school days : 114
夢を叶えるその為に
右手に鞄を持ったブラックは、図書室に入った瞬間に「あ」と呟いた。日頃からよく話すクラスメートの姿を見かけたのだ。ただ彼女は背中を向けていた為に、ブラックがここに来たことにはまったく気付いていなかった。(……社長じゃん。あの子も勉強しに来たのかな)
先学期まではサッカー部のレギュラーとしてグラウンドを走り回っていたブラックだけれど、流石に部活を引退した今は勉強に専念しなければならない。勉強するなら場の雰囲気的に予備校内の自習室に篭るのが一番なのだが、集中講義があった夏休み中ならいざ知らず、予備校がない日にわざわざ自習室にまで行くのは面倒だった。だからブラックは学校の図書室で勉強しようと思ってやって来たのだが、まさかホワイトがここにいるとは思わなかった。
(にしても……。何だか危なっかしいよな)
高いところにある本を取ろうとしたのだろう、ホワイトは爪先立ちをした上で腕を目いっぱい伸ばした。だがそれでも彼女の指先が本に触れることはなく、ポニーテールがその動きに合わせて揺れていた。カウンターには図書委員の生徒がいるのだが、パソコンで何かを調べているのかホワイトの様子にはまったく気付いていない。肝心な時に何やってんだよと文句を言いながらカウンターの前を通り過ぎたブラックは、本を取ろうと頑張っているホワイトに後ろから声をかけた。
「……社長、大丈夫か?」
「きゃあっ!?」
小さな悲鳴を上げたホワイトは、ばっと勢いをつけて振り返った。こちらの姿を認めて、彼女の唇がわずかに動く。「ブラックくん」と小さな声で呼んだホワイトは、先程までは目いっぱい伸ばしていた手を今は胸に当てていた。
(オレ……社長を驚かせちまったのかな?)
ブラックとしては普通に声をかけただけなのだが、彼女にとってはそうではなかったのかもしれない。いつだったか、「ブラックは声が大きいよ」と言って苦笑した幼馴染の顔が頭に浮かぶ。そういえばここは図書室だった、もう少し声を潜めて話しかけるべきだったかもしれないとブラックは反省した。
「悪い、社長。……オレ、社長を驚かせるつもりはなかったんだけど」
「う、ううん。ブラックくんの所為じゃないから、気にしないで。ただブラックくんがいるとは思わなかったから、ちょっとびっくりしただけなのよ」
「そっか。……で、どの本が見たいんだ?オレが取ってやるよ」
「ありがとう。わざわざ向こうから踏み台を持って来るのも億劫だったし、頑張れば届くかなって思ってたんだけど……。じゃあ、ブラックくんの言葉に甘えさせてもらおうかな。そこの”経営学について”って書いてある本を取ってくれる?」
「おう、あれだな!」
ホワイトのように爪先立ちをするまでもなく、ブラックは普通に腕を伸ばして彼女が言った本を手に取った。「はい」と手渡すと、「ありがとう」と微笑まれる。
「いや、別に礼はいいって。何か放っておけなかっただけだしさ。……って、社長?オレの話、ちゃんと聞いてたか?」
「あ、うん……」
「本当か?今朝から思ってたんだけど、今日の社長って何か変だぜ。上手く言えねえけど、すげえぼーっとしてるっていうか……。今だって、オレの顔を全然見ねえじゃん。もしかして具合でも悪いのか?」
そう尋ねると、一瞬だけ目を丸くしたホワイトは慌てたように「ううん」と答えた。その声は大分小さく聞こえたものの、それは図書室という場所の所為だろうとブラックは思った。彼女に倣って、自分ももっと小さい声で話した方がいいかもしれない。他の生徒に迷惑をかけるのもカウンターにいる図書委員の生徒に怒られるのもごめんだと考えたブラックは、出来るだけ小声で「そっか」と返す。
「ほ、ほら。もう2学期になっちゃったじゃない?今日からもっと勉強頑張らなきゃなあって、そればっかり考えちゃうだけだから……」
「何だ、社長もそうなのか?実はオレもなんだよ。家だと集中出来ないし、予備校の自習室に行くのは面倒だしさ。だから図書室で勉強しようかって思って。……まったく、受験なんて早く終わって欲しいよな?」
自分の「具合が悪いのか」という問いをホワイトが否定したことに安堵したブラックはそう言いながら笑った。そして、彼女に今さっき手渡した本に目を落とす。”経営学”なんて、ブラックには一生縁がないものだろう。だがホワイトにとってはそうではない、何しろ芸能会社の社長になるのが彼女の”夢”なのだから。
