school days : 111
好きな人に想いを馳せて
教室でクラスメートが思い思いに過ごしている中、自分の席で頬杖をついたファイツは本当に良かったと思った。想ってやまないあの人を目にした瞬間に、ファイツの心臓はどきんと跳ねたのだ。だけどあの人は数多くの女子生徒に囲まれていて、結局おはようございますと挨拶することも出来ずにこの教室に来たわけなのだけれど。それでも良かったと思う。あの人を見れて、そして幸せな気持ちになれただけでもいいと思った。教室へと向かいながら、そうなってくれて良かったと心の底からホッとしたくらいなのだ。(うん……。あたしの好きな人は、やっぱりN先生だよ。だって、まだこんなにどきどきしてるんだもん……)
一瞬だけ幼馴染の男の子の顔が頭を過ぎったものの、微かに首を振ってその想像をかき消した。それでも気を抜くと、またすぐに幼馴染の顔が浮かんで来る。つい最近彼に勉強を教わった日に”可愛い”と言われたことを思い出して、ファイツはそっと目を伏せた。真剣な顔をした彼に、真剣な声で可愛いなんて言われてしまった……。
(ラクツくん、何であんなこと言ったのかな……。あたしに気を遣ったわけじゃないって言ってくれたけど、本当にそうなのかなあ……)
最初は、気を遣われたのかと思った。自分に自信が持てないファイツは、彼に可愛いと言われても素直に受け取ることが出来なかった。”ラクツくんに気を遣わせちゃった”と自分の発言を反省したファイツは、「ごめんね」とすぐに謝るつもりだったのだ。だけどラクツに謝る前に「気を遣ったわけじゃない」なんて言われてしまって、結局直接は言えずじまいだったのだけれど。
だけど、と思う。もし仮に謝っていたとしても、「自分に自信を持って欲しい」と言われる結果に終わったのではないか。彼は本当に優しいけれど、ファイツが自分自身を蔑む度に「自分を卑下するな」と口にするのだ。「ごめんね」と謝った結果、彼はもしかしたら嫌な気持ちになったかもしれない。それを思えば謝れなくて良かったのかもしれないけれど、それでも心に渦巻く疑問は消えてはくれない。
(ほ……。本当にあたしのことを、その……。か、可愛いって思ってくれてるの、かなあ……。……でもラクツくんが何でそう言ったのかが、あたしには全然分からないよ……)
もしファイツが鋭い人間だったなら、彼の言葉の裏に秘められた想いに気付けたかもしれない。だけどファイツは生憎そうではなかったから、ただただ首を傾げるだけだった。
(……やだ、またどきどきして来ちゃった……。いつになったら、元のあたしに戻るんだろう……。やっぱり、もう少し時間がかかるのかなあ……)
幼馴染に可愛いと言われたことが嫌なわけじゃない。だけど何が何だか分からなくて、ファイツはただ戸惑うばかりだった。何となく怖いような気もするのだけれど、何が怖いのかも分からなかった。本当に、分からないことだらけだ。
(分からないって言えば……。映画のチケット、本当にあたしなんかがもらっちゃっても良かったのかなあ……)
ファイツはあの後……帰る間際になって、ラクツに映画のチケットを差し出された。眼前の2枚のチケットを見て、ファイツは思わず「あたしを誘ってくれたの?」なんて言いそうになった。喉から出かかったけれど、寸でのところで思い止まったのだ。
今から思えば、そう言わないで本当に良かったと思う。言ったところで彼を困らせてしまうだけだ。男の人と2人きりで映画を見るだなんて、デート以外の何ものでもない。夏祭の時はなりゆきだったけれど、映画を見るとなれば話は別だ。誰に訊いてもデートだという答が返って来ることだろう。そのデートに、彼が自分などを誘うはずがない。
(ラクツくんは知り合いからもらったって言ってたけど、本当は誰か誘いたかった人がいるんじゃないのかな……。ついお姉ちゃんを誘っちゃったけど、本当は返すべきだったんじゃないのかなあ……?)
一瞬だけ胸に痛みが走ったけれど、ファイツはそれを”幼馴染に対する罪悪感”だと認識した。可愛いと言われた事実が尾を引いていて、映画のチケットを貰った時にお礼を言っていなかったのだ。だから胸に痛みが走っても、ファイツはそのことに対する罪悪感だと信じて疑わなかった。
(お礼も言わないなんて、あたし……ラクツくんに失礼な態度を取っちゃったよね。今度会ったら、ごめんねって言わなくちゃ……。それでもラクツくんは赦してくれる気がするけど、内心であたしに呆れてたりするんじゃないのかな……。本当は、あたしに言いたいこととかたくさんあるんじゃないのかなあ……?)
ファイツのこの考えは、実際当たっていた。だけど例によって自分に自信が持てないファイツは”あたしに対する不満”だと捉えていた。決して察しが良くないわけではないのだけれど、ファイツは肝心なところで鈍かった。
「……あれ?」
あたしの好きな人はN先生しかいないと自分に言い聞かせたにも拘らず、結局は幼馴染のことばかり考えていたファイツは、その事実に気付かないまま小さく声を上げた。いつのまにか、ファイツが教室でぼんやりと時を過ごしてからかなりの時間が経っていた。それは別に何の問題もないのだけれど、次々とクラスメート達が入って来る中に紛れて教室にやって来た子に目を奪われたのだ。その子はどう見てもファイツの大切な親友の1人であるワイだったのだが、長かったはずの髪の毛は肩の辺りで短く切り揃えられていたのだ。驚いたファイツがまじまじと彼女の顔を眺めているうちに、ワイはあっという間に周りのクラスメート達に挨拶を終えてしまった。そして、あっという間にファイツのすぐ近くまで歩いて来た。
「おはよう、ファイツ!今日から新学期だけどよろしくね!……どうしたの、ファイツ?アタシの顔ばっか見ちゃって」
「それを言うのはあたしの方だよ!ワイちゃんてば、髪を切ったの?短くするのは嫌だって、あんなに言ってたのに……」
「ああ、これ?……うん、ちょっと気分転換にね。似合う?」
「うん。ちょっとびっくりしたけど、短いのも似合うね!……あ、あたしの方こそよろしくね、ワイちゃん!」
「ありがとう」と笑顔で答えたワイは、自分の席に持っていた鞄を音を立てて置いた。そして時計を見上げてから、「まだ時間はあるわよね」と誰にともなく呟いた。
「……どうしたの?」
「ちょっと、ね。Aクラスに行って来ようと思って」
「えっと……。プラチナちゃんと話すの?」
まだこの呼び名は言い慣れないなと思いながら、ファイツは考えたことをそのまま口にした。ワイがAクラスに用があると言うなら当然プラチナ絡みだと思ったのだが、だけどそんな自分の予想に反してワイは「ううん」と首を横に振った。
「プラチナじゃなくて、ラクツくんに話があるの」
「……え?」
「じゃあ、そういうことだから。……ちょっと行って来るね」
「うん……」
一応ファイツは頷いたものの、多分その声はワイには届いていないだろうと思った。あっという間にワイは教室から出て行ってしまったからだ。その背中を、ファイツは呆然として見送った。
(ワイちゃん……。新学期早々、ラクツくんに何の話があるんだろう……?)
自分の親友が、自分の幼馴染に話があると言う。明るくて綺麗なワイのことだ、男友達だってたくさんいて当然だし、話をするなんて別におかしくも何ともないはずだ。その何でもないはずのことが、だけどどうにもファイツの心の中にぐるぐると渦巻いた。同時にずきんと胸が痛んだような気もしたけれど、ファイツは自分の気の所為だと思った。