school days : 109

みらいよち
刑事であるハンサムは、基本的に帰宅時間が遅い。しかし今日は珍しく早い時間に仕事を終えたので、帰宅途中に買い物でもしようと考えたハンサムはスーパーに立ち寄った。店内に入った瞬間に冷たさを感じた、やはりこの時期はどこも冷房を効かせている。自分の職場だって冷房が効いていないわけではないが、それでもこれ程涼しくはない。設定温度を25℃以上にすべしという規則をきっちり守っているのだ。しかし事件ばかりで慌ただしく現場を駆けずり回ることの方が多い自分にとっては、冷房が効いているという事実だけでありがたいというものだ。

(……だが、これは寒いな)

普段は電車通勤をしているのだが、駅からこのスーパーまではそれなりに距離があるのだ。この暑い中を歩けば当然汗をかくわけで、その所為かハンサムはぶるりと身震いした。ただでさえ汗をかいて冷えている身体が、冷房によって更に冷えたらしい。なるべく早く買い物を済ませて家に帰ろうと決めて、ハンサムはまずお酒売り場へと直行した。買い物かごは持たなかった、どうせ買うのはいつも通りに缶ビール1本なのだ。それならば商品を直に手に持つ方が店員の手間も減っていいだろう。

「……ん?」

今日は何の銘柄の缶ビールを買おうかと考えていたハンサムは、目的の場所であるお酒売り場に向かう途中でふと足を止めた。今しがた通り過ぎたばかりであるお菓子売り場のコーナーに、もしかしたら知り合いがいたかもしれないと思ったのだ。刑事である立場故か、ついつい周囲を観察してしまう習性が発揮された結果だ。

「…………」

勘違いだという可能性ももちろん考えられたものの、それでもハンサムは自分の直感に従って歩く方向を変えた。見かけたかもしれない相手がただの知り合いなら、ハンサムだってわざわざ戻らなかった。ただでさえ連日の勤務で疲れている身だし、早く帰りたいと思っていたくらいなのだ。だけど、その人物の特徴的な髪型がやけに気になった。もしかしたら、自分