school days : 118
訊きたいけれど訊けなくて
コンビニのレジで会計をしている幼馴染の背中を少し離れた場所から見ていたラクツは、それは大きな息を吐いた。若い男の店員はまるで品定めをするような目付きでじろじろとファイツを見ているのだが、当の本人は財布の中の小銭を探すことに集中しているのかその事実に微塵も気付いていない。”可愛くなんてない”と彼女は言ったが、その自己評価は事実とは真逆にも程があるとラクツは思っている。自分が心底惚れているからという理由を抜きにしても、ファイツは可愛い顔立ちをしていると思う。多分、大多数の男がラクツと同じ意見を述べることだろう。しかし、ラクツはその事実を言及するつもりは更々ない。そういうことに対して疎いらしいあの娘にわざわざ教えてやる必要があるとは思えなかった、本人が気付いていないのなら尚更だ。だが、それにしても鈍感なものだとラクツは小さく嘆息した。鈍感で人の目を気にする割に、ファイツはそういうことに関してかなり無頓着だった。コンビニに行くと言ったあの娘が単身歩き出してしまった時、ラクツは正直肝を冷やした。まだそれ程遅くない時間だったから1人で出かけたのだろうが、それを黙って見過ごすわけにはいかなかった。例え幼馴染としての情しか抱いていなかったとしても、放ってはおけなかったことだろう。万が一何か遭ったらどうするんだと内心で大いに焦ったラクツは、自室に戻って素早く外出の準備を整えた。そしてブラックとホワイトに「彼女を追いかける」と言い残して、家を飛び出したのだ。幸いなことに、ファイツは家を出てすぐに見つかった。女である彼女と男である自分の歩幅が違うというのもあるが、何よりもラクツ自身がファイツに追いつこうと必死だったことが大きいのだろう。無事彼女に追いつけたまでは良かったのだけれど、自分に名を呼ばれて振り向いた当の本人は何とも不思議そうな表情をしていた。彼女らしいといえば彼女らしい反応なのだが、それに脱力感を覚えたのは事実だ。コンビニに来るまでの道すがらで男がどういう生物なのかを説いたものの、ファイツは多分こちらの言いたいことを本当に理解してはいないだろうとラクツは思った。ファイツは一応は頷いたが、その瞳には確かな困惑の色が見られたからだ。
(まったく……。正直、危なっかしくて見ていられないな)
もちろん、この娘と2人きりになりたいからという邪な理由も根底にはある。しかし、彼女の身が心配だからそれ故にファイツを追いかけたというのもまた事実なのだ。気が強いとはお世辞にも言えない性格をしている彼女にとっては、万が一男に襲われたとしても激しく抵抗することは難しいだろう。例えそれが出来たとしても、男の力の前では抵抗していないのと同義だ。正直そういう場面を想像するだけで非常に腹立たしい気持ちになるのだけれど、それでも言わずにはいられなかった。
「…………」
ようやく小銭を探し出したらしいファイツは、先程から男の店員と会話を交わしていた。それは誰の耳にも単なる世間話にしか聞こえなくて、だからこそ人見知りが激しいファイツもはにかみながら応対していたのだろう。しかし、ラクツは不快感しか感じなかった。男の店員は声色こそ穏やかで人の良さそうな笑みを浮かべていたが、その目の奥には怪しい光が宿っていた。明らかにファイツのことを狙っている目付きだった。
言った側からこれだと、ラクツは胸中で嘆息する。案の定ファイツは男にいやらしい目付きで見られていることに微塵も気付いていなかった。すぐに意識を変えられるはずもないと理解してはいるものの、それでも危機感がなさ過ぎるとラクツは思った。危機感がないにも程がある、もし彼女1人で来させていたら本当に男に襲われていたかもしれない。
「ま……待たせちゃってごめんね、ラクツく……きゃあっ!」
