school days : 116

思わぬ訪問者達
「……でさあ、社長はオレを置いてさっさと帰っちまったんだよ。お前は何で社長がそうしたんだと思う?」

カレールーが付着したスプーンを兄に向けられたラクツは、眉間の皺を深く刻んだ後に嘆息した。いくら肉親とはいえ、汚れた食器を眼前に突き付けられるのはあまりいい気分ではない。

「……ブラック、とりあえずスプーンを下ろしてくれ」
「ああ……悪い。で、オレは自分でも色々考えてみたんだけど……さっぱり分からなくてさあ。お前なら分かるかと思って相談したんだけど……」
「…………」

帰宅して早々、ラクツは兄に「相談事があるんだけど」と言われたのだ。けれどラクツは「シャワーを先に浴びさせて欲しい」と断って、真っ先に自室へと向かった。何かに悩んでいるらしいブラックには悪いが、今は剣道部でかいた汗をまず流したかったのだ。着替えを持って浴室に向かう途中で兄が本を持っているのに気が付いて、ラクツは何とも珍しいものだと思った。室内で本を読むより外でスポーツをする方がずっと好きであるブラックだけれど、それでもたまには読書をすることだってあるわけで。だからただ本を持っているだけなら然程驚くこともなかったのだが、その表紙には”経営学について”と書かれていた。サッカーや食物についての本なら理解も出来るが、よりにもよって経営学だ。あまりに似つかわしくない本をブラックが持っていた事実がずっと気になっていたのだが、食卓に着くなり聞かされた兄の話から推察するにどうやらホワイトが図書室から借りて来たものらしい。芸能事務所の社長になるという夢を持つ彼女ならそのような本を借りても不自然ではないが、せっかく借りた本を忘れてしまったというのはホワイトにしては珍しいミスなのではないだろうか。
彼女とのつき合いは長くも深くもないわけだけれど、それでも性格はそれなりに把握している。しっかり者の彼女にしてはやはり珍しいミスを犯したものだとラクツは思った。それはつまり、彼女はそれ程動揺していたということなのだろう。そして彼女を動揺させた当の本人である兄は、好物である甘口のカレーを口一杯に頬張っていた。

(……まったく、のんきなものだな)

サラダを咀嚼しながら、ラクツは内心で溜息混じりに呟いた。わざわざ自分に相談するくらいだから、きっとブラック自身もそれなりには気にしているのだろう。好物であるはずのカレーが食卓に出ているのにも関わらず、ブラックにしてはあまり食が進んでいないようにラクツには見受けられた。

「……なあ、ラクツ。どういうことだと思う?」
「…………」
「お前のことだからさあ、だいたいの見当くらいはついてるんじゃねえの?」

確かにブラックの言う通り、ラクツには”だいたい以上の”見当がついていたわけなのだけれど。しかし、その理由をそっくりそのまま本人に告げてしまうのはどうなのだろう。もちろん「”特別好き”だとホワイトさんに言ったからだろう」と言うのは簡単だが、ブラックは自分の発言を特に気にしている様子ではなさそうだった。
そんな発言をしたくらいなのだ、ブラックにもとうとう好きな人が出来たというなのだろう。そして顔を赤らめたらしいホワイトの反応からも、彼女が兄を憎からず想っていることは容易に想像出来た。つまりは、あの2人は両想いということらしい。だがホワイトはともかくとして、ブラックの方は自分の気持ちにすら気付いていない様子なのだ。それならば、こちらがわざわざ教えてやる必要はないだろうとの結論にラクツは至った。ひたすら鈍いブラックに、自分の気持ちについて考えさせるいい機会ではないか。それにラクツは部外者でしかないわけなのだ。そういう意味でも、ここは下手に口を出さない方が良さそうだ。断じて、想い人と相思相愛である兄に対する当てつけというわけではない。

「……さあ?ボクにも分からない」
「え?お前にも分からねえのか?」
「ボクはホワイトさんではないからな。それ程気になるのなら、彼女に訊いてみたらどうだ」
「ああ……。そうだな、明日訊いてみる」
「今すぐでなくていいのか?」
「んー……。それがさあ、オレ…社長の連絡先を知らねえんだよ」
「それは意外だな、キミなら新学期初日にでも訊いていそうなものだと思っていたが」

