school days : 117
分からない
自分の従姉は、多分ブラックのことが好きなのだろう。本人の口からはっきりと気持ちを聞いたわけではないけれど、ファイツはそう思っていた。帰宅して来るなり図書室から借りた本をどこかに忘れて来たかもしれないと言ったホワイトは、そわそわと落ち着かない素振りを見せていた。そんな従姉に、「もしかしたらブラックさんが家に持って帰ったのかも」と言ったのはファイツだ。彼女の話を詳しく聞いてみると、どう考えてもそうとしか思えなかった。「やっぱりファイツちゃんもそう思う?」と訊かれたファイツは大きく頷いて、そしてクラスメートの家の場所も連絡先も知らないらしいホワイトの案内役を買って出たのだ。ブラックの家は、即ち自分の幼馴染の家でもある。当然自宅から目的地までの道順をきちんと把握していたファイツは、ホワイトと歩く道すがらで大好きな従姉の為に一肌脱ごうと考えていた。自分達に応対した幼馴染に呼ばれて食器を洗っていたらしいブラックが玄関先にやって来ると、ファイツはさも今思い出したかのように両手を合わせて「コンビニで何か買って来ます」と言い放った。こんな時間に、それも手ぶらでお邪魔してしまったわけだし、何よりホワイトにブラックと話す時間を贈りたかったのだ。もしかしたらお節介かもしれないけれど、日頃から彼女に色々とお世話になっている身としては、どうしてもこの機会を無駄にはしたくなかった。焦った様子で自分を呼び止めるホワイトの声には気付かない振りをして、ファイツはブラックの家を後にした。……そう、そこまではファイツの計画通りに事が運んでいたのだ。唯一にして最大の計算違いは、自分の幼馴染が一緒に来てしまったことにある。
(……どうしよう)
暗い夜道の中を歩きながら、ファイツはそう心の中で呟いた。視線だけをそっと横に向けると、黙々と歩いている幼馴染の横顔が目に入る。
「……何だ?」
「……っ」
ファイツは、ほんの少しだけ視線を彼に向けただけだった。顔を動かしたわけでも名前を呼んだわけでもないのに、しかし彼は自分の視線に気付いてそう問いかけて来た。途端に心臓が大きく跳ねて、ファイツは肩をびくりと大きく震わせる。
「ファイツくん?……どうかしたのか?」
「えっと……。な、何でもないの。ちょっと驚いただけだから……」
訝しげに呟かれた彼の言葉に首を横に振って答える。実際には”ちょっと驚いた”どころではないくらいに心臓は高鳴っていたのだが、それを正直に言うわけにもいかない。「ラクツくんに見られてどきどきしました」なんて言えない、絶対に絶対に言えるわけがない。
(ど、どうしてこんなに見つめられてるんだろう……)
何も言わずに、ただひたすらこちらを見つめて来る幼馴染の視線が突き刺さる。何故これ程までに見つめられてしまうのか、その理由はちゃんと分かっていたのだけれど、それでもファイツは心の中でそう呟いた。どきどきしてもう仕方なくて、口を開かずにはいられなかった。
「ど……どうしたの、ラクツくん。ちょっとびっくりしただけだから、あたしは大丈夫だよ?」
普段より数段明るい声色でファイツはそう口にしたものの、内心では幼馴染に何を言われるのだろうという不安でいっぱいだった。そしてその不安によるものとは無関係に、ファイツの心臓はどきどきと高鳴ってうるさかった。何しろ、依然として彼は無言のままでこちらを見つめているのだ。あまりにじっと幼馴染に見つめられるものだから、ファイツの顔には熱が集まってしまった。まるで、身体中の熱が顔に集中したかのような熱さだ。それを自覚したファイツは今が夜で良かったと心の底から思った。朝や昼ならともかく、この暗がりの中では闇に紛れて顔色までは見えないはずだ。
そのはずなのだけれど、それでもラクツは自分を見つめたままだった。間違いなく、彼は自分の言動を訝しんでいるに違いない。自分でも大袈裟だと思う程に身を大きく震わせた癖に、ファイツはそれを正直に言わなかった。誰だって訝しんで当然だ、ましてや彼は鋭い観察眼を持っているのだ。例えば「嘘だな」とか、もしくは「何を隠しているんだ」だとか。そういった言葉を投げかけられたとしても、何ら不自然ではない……。
「……そうか」
けれどファイツの予想に反して、ラクツはそう言った。普段通りの、静かで落ち着いた声色だった。顔を前に向けた幼馴染に小さく「うん」と言って、ファイツもまた彼に倣った。ラクツは何も言わなかったけれど、おそらくは自分の態度に疑問を持ったはずだ。それでも優しい彼のことだ、きっと自分を気遣ってあえて追及しなかったのだろう。申し訳ないと思いつつも、それ以上にありがたかった。