「あ、これ?……うん、借りて読んでみようと思ってね。前からリクエストしてたんだけど、やっと図書室に入ったって聞いたから」
「へえ……。やっぱり社長はすげえな、”夢”を叶える為にちゃんと頑張ってて。オレは経営学なんて、学ぼうとすら思わねえもん」
「うふふ、ありがとう。でも、それを言うならブラックくんもでしょう?ゴールドくんから聞いたわよ、インターハイのこと。何本もシュートを決めたんだって?……オレより目立ってたって、ゴールドくんたら悔しがってたわよ?」
「あー、まあな。けど、結局準決勝で敗けちまったしなあ……。どうせなら優勝したかったぜ」
「アタシならインターハイに出られるだけでもすごいなって思うけど、ブラックくんは全然満足しないのね。その向上心、アタシも見習わなくちゃ」
「はは、そうか?……何か、社長にそう言われると照れるな」
ブラックは軽く目線を逸らして、頬を数回掻いた。未だにインターハイで優勝出来なかった事実は心に重くのしかかるのだけれど、彼女にそう言われると沈んだ気分がいくらか楽になった。実に不思議だったが、悪い気にはならなかった。
「そ、そう?……ちょっと待ってて、今から受付に行って来るから」
そう言うと、ホワイトは本を持ってカウンターに行ってしまった。ホワイトの姿を目で追ったブラックは、受付をしている男子生徒に見覚えがあることに気が付いた。クロワッサンのような髪型をした彼の名前は思い出せないけれど、絶対に見覚えがある。随分前にゴールドと朝練をしていた時に見かけた男子だ。あの時ゴールドを睨みつけていた彼は、今は何だかやけに愛想がいいとブラックは思った。ホワイトもホワイトで、にこにこと笑顔を見せながら彼と言葉を交わしている。
(何だ?これ……)
これ以上ホワイトと図書委員が話すところを見ていたくない。何故だか分からないけれど、突如としてそんな強い気持ちに襲われたブラックは、無理やり視線を窓に向けた。放課後である今の時間帯は、当然部活動も行われていた。生徒達が校庭を思い思いに走り回っているのが窓から見えて、ブラックは羨ましいぜと小さく呟く。どの道インターハイが終わった以上引退してしまうのは分かっていたのだけれど、それでももう一度あのメンバーでサッカーがしたいと思った。受験が終わったらサッカー部に顔でも出すかなんて考えていたブラックは、とんとんと誰かに肩を軽く叩かれて振り向いた。
「ああ……。社長か」
「どうしたの?そんなに校庭を見て」
「いや、サッカーがしたいって思ってさ。別に部活に出ちゃいけないっていう決まりがあるわけじゃねえけど、オレはもう部活を引退しちまったし。だから、終わるまでは自粛する」
「そうだったんだ。……でも、何かブラックくんがそう言うのって不思議だわ」
「え、何でだ?」
「だって、ブラックくんってすごいサッカーが好きでしょう?だから、勉強しながら部活にも出るって言うと思ったのよ」
「んー……。成績が余裕ならそうしたかもしれねえけどさ、実は結構ギリギリなんだよ。オレの第一志望はカノコ大学なんだけど、そこってレベルが高くてさ。だから流石に頑張らねえと!」
「……ブラックくんの志望校って、カノコ大学だったんだ」
「ああ。レッド先輩やゴールドが行きたがってるマサラ大学とも迷ったんだけど、やっぱりサッカーが強いカノコ大学に決めたんだ」
ゴールドやレッドにはマサラ大学にしないかなんて言われたけれど、ブラックは迷った末に首を横に振った。自宅からは少し遠いから通学に時間がかかるのが難点だけれど、それでもサッカーが強いという魅力には変えられない。それに、もしかしたら練習試合で2人と戦えるかもしれない。レッドやゴールドと戦う場面を想像するだけで、ブラックの心は高鳴ってしまった。
「だから、オレは合格出来るように頑張るよ。……そういえば、社長の志望校はどこなんだ?」
「アタシ?……アタシは経営学部があるヒウン大学よ。チェレンくんも一緒なの、彼が受けるのは教育学部だけど」
「ああ……。そうか、ヒウン大学か。……なあ社長、その本ちょっと見せてくれねえか?何か急に興味が出て来ちまって……」
「うん、どうぞ」
ホワイトから借りたばかりの本を受け取ったブラックは、まず目次に目を通してみた。だけど、もうその時点でさっぱり意味が分からなかった。
「分かんねえ……。何だよこの本、すげえ難しそうじゃねえか!」
「ブ、ブラックくん!もうちょっと静かにした方が……」
