うんだけどなあ」
「いるって、何が?」
「んー?それは決まってるじゃない、ファイツちゃんを好きな男の子よ。だってこんなに可愛いんだもの、絶対1人や2人はいるはずだってば。ただ、ファイツちゃんが気付いてないだけで」
「お、お姉ちゃんっ!変なこと言わないでよ……っ」
「ふふ、ファイツちゃんたら顔が真っ赤よ?」
「そ、それは!お姉ちゃんがそういうことを言うからだもん……。あたしを好きになる男の人なんて、いるわけないよ……」
「そうかしら?」
「そ、そうなの!そ、それにあたしには……もう好きな人がいるもん……っ」
これ以上この話題を続けるのが恥ずかしいのか、顔を赤らめてしまったファイツは黙り込んでトーストをかじった。今の今まで食べないでいた朝食に、ホワイトもようやく手を伸ばす。ジャムを塗ったトーストと目玉焼きとオレンジジュースという簡単にも程がある朝食だけれど、それでも喜んで食べてくれる従妹はやっぱりいい子だとホワイトは思う。甘酸っぱいジャムを塗ったトーストを食べながら、ホワイトは柔らかい眼差しでファイツのことを見つめた。
(こんなに可愛くていい子なんだもの……。N先生にファイツちゃんの気持ちが届いて欲しいな……)
それなりの量のジャムを塗ったのだけれど、やはりトーストばかり食べているとどうしても水分が欲しくなってしまう。その欲求に従ったホワイトは、オレンジジュースを勢いよく胃に流し込んだ。ジュースがもう少しでなくなるというちょうどその時、ファイツの小さな声が耳に飛び込んで来た。
「……あ、あたしのことよりお姉ちゃんの方はどうなの?昨日は訊かなかったけど、ブラックさんと何の話をしたの?」
「け、けほっ!」
あわや、もう少しで口の中の物を吐き出すところだった。そうならなくて、本当に良かった。何だか前にもこんなことがあったような気がする……。けほけほと盛大にむせながら、ホワイトは口元を押さえた。何の偶然か、ブラックのことを訊かれたところまで似通っている。慌てて「ごめんなさい」と謝った従妹に大丈夫よと目だけで答えて、ホワイトは大きく息を吐いた。気を落ち着かせる意味でも数回深呼吸して、そして口を開く。
「別に、大したことを話したわけじゃないわよ。進路のこととかクラスのこととか……まあ色々よ。ほら、アタシ達ってクラスメートだし」
「本当?お姉ちゃん、ごまかしてない?」
「もう、本当だってば!」
事実そうだった。教室で話す時とは比べ物にならないくらいに緊張したものの、彼と本当にはたわいもないことを話しただけなのだ。それでも興味津々な瞳を向けてくる従妹に、ホワイトはコホンと咳払いをしてから応じた。
「だいたい、アタシとブラックくんはそういう関係じゃないわよ。ただのクラスメートだから」
「え。……そう、なの?」
「そうよ、確かにブラックくんはかっこいい顔してるけど。……でも、別に特別好きってわけじゃあないわよ?」
「…………」
昨日ブラックに”特別好きだ”と言われてしまったことをふと思い出して、そっと目を伏せた。あれはきっと、単なる言い間違いに過ぎなかったのだろう。そうに決まってるわよねと、ホワイトは胸の中で呟いた。ちなみにこのことは大好きな従妹にも言っていない。流石に気恥ずかしくて話す気になれなかっただけのことなのだが、今となってはそれで正解だったと思っている。
(だって……。アタシはあんなことを言われて変に意識しちゃったけど、ブラックくんは普段と変わらなかったし……。もう、ブラックくんたら紛らわしいにも程があるわよっ!アタシだけこんなに意識しちゃってたなんて、バカみたいじゃない!)