しかし深く追究されなかった事実に安堵する間もなく、今度はファイツの身を気まずさが襲った。幼馴染も自分も黙っているから、当然この場には沈黙が落ちることになるのだけれど。その重い沈黙が、ファイツには気まずくて仕方がなかった。気まずくて気まずくてどうしようもなくて、とうとうファイツは口を開いた。
「お、お姉ちゃんとブラックさん……。今頃、何の話をしてるんだろうね?」
「……さあな。あの2人は受験生だから、志望校や将来の夢についてのことを話しているのではないかとボクは思っているが」
「そ、そっか……。夢っていえば、ラクツくんは将来警察官になりたいんだってね。この前ラクツくんのお父さんに偶然会って話を聞いたんだけど、おじさんがそう言ってたよ」
「ああ。キミとスーパーで会ったという話なら、ボクも父さんから聞いている」
「そ……。そう、なんだ……?」
彼の父親と会ったという話でコンビニまでの間を持たせようと考えていたファイツは、上擦った声でそう答えた。彼がもう聞いているというなら、この話をしても意味がない。それなら何の話をすればいいんだろうと声に出さずに呟いて、ファイツはふとあることを思い出した。そういえば、映画のチケットをもらったお礼をまだ言っていなかった。
「あ、あの……。今更だけど、映画のチケットをありがとう……。あたし、まだお礼を言ってなかったよね?本当に、あたしがもらっちゃっていいの?」
「あれは、知り合いから半ば無理やりに渡された物だ。キミが気に病む必要はない」
「う、うん……。でも、ラクツくんは……。その……」
”ラクツくんは映画に誘いたい女の子とかっていないの?”と声に出しかけて、寸でのところでその言葉を飲み込んだ。言葉を途中で切った自分の反応に、幼馴染が怪訝そうに視線を浴びせて来る…。
「ううん……。何でもない」
ちょっとだけ迷ったものの、ファイツは首を横に振って何でもないと答えた。そう尋ねるということは、即ち気になる女の子がいるのかと訊くことと同義だ。いくら自分達が幼馴染といえども、そんな立ち入ったことを訊くのはどうかと思ったのだ。何となくだけど、尋ねてはいけないような気がした。訊かないことを選んだ途端に、ファイツの心の中は安心感でいっぱいになった。
(……うん、やっぱり言わないで良かった。これ以上気まずくなるのは嫌だもん……)
幼馴染の答がどうであれ、そんな言葉を口にしたら今より気まずくなってしまうことは確実だろう。そうなってしまったら困る、大いに困る。お喋りが得意とはお世辞にも言えない自分に、その場を切り抜けられる手腕があるとはとても思えない。やっぱり訊かなくて良かったと心の中で呟いて、またも「そうか」と言った幼馴染に「うん」と返した。そのまま前を向いてしばらく無言で歩いてみたのだけれど、やっぱりどうにも気まずかった。彼の方から何か話題を振ってくれたらいいのにと思いながら結局それを言うことも出来ずに、ファイツはおずおずと隣を歩く幼馴染に対して話しかけた。
「そういえば……。この道って、外灯が全然ないんだね……」
「ああ。……怖いか?」
「ちょっとだけ……。……ううん、かなり怖いかも」
「そうか……。やはりついて来て正解だったな。キミは先程ボクに悪いからいいと言ったが、そんなことを気にしている余裕は最早ないだろう?」
「う、うん……。ラクツくんの言う通り、ついて来てもらって良かったよ……。あたしが頼んだわけじゃないのに、本当にありがとう……」
そう、ラクツはこちらがお願いしたわけでもないのにコンビニまで一緒に行くと言ってくれたのだ。単純に悪いからという理由と、どうしてか最近彼にどきどきしてしまうファイツは思わず「1人で大丈夫」と言ったのだけれど、ラクツがその言葉を聞き入れることはなかった。最初はどうしようなんて思っておきながら、しかし今は彼が来てくれて本当に良かったと感じている自分は何て現金なのだろうと苦笑した。
「以前暗闇が怖いとボクに言っていた割には、夜道を1人で歩くことに抵抗がないんだな」
「う……。それは、まだ夜の8時にもなってなかったし……。それにコンビニまで一番近い道が、まさかこんなに暗いなんて思わなかったからだもん……」
「……なるほど。だが……例え外灯に照らされた大通りをキミが歩いたとしても、ボクはファイツくんについて行ったが」
「え……?……ど、どうして?」
もしかして、ラクツも自分と同じようにホワイトに気を遣ったのだろうか。ホワイトをブラックと2人きりにさせる為に、自分を追いかけて来たのだろうか。そう思いながら、ファイツは彼の顔を見た。幼馴染に見つめ返されることによって途端にどきどきと心臓が高鳴ったけれど、それは自分の今の気分が高ぶっているからに違いないと言い聞かせる。
(ラクツくんって鋭いし、お姉ちゃんの気持ちに気付いて気を遣った可能性は充分にあるよね……。それとも実はブラックさんに気を遣った、とか……?もしそうだったら、お姉ちゃん達って両想いってことだよね……!)