「あ、そうだったな。すっかり忘れてたぜ。……それにしても、本当に難しそうだな。オレなんて、ちょっと読んだだけで眠くなっちまいそうだぜ」
「ゴールドくんもそう言ってた。サッカーの本なら夢中で読むけど、教科書を読むだけで眠くなるって」
「オ、オレはあいつ程じゃねえぞ。ちゃんと予習もしてるし……」
「予習だけじゃダメよ、ちゃんと復習もしないと」
「わ、分かってるって!」
慌ててそう言ったブラックは、くすくすと笑っているホワイトを見つめた。自分の志望校はカノコ大学で、彼女はヒウン大学だ。志望校が違うから当たり前だけれど、ホワイトとこうして話せるのは残りわずかかもしれないなとブラックは思った。今までずっと一緒だったチェレンもヒウン大学だし、女子大に進学希望のベルとも離れてしまうことになる。改めてそう思うと、ブラックは急に淋しくなった。その淋しさを紛らわすかのように、明るい声を出す。
「オレも社長やラクツみたく勉強してれば良かったって思うけど、今更後悔したって仕方ないよな!少しでも成績が上がるように頑張らねえと!」
「あ、ラクツくんで思い出した!……ブラックくん、ラクツくんにアタシからの伝言を伝えてくれる?」
「え?……ラクツにって、何で?」
「映画のチケットよ。ラクツくんに最近もらったんだってファイツちゃんが言ってたの。2枚あるから一緒に行こうって、ファイツちゃんに誘われたのよ。だから、アタシが”ありがとう”って言ってたって伝えて欲しいの」
「ああ、そういうことか……。分かった、伝えておく」
何で彼女が急に弟の名前を出したのだろうと疑問に思ったブラックは、そういうことかと納得しながら頷いた。何だかすごく合点がいったというか、ホッとしたような気になったのだけれど、どうしてそう感じたのかはよく分からなかった。
「ありがとう、お願いね。……じゃあ、アタシはそろそろ帰ろうかな。時間を取らせちゃってごめんね、ブラックくん」
「謝る必要ねえよ!だってオレ、社長と話すのはすっげえ楽しいんだぜ?」
「……え。……そ、そうなの?」
首を傾げながらそう言ったホワイトに、ブラックは大きく頷いてみせた。これは自分の偽りない気持ちだし、ホワイトに嘘を言っていると思われるのは何だか嫌だった。
「ああ!だってさ、社長が初めてなんだぜ?オレと同じように、”夢”を叶える為に本気で頑張ってる女のコに会ったのって。だからオレ、社長には夢を叶えて欲しいって本当に思ってる!」
「あ、ありがとう……」
「おう!あ、わざわざ改まって礼を言うこともないぜ。だってオレ、社長のことは特別好きだし」
「……え?」
「ん?……何をそんなに不思議そうな顔してんだ、社長?オレ、変なこと言ったか?」
「えっと……。あのね、ブラックくん。変って言うか……」
そこまで言って、ホワイトは口を閉ざして黙り込んだ。それもただ黙り込むのではなく、見事なまでに下を向いて俯いてしまっている。それが気になったブラックは、いったいどうしたのかとホワイトの顔を覗き込もうとして……だけどそれは叶わなかった。何故か顔を真っ赤にしたホワイトが「アタシは帰るから」と言って、そそくさと逃げるようにその場を立ち去ってしまったからだ。
「……何がどうしたっていうんだ?」
彼女が借りた本をその手に持ったまま、ブラックはわけも分からずその場に立ち尽くした。クロワッサンそのものの髪型をした男子生徒の視線が、自分の身に思い切り突き刺さっているのもよく分からない。図書室で勉強すると決めていたブラックだけれど、やがて出入口に向かって歩き出した。このままここで勉強してもカウンターにいる彼にじろじろと見られて集中出来ないような気がしたし、何よりホワイトの様子が気になったのだ。ちなみにホワイトが借りた本は右手に持ったままだ。どう考えても自分の鞄には入らないし、今更教室に戻って彼女の机に置くのも面倒だ。今日はこのまま家に持ち帰って、明日彼女に渡すのが一番いいだろう。
(でも社長の態度が気になるよなあ……。仕方ねえ、帰ったらラクツに相談してみるか。まあ、あいつがちゃんと答えてくれるかは分からねえけど)
自分と違って頭がいい弟なら、ホワイトがどうして急に立ち去ってしまったのかがきっと分かるだろう。夕飯の時にでも相談しようと決めて、夕陽が射す廊下をのろのろと歩いた。脳裏には夕陽と同じくらい顔を真っ赤に染めたホワイトの姿が浮かんで、ブラックは軽く首を傾げた。