school days : 112
晴れのち雨
新学期初日から、それもかなり日光が照り付けているこの時間帯に、わざわざ屋上まで足を運ぶ物好きな人間は自分以外にいないだろう。ラクツはそう思っていたのだが、どうやらその見解は的外れだったらしい。「やっぱりここにいたんだ。おはよう、ラクツくん!新学期早々からいい天気ね、風があるだけマシだけど」
ユキと同じような言葉を口にされて、しかし振り向いたラクツの眉間の皺は増えなかった。背後から言葉を発したその人物から、自分へのそういう意味での好意がまったく見受けられない為だろう。その人物であるワイはにこにこと笑っているわけだが、それがないだけでラクツは気分が軽くなった。余計な気を遣わなくていいと思うだけで、本当に随分と楽だ。だからラクツはワイに対して「おはよう」と答えた、少し前にユキに通学路で返したものとはまったく違う声色だ。ワイは微笑んだが、やはり態度からは過剰な好意は見受けられない。せめて彼女の1割でもユキがそうなってくれたらどれ程楽だっただろうかと、考えても仕方のないことをラクツは考えた。嫌いとまではいかないのだが、ユキに好意を向けられていると思うだけでどうしても辟易してしまうのだ。
「ボクに、何か用か?」
わざわざ挨拶をする為に屋上まで足を運んだわけでもないだろう。確信を抱いたラクツが尋ねると、ワイは「うん」と頷いた。明朗快活である彼女にしては珍しい、どこか曖昧な頷き方だ。
「朝からごめんね。ちょっと、ラクツくんに話というか……相談事があるんだけど。今、大丈夫?」
「ああ。構わない」
実際、ラクツは何か用があって屋上に来たわけではなかった。朝のHRが始まるまでの時間を潰そうと、ただ何をするでもなく校庭を見下ろしていただけなのだ。しかしワイが自分に相談事があるというなら話は別だ。断る理由も特にないし、ただ時を過ごすよりずっと建設的だろう。
「ありがとう!そう言ってもらえて良かったわ、もし断られたらどうしようって思ってた!」
「断る理由がないからな。それに、キミのことは嫌いじゃない」
「……そっか。アタシも、ラクツくんのことは好きだよ。もちろん男の人として好きってわけじゃなくて、友達としてだけど」
そう笑顔で言い放ったワイは、ふうと溜息をついて手すりにもたれかかった。彼女の横顔にはどことなく陰りが見える気がするのだが、それはおそらく間違ってはいないだろう。その様子からして、こちらの思った以上に彼女は頭を悩ませているらしい。
「本題に入る前に、ちょっと訊きたいことがあるんだけど……いいかな?もし答えたくなかったら、無理に答えなくてもいいから」
「ああ」
「じゃあ訊くけど……。ラクツくんってさあ、ファイツとは幼馴染でしょう?」
「……そうだが」
「うん、そうだよね。ラクツくんはファイツと幼馴染で……だけど、好きなんだよね?」
「…………」
ワイのこの問いかけに、ラクツははっきりと”そうだ”とは答えなかった。別に正直に答えたところで、何の問題があるというわけでもない。まさか、ファイツ本人に告げるような真似をするはずもないだろう。そう頭では思うのだが、それでも頷くことが出来なかった。頭に浮かぶのは、今朝の出来事だ。ラクツが校門でファイツを見かけた際、あの娘は想い人を熱を湛えた瞳で見つめていた。実際にその現場を目にしてみると、あの娘が担任に恋焦がれているのは明らかだった。そしてラクツもまたあの娘に恋焦がれているわけなのだが、その想いが彼女に届くことはないだろうと分かっている。それは鈍いファイツのことだ、こちらから言わない限りは永遠に気付くことはないだろう。それで構わないと思っていたし、ラクツはむしろそうであって欲しいとも思っていた。気付かないならそれでいい、無理に彼女を困らせることもないだろう。彼女が笑っていてくれればそれでいいと、ラクツはそう思っていた。……少し前までは、本当にそう思っていた。
ところが、最近はそうも言い切れなくなって来ているのだ。”こちらの気持ちに気付いて欲しい”と思ってしまうのは惚れている故に仕方のないことかもしれないが、こうもあっさりと意思が揺らぐとは自分でも思わなかった。ファイツを困らせたくないとプラチナに言ったのは、どこの誰だっただろうか。そして自分ではどうにも出来ない程にあの娘への想いが膨らんでいると知りつつも、それをはっきりと口に出来ない自分は何と臆病な男なのだろう。
「……そっか。うん、分かった」
ラクツは沈黙していただけなのだが、それでも何かを察したのだろう。ワイは静かな声で、まるで独り言を言うかの如く呟いた。先学期とは違って短くなった彼女の髪が、時折吹く風に合わせて小さく揺れていた。
「アタシは別にラクツくんをからかおうとか、そんなことは全然思ってないのよ。ただ、幼馴染を好きな人って……アタシの周りにはいないから。だから、ちょっとラクツくんの口から聞きたいなって思っただけなの。ラクツくんの気持ちはもう知ってるのに、変なことを訊いちゃってごめんね」
「いや、ワイくんが謝る必要はない。ボクが、ただ臆病なだけだ」
「そっか……。ラクツくんでもそう思うんだ。……うん、ちょっとだけ安心したかも。良かった、アタシだけじゃないんだ……」
「そうか……。確か、ワイくんには異性の幼馴染がいたな。キミは、その幼馴染が好きなのか?」
「あ、やっぱり分かっちゃう?……って、アタシにもよく分かってないんだけど。でも、多分そうなんだと思う。ラクツくんの言う通り、アタシはきっとエックスのことが好きなんだわ……」