自分の考えが当たっていたら、どれ程いいだろう。ファイツは胸を高鳴らせながら幼馴染を見つめた。”おめでとうお姉ちゃん”などと、心の中で好き勝手に叫んでみる。しかしラクツは自分の問いにはすぐには答えずに、黙ってこちらを見返すだけだった。心なしか、彼の眉間の皺が深くなったような気がする。
「ボクがそう言った、その理由が分からないのか?」
「……う、うん」
「……本当に?」
大切な従姉の恋心を勝手に明かすのはどうにも躊躇われたファイツは、曖昧にこくんと頷いた。それでもしばらくの間黙っていたラクツは、やがて長い息を吐いた。
「分かっていたことだが……キミは本当に鈍いな。ボクがファイツくんを放っておけないからに決まっているだろう」
「……え?」
てっきりブラックの家にいる2人のことを理由として挙げるのだと思い込んでいたファイツは、予想外の答に思わず間の抜けた声を出した。しかし、幼馴染は真剣な表情を崩さなかった。
「いいか、キミは女なんだぞ。例えそれ程遅い時間でなくとも、夜に1人で出歩くのは感心しないな。きっといつか、そのうちに怖い目に遭うぞ」
「え、えっと……」
「女のキミでは男の力に適わないだろう?それに、無事に逃げ切れるとも思えない。現に……ファイツくんは先程、簡単にボクに追いつかれただろう」
「で、でも……。それは、ラクツくんの足が速かったからでしょう?あの、ラクツくんの言うことも分かるけど……。あたしには関係ないことだよ……」
「……何故そう言い切れる?」
「だ、だって……」
射抜くような幼馴染の視線をまともに受けたファイツは、忙しなく指を触れ合わせながら反論する。目を逸らしたいと頭では思うのだが、どうしても顔を動かすことが動かなかった。だから仕方なく、ファイツは彼の顔を真正面から見つめたまま言葉の続きを口にする。
「だって、あたしは可愛くないもん……。可愛い女の子なら分かるけど、あたしが男の人に狙われるはずがないよ……」
「ボクはキミを本当に可愛いと思っていると、つい先日告げたはずだが」
「そ、それは……」
あえて深く考えないようにして来たはずだった。気にしないようにしようと、そう自分に言い聞かせて来たのに。それなのに……再び幼馴染に可愛いと言われてしまったことで、ファイツの心臓は激しく音を立てた。
(も、もう!ラクツくんも、そんなに真顔で言わなくてもいいのに……!これじゃあまるで、ラクツくんが本気でそう思ってるみたいじゃない!!)
たった今本当にそう思っていると言われたことは棚に上げて、ファイツは心の中で思い切り叫んだ。きっと……きっと、彼は自分を諭す為にそう言ったのだろう。そうに違いないはずだもんと、ファイツは声に出さずに呟いてみた。
「……ファイツ」
「……っ!」
不意に、幼馴染が自分の名前を呼んだ。それは学校や彼の家で普段よく呼ばれるようなものではなかった。ファイツは今、幼馴染に呼び捨てで呼ばれたのだ。何もこれが初めてというわけではないのに、だけどファイツの心臓はどきどきと音を立ててしまっていた。
(ど、どうして?どうしてこんなにどきどきしちゃうの?)
ただ、呼び捨てで呼ばれただけだ。それなのに壊れそうになるくらい心臓が高鳴ってしまう理由が分からなくて、ファイツは眉根をぎゅっと寄せた。
「以前から思っていたが、いい機会だから言わせてもらう。ファイツ、お前は男というものを知らなさ過ぎる。性別が女であれば誰でもいいという男は正直いくらでもいるぞ。まして、何度も言うがファイツは可愛いんだ。まあ、お前自身はそうは思っていないようだが」
「…………」
「自分が男の目にどう映るのかを、お前はもう少し自覚した方がいい。夜道を1人で出歩くなんて、あまりにも無防備だ」
「あ、あの……」
ファイツは、おずおずと口を開いてそう言った。自分が男の人に襲われるだなんてあり得ないことだと思う、本当にそう思う。だから反論しなくちゃと頭では思うのに、だけど何を言えばいいのかよく分からなくて。結局、ファイツは口を閉じてこくんと首を縦に振った。分かっている、彼は自分を心配してそう言ってくれただけだ。ただ忠告をしてくれただけのことで、そこに深い意味なんてあるはずがない。それなのに心臓をどきどきと高鳴らせている自分のことを、ファイツはおかしいと思った。自分自身のことなのに、だけどファイツはよく分からないと思った。