彼の家で2人きりになったのだけれど、別に何があったわけでもなかった。しかし、もしかしたら何かを言われるかもしれないと内心密かに身構えていて、彼が何かを言う度に心臓をどきどきさせていたのも事実で。そんな自分自身を思って、ホワイトははあっと大きな溜息をついた。ホッとしたような少しだけ残念なような、何とも複雑な気持ちだった。
「ご、ごめんなさい……っ!あたし、お姉ちゃんはブラックさんのことを好きなんだって思ってて……。あたし、余計なことしちゃったみたいだね……」
自分が溜息をついたことを悪い意味に取ったのだろう。しょげた顔をして謝って来た従妹に対して、ホワイトは慌てて「そんなことないわよ」と言った。ついでに、大袈裟なくらいに手をぶんぶんと横に振ってみせる。
「ファイツちゃんが謝ることはないわよ、だってアタシ1人じゃブラックくんの家には絶対行けなかったもの。家の場所を知らないっていうのもあるけど、クラスメートの男子の家に1人で行くのはやっぱり抵抗があってね。ファイツちゃんが一緒に行ってくれて、本当に助かったんだから!」
「ほ、本当……?」
「ええ。……まあ本音を言うと、アタシもブラックくんのことはちょっとだけ気になってたんだけどね。でも、本当にちょっと気にしてただけだから。だから、ファイツちゃんがそんな顔をすることはないのよ?」
大好きな従妹に落ち込ませたくなかったホワイトは意を決して告げたのだが、やはりこういうことを話すのは何とも気恥ずかしかった。顔に熱が集まるのが自分でも分かって、お皿の上に置いた食べかけのパンに視線を落とす。桃のジャムが窓から射し込んだ朝日に照らされて、やけに眩しかった。
「……やっぱりお姉ちゃんって、ブラックさんのことをちょっとは気にしてたんだ?」
「そ、そりゃあそうよ。だってブラックくんの顔立ちって……ううん、ブラックくんだけじゃなくてラクツくんもそうか……。とにかく、あの兄弟は揃ってかっこいい顔してるんだもの……。やっぱり意識しちゃうわよ」
「え……」
「あ、そうだ!ラクツくんといえば……。ファイツちゃん、悪いけど彼にこう伝えてくれる?”あの件は今度の土曜日にして欲しい”って」
「…………」
「……ファイツちゃん?」
従妹の返事がすぐに来なかったことを訝しんだホワイトは、彼女の名前を呼んだ。ホワイトの呼びかけから数秒遅れて、ファイツが「どうしたの」と口にする。
「それはこっちの台詞よ。どうしたの、そんなにぼうっとして」
「あ、えっとね……。ち、ちょっとだけ考え事をしてただけなの。ごめんねお姉ちゃん、もう1回言ってくれる?」
「もう、ファイツちゃんったら。あのね、ラクツくんにこう伝えて欲しいの。例の件は、今度の土曜日にして欲しいって」
「…………例の件って、何?」
「え?……だから、ラクツくんに数学を教えてもらう件よ。昨日ブラックくんの家で話したでしょう?アタシが無理を言ってお願いしたのよ、彼ってアタシより数学が得意みたいだし。ほら、ファイツちゃんの目の前で話したじゃない」
「……そんな話、したっけ?」
そう言って首を傾げた従妹は文句なしに可愛い。間違いなく、誰が見てもそう思うだろう。けれど、ホワイトはそう思うと同時に心配になってしまった。だって、ホワイトは従妹の目の前でその話をしたのだ。
「し、したわよ!?やだファイツちゃん、本当に大丈夫?ああ、よく見れば何だか顔も赤いような気がするし……。やっぱり、具合が悪いんじゃないの?」
「そ、そんなことないよ!もう、お姉ちゃんはあたしを心配し過ぎだよ……っ」
「ファイツちゃんてば無理するところがあるんだもの、心配するのは当たり前よ。一応念を押すけど、本当に体調が悪いわけじゃないのよね?」
「うん……あたしは大丈夫。本当に、ちょっとぼうっとしちゃっただけだから。ほらお姉ちゃん、早く食べないと遅刻しちゃうよ?」
笑ってそう言った従妹の顔色は相変わらず悪かったのだけれど、本人が”大丈夫”と言うならきっとそうなのだろう。それでもやっぱり彼女のことを心配してしまう自分に内心で苦笑しながら、ホワイトは音を立ててトーストをかじった。