自分とは違って人懐っこいブラックのことだ。既にホワイトの連絡先を入手しているかと思っていたのだが、意外なことに彼は首を横に振った。

「ああ、それならオレじゃなくてゴールドが訊いてたよ。あいつ、クラスメートの女子全員に連絡先を訊いて回っててさ。まあ、結局はほとんど断られてたけど。社長もゴールドの申し出を断ってたし、その時はまだそんなに仲良くもなかったからな。だから、オレは社長の連絡先を訊かなかったんだ」
「……そうか」
「今はあの子とよく話すようになったけど、教室で毎日会えるから別にいいと思ってたんだよ。それにどっちかと言えば、オレは電話やメールよりは直接話す方が好きだし。……ああ、やっぱりカレーは甘口が一番だぜ!」

ホワイトに明日訊くと決めたからなのだろう。ブラックは猛烈な勢いでカレーを食べ始めて、そして瞬く間に全て食べ終えてしまった。まるで早食い競争でもしているかのような早さだった。コップに入った水を飲み干したブラックは、何とも満足そうな顔をしている。

「ラクツが食ってるのは辛口だろ?よくそんなに辛いのを平気で食えるよな、お前ってばすげえな!」
「ボクからすれば、キミの方がすごいと思うが。甘いカレーはボクの口には合わない」
「そうか?甘い方が絶対美味いと思うんだけどな。よく思うんだけどさ、オレとお前って本当に正反対だよな」
「それには同感だな。だが、世の中には似ていない兄弟などいくらでもいるだろう」
「まあな。でも、社長とファイツはよく似てるよなあ。お前もそう思わねえか?」

ファイツの名前を聞いた瞬間、ラクツの心臓は大きく音を立てた。彼女のことが好きで堪らないわけだから当たり前なのだけれど、それにしても反応が段々顕著になっているような気がする。……いや、実際にそうなのだ。少し前なら、名前を聞いただけでこれ程心臓が跳ねることはなかったのに。

「……ん?どうしたんだよ、黙り込んで」
「いや……。あの2人は、姉妹ではなく従姉の関係だろう」
「そりゃあそうだけどさ。それでも顔だけならすげえ似てるだろ?オレ、絶対姉妹かと思ってた」

そう言いながら、ブラックは空になった食器を持って立ち上がった。数歩前に歩き出した所で慌てて「ご馳走さん」と言ったブラックに頷くだけで応えて、ラクツは自分の分のカレーと生野菜のサラダを全て胃の中に収めた。やはりカレーは辛口が一番自分の口に合う、もう少し辛くてもいいくらいだ。次はもっと辛くしてみようと思ったラクツは、台所に篭ったブラックに自分が使った食器を渡した。今日の後片付けの当番は兄なのだ。

「……ん?」

サラダに使用した和風ドレッシングを冷蔵庫に入れて、扉を閉めたちょうどその瞬間だった。玄関のチャイムの音が耳に飛び込んで来て、ラクツは軽く首を捻った。こんな時間に誰かが家を訪ねて来るだなんて、珍しいことなのだ。

(もしかしたら、ブラックが通販でも頼んだのか?)

もしくは、新聞か何かの勧誘でチャイムを鳴らしたのか。配達ならともかくとして、後者ならこちらには迷惑でしかないだけだ。もしそうだとしたら、追い返さないといけないことになるわけで。そうなったら面倒だと思いながら、ラクツは食器を洗っている兄の代わりに玄関へと赴いた。そして鍵を回して、玄関の扉を静かに開ける。

「こんばんは、ラクツくん」

眼前に立っていたのは思いがけない人物で、ラクツは軽く目を見開いた。噂をすれば影とはよく言ったもので、申し訳なさそうに眉根を寄せたホワイトが玄関前に立っていたのだ。事実、ホワイトは「こんな時間にごめんね」との言葉を口にして来た。しかしラクツは自分の真正面に立ち尽くしているホワイトよりも、彼女の横にいる人物に意識が向いた。

「こ、こんばんは……。ラクツくん」
「ファイツ、くん……」

ホワイトと同じ言葉を、しかしまるで違う言い方で口にした彼女の名前をラクツは呟いた。完全に今のは無意識だ。名前を呼ばれて小さく頷いたファイツは、どういうわけか視線を地面に落としてしまった。見る限り何が落ちているというわけでもないのに、ファイツはひたすら地面を見つめている。ファイツのその反応と、何よりも彼女達が2人で家に来た理由を訝しんで、ラクツは再び首を捻った。