半ば無理やりだけれど、彼女について来て正解だったと思った直後のことだった。釣銭を渡した店員に対して軽く会釈をしたファイツは、余程焦っていたのだろう。身体の向きを変える際に商品棚の角に爪先をぶつけて体勢を崩した。ラクツは反射的に彼女の腕を取って、その身体を支えてやる。自然と想い人と至近距離で目が合う形になり、思わずラクツは硬直した。意図せず間近で彼女の顔を見てしまったわけだが、やはりこの娘は堪らなく可愛いと思った。
「…………」
「…………」
レジにいる男の店員のみならず、数人の客の視線をその身に受けたラクツは内心で嘆息した。店内にはどう見ても自分達より歳上の客しかおらず、つまりは学校で噂になる心配をせずとも良さそうなことが救いだったのだが、人の注目を浴びることに恐怖心を感じるファイツにとっては堪ったものではないだろう。正直言ってかなり名残惜しくはあるものの、ラクツは彼女の手を静かに離した。そして溜息混じりに「大丈夫か」と尋ねる。
「う、うん……」
蚊の鳴くような小さな声でそう答えたファイツの顔は、真っ赤に染まっていた。続けてファイツは「ありがとう」と口にしたが、その言葉はラクツでもよく耳を澄まさなければ聞こえない程小さな声だった。今のファイツは明らかに恥ずかしがっているようにしか見えないが、その事実を察してもラクツの心は高揚しなかった。分かっている、彼女の想い人は自分のクラスの担任だ。顔が赤面したのは、単に間近で見つめ合った故にだろう。
「……行こう」
こちらの言葉に頷いた彼女が握っていたレジ袋を代わりに持って、ラクツはファイツを伴って歩き出した。ありがとうございましたと言った男の店員のものだろうか、突き刺さるような視線を感じる。大方、自分達は恋人か何かと思われたのだろう。実際には単なる幼馴染でしかないわけなのだが、それでも個人的には悪くない気分だった。同時に少しの虚しさも感じたけれど、それを表情には出さずにラクツは歩いた。コンビニから出て30秒程が経過した頃だろうか、それまで無言で歩いていたファイツは不意に「あ!」と声を上げた。
「どうした?」
「ラクツくんに持たせちゃってたみたいで、その……ごめんなさい!あたし、ぼうっとしてて全然気付かなかった……っ」
申し訳なさそうに眉根を寄せた表情をしているファイツは、ラクツが右手に持ったレジ袋に向かってそっと手を伸ばした。しかしラクツは何も言わずに腕を動かして、彼女の手からレジ袋を遠ざける。
「……え?」
「ボクは構わない。それなりに重さがあるし、このままボクが家まで持つ」
「そんな!いいよ、ラクツくんに悪いもん!それはあたしが買った物だし、第一ラクツくんに持ってもらう理由がないし……っ」
「……先程転びかけたキミに重い物を持たせるのは気が引けるから、では理由にならないか?色々と無防備なことといい、少々心配でな」
「う……っ」
「出来ることなら、このまま持たせてくれるとボクとしても安心出来るわけだが。強制はしないが、どうする?」
「あ、あの……。それじゃあ、お願いします……」
しばらく沈黙した後に律儀に頭を下げたファイツに頷き返して、ラクツは歩を進めた。自分にとっては大したことはないが、女であるファイツには少しばかり肉体に負担がかかる重さだ。デザートだけではなく、わざわざ飲み物を、それも人数分買ったことが大きいのだろう。暗い夜道を黙々と歩きながら、やはり自分が持って正解だったとラクツは改めて思った。
「やっぱり、すっごく優しいなあ……」
ふと、自分の後方から彼女の声が耳に飛び込んで来て。前方を見据えながら、ラクツは思わず苦笑した。おそらくは胸中で呟いたのだろうが、その声はしっかりと自分に聞こえてしまっている。
「……優しいのはキミの方だろう」
「え……。……えっ?」
「声に出ていた。ボクよりは、キミの方がずっと優しいと思うが」