ぽつりとそう呟いたワイは、はあっと大きな溜息をついた。手すりを思い切り握り締めて、「どうしよう」と弱々しく声を漏らす。ラクツは隣にいるワイを見ながら、つい先日に本屋で出会った人物の姿を頭に思い浮かべた。謝られるまでもなく、彼がワイの幼馴染であるということは知っていた。カップルを通り越して夫婦だの何だのと勝手に噂をされていることも当然知っている。だが記憶が正しければ、ワイはその度に「ただの幼馴染」と返していたように思う。少なくとも、夏休みに入る直前まではそうだったはずだ。つまりワイが幼馴染を意識し出したのはつい最近のことで、だから本人の中でも気持ちの整理がつかないのだろう。
「ボクは、自分が思ったことを言っただけだぞ」
「うん……。でも、やっぱりそうなんだと思う……。ちょっと前までは全然こんなこと思わなかったのになあ……。ああ、どうしよう……。アタシ、幼馴染を好きになっちゃったんだわ……」
「そうか。キミがそう思ったのなら、そうなんだろうな」
そう答えながら、ラクツはこの返しはどうなのだろうと思った。ワイは恋愛相談をしにわざわざ屋上まで来たというのに、自分は何とも本人任せで投げやりとも取れる答を言っただけだ。例えば勉強に関する相談ならもう少しまともな助言が出来ただろうに、何故よりにもよって恋愛相談なのだろう。
「……どうしよう。アタシ、人を好きになるのって初めてなのよね……。しかも、まさかエックスにこんな気持ちになるなんて夢にも思わなかったし……。どうしよう、どうしたらいいんだろう……」
「……すまないが、ワイくん。ボクにそういう意見を求められても、答に困る。キミの役に立つ助言が出来るとは到底思えないし、話を聞くだけしかボクには出来ないと思う。恋愛相談なら他の人間を当たってくれると助かる。正直言って、ボクには向いていない」
どういうわけかラクツは女によく告白されるけれど、決して恋愛経験豊富なわけではないのだ。ワイは”人を好きになるのは初めて”だと言うが、ラクツだってそうだった。ファイツに今現在抱いている想いを他の人間に感じたことはないし、内心そのことで悩んでいたりするのだ。決して面倒だからではなく、あくまでワイの為を思って言ったのだが、彼女は「ううん」と言った。そればかりか「ラクツくんは向いてると思うけど」などと、ラクツからすれば耳を疑う発言をして来たのだ。
「何故、そう思うんだ?」
「だって。ラクツくんって、アタシにいい意味で気を遣わないでしょう。さっきだって、アタシの役に立てないと思うって言ったわよね。それって、アタシのことを思って言ってくれたんでしょう?だから、ラクツくんに相談して良かったってアタシは思ってる。誰かに話を聞いてもらうだけでも、随分楽な気持ちになるし!」
「そういうものなのか?」
「そういうものよ。散々悩んだけど、やっぱり今日相談して良かった!ありがとう、ラクツくん!」
「的確な助言をしたわけではないが、キミがそう思えたのなら良かった」
手すりから手を放して、ワイは思い切り伸びをした。数回伸びを繰り返した後で、「まあ告白するって決めたわけじゃないけど」と言って笑った。眉根を寄せたどこか辛そうな笑みだったけれど、それでもワイは笑っていた。
その笑顔を見たラクツは思う、何故彼女はあれ程綺麗に笑えるのかと疑問に思う。何故彼女が幼馴染のことを好きになったのかは訊かない、ワイの方から言い出さない限り決して訊くつもりはない。だが、ラクツは不思議だった。ワイがあっさりと自分の気持ちを素直に認めたのが、そしてそれを堂々と他人に言えるのが、どうにも不思議だったのだ。
「……ねえ、ラクツくん。また、相談をしに来てもいいかな。ラクツくんが嫌じゃなければ、アタシとしてはお願いしたいんだけど」
「……ああ」
迷ったものの、ラクツはそう答えた。彼女がそれを望むならこちらとしては断る理由もないし、ワイのことは嫌いではなかった。物静かなプラチナとは正反対の性格をしているワイだが、彼女といるのは気を遣わない分楽だった。それに何より、彼女は自分と同じく幼馴染を好きになったと言う。それを思うと、尚更断る気にはなれなかった。
「ありがとう。……お互い頑張ろうね!」
言うが早いが、ワイはあっという間にその場を駆け出してしまった。取り残されたラクツは、何を頑張るんだと苦笑した。あの様子からすると、ワイはおそらく告白するのだろう。きっとそのうち、幼馴染に想いをぶつけるのだろう。
「…………」
彼女に倣って自分も、と考えてしまって……ラクツは薄く笑った。とても言えない、言えるわけがない。先日、あの娘に対してラクツは思わず”可愛い”と告げたが、彼女は困った顔をしただけではなかったか。それに映画のチケットを2枚とも渡した時にだって、彼女は”心ここにあらず”といった様子だった。帰宅した父が、「久々にファイツちゃんと会ったが随分と綺麗になっていた、だが何か考え事をしている様子だった」と言っていたではないか。もしかしたら、彼女を酷く困らせてしまったかもしれない。
可愛いなんて思わせ振りなことを言いつつも、結局踏み込んだことは何も言えなかった。それに、彼女をデートにも誘えなかった。自分には必要ないからと言って、彼女にチケットを半ば無理やり渡したのだ。間違ったことをしたとは思わないが、結局は彼女を困らせただけなのではないだろうかという後悔は拭えない。そんな愚かしい自分を内心で諫めてから、ラクツもまた屋上を後にした。これから幼馴染の想い人を見るのだと思うと、ラクツは天気とは裏腹にどうにも憂鬱な気分になった。