そう言いながら振り向くと、気まずそうに両手の指を触れ合わせたファイツの姿が視界に映る。いったんは合った視線をそろりと逸らした彼女は、呟くように「聞こえちゃった?」と尋ねた。
「ああ。耳はいい方だし、何より周囲は静かだからな」
「そ……そう、なんだ……。何か、ちょっと恥ずかしいかも……」
その言葉通り、ファイツの顔は赤く染まっていた。間違っても声には出さないように気を付けながら、ラクツは「期待するな」と自分に言い聞かせた。ファイツの顔が見るからに赤くなっているのは、彼女が恥ずかしがりやな性格をしているからに他ならない。決して、そういう意味で赤面しているわけではないのだ。
「あ!そういえば、ラクツくんにお礼をまだ言ってなかったよね?あたしの代わりに持ってくれて、ありがとう!」
「どういたしまして。ボクとブラックの分まで飲み物を買ってくれたことの礼だと思ってくれ。ファイツくんの気持ちはありがたいが、別にそこまで気を遣わなくても良かったんだぞ?」
「……あ、あのね!えっと、あたしも買いたい物があったから……。だから、必要以上に気を遣ったわけじゃないんだよ?」
「買いたい物?……ああ、この”デラックスチョコレートパフェ”か。本当にキミはパフェが好きだな」
「ち、違うよ!それはお姉ちゃんの分だよっ!……あたしのは、こっち」
その言葉と共に、ファイツはレジ袋の上から人差し指を突き付けた。その指は、ファイツの好物であるパフェではなく寒天ゼリーを指し示している。思ってもみない答に、ラクツは袋の中身から幼馴染へと視線を移した。てっきり、このパフェが彼女の物だと思い込んでいたのだ。
「……珍しいな。キミがパフェ以外を選ぶとは思わなかった」
「うん……。一度、食べてみたかったから。……本当は、あたしもお姉ちゃんと同じ物にしたかったんだけど」
「ああ……。そういえば、キミは商品棚の前で随分と悩んでいたな」
「正直、すっごく迷ったんだけどね。でも、たまにはこういうのもいいかなって思ったの。ワイちゃんが前に美味しかったって教えてくれたし、何より低カロリーだから」
「ダイエット、か。ボクに止める権利はないことは理解しているが、どうか無理だけはしないで欲しい」
「う、うん……。うう、どうしよう……」
「うん」と言ったすぐ後で、ファイツは深い溜息をついた。小さな声量だったものの、何だか重い悩みを抱えていそうな声色だった。
「どうしたんだ?」
「えっと……。実は、すっごくパフェが食べたくなって来ちゃって……。パフェの話をしたからかなあ……」
「……今から買いに戻るか?」
少々脱力感を覚えたものの、本人にとっては深刻な悩みなのだろう。先程のコンビニに戻るなら早い方がいいと、ラクツは真面目な顔をして告げる。すると、ファイツは慌てて首を横に振った。
「う、ううん!そこまでして食べたいわけじゃないし、いいよ!それに、パフェを買わないって決めたのはあたしだもん……!」
「パフェ、か……」
ファイツはそう口にしたが、その瞳は明らかに”パフェが食べたい”と言っていた。落ち着かない様子で手を動かしている彼女を、ラクツは無言で見つめていた。ふと思いついたこの妙案を、彼女はどう受け止めるだろうか。
「……ラクツくん?……どうしたの?」
足を止めてしまった自分のことを訝しんだのだろう。こちらを追い越したファイツは振り返って、不思議そうに小首を傾げてそう尋ねた。辺りは暗いのだが、彼女の蒼い瞳がやけに眩しいとラクツは思った。
「…………」
依然として口を開かない自分を見つめる彼女の瞳は、ゆらゆらと揺らめいている。ファイツは何も言わなかったけれど、きっと不安に苛まれているのだろう。眉根を寄せて、地面に視線を落としてしまった。そんな彼女に、ラクツは心の中だけで謝罪した。ファイツに余計な心労をかけたことは申し訳ないと思う、だがラクツだって心の準備というものが必要なのだ。
今や、心臓は早鐘を打っていた。正直迷いもしたし怖いとも思うけれど、それでもそれ以上に言いたいという気持ちの方が強かったのだ。ファイツのことをまっすぐに見つめて、口を開く。
「……ファイツくん。駅の向こう側にある、黒と白という名の喫茶店を知っているか?何でもあまり人に知られていない店で、かなり分かりにくい場所にあるらしいが」
「え?……えっと……。……ううん、知らない……」
「そうか。……もちろんキミさえ良ければの話だが……。今度、その店に行かないか。ある人に聞いたんだが、その店の名物はパフェだそうだ」
「え……」
地面を見つめていたファイツは、ゆっくりと顔を上げた。自然と目が合うことになり、ラクツの心臓は更に早鐘を打った。けれど、ラクツは素知らぬ顔で言葉を続ける。もしかしたら、ファイツをデートに誘えるかもしれない。
「ダイエットのことを気にしているのなら、その喫茶店で勉強した後にパフェを食べれば問題はないだろう。疲労回復には、糖分が有効だからな」
「で、でも……」
「…………」
「でも……。ラ、ラクツくんは甘い物が苦手でしょう?それなのに、いいの……?」
耳を澄まさなければ聞こえない程の小さな声で、ファイツはそう言葉を発した。”でも”の後の第一声がそれだったことに、ラクツは思わず目を見開く。ファイツを誘っておいて何だけれど、もしかしたら断られるかもしれないと思っていたのだ。そうなったとしても仕方がないと思う、何しろこれはデートだ。もっともらしい理由をつけたとはいえ、2人きりで喫茶店に行くわけで。誰が何と言おうと、ラクツにとってはこれはもうデート以外の何物でもない。
しかし、ファイツは「ううん」とは言わなかった。”2人きりで行くのはちょっと”だとか、もしくは”誰かに見られるかもしれない”だとか。そういう言葉を口にするのでもなく、まずこちらのことを気遣う彼女の反応に、ラクツは純粋に驚いた。眼前にいるファイツは、呆然とした顔でその場に立ち尽くしている。
「ボクのことなら心配は要らない。パフェもそうだが、コーヒーも美味しいそうだ。実は以前から少々気になっていたんだが、流石に男1人では入り辛くてな」
「あ……」
「もちろん、キミが嫌なら無理にとは言わないが」
「い、嫌じゃないよ!」
「……言い忘れていたが、ボクに気を遣う必要はないぞ」
「そ、そんなことないよ……!ラ、ラクツくんさえ良ければ、その……。えっと、そのお店にあたしも一緒に行っていい?」
「ああ。ファイツくんにそう言ってもらえて、嬉しい。……ありがとう」
「…………」
ファイツは何も言わずにこくんと頷いた。それを見届けたラクツは、話が終わったのだからと再び歩き始めたが、ゆっくりとした足取りとは裏腹にその胸中は紛れもなく高揚していた。少々強引なような気もするが、それでもラクツはきちんと逃げ道を用意したのだ。嫌なら無理にとは言わないと告げたし、気を遣う必要はないとも言った。しかし、ファイツは嫌じゃないと言ってくれたのだ。
自分にその店の存在を教えてくれた、苦手意識を抱いているあの女の先輩に感謝をしつつ、ラクツは自分のすぐ近くを共に歩いている彼女に想いを馳せた。想い人がいるはずの彼女は、しかし自分の誘いを断らなかった。もしかしたら、この娘はパフェに釣られただけかもしれない。幼馴染だからまあいいだろうと、勢いで承諾したのかもしれない。だが、ラクツからすればこれは紛れもないデートなのだ。実際には訊けるはずもないのだけれど、それでもラクツはそうしたくなった。果たして、彼女はこれをデートと認識したのだろうか。そして何より”ボクのことをどう想ってくれているのか”とファイツに尋ねたくて堪らなくなって、ラクツは大きな溜息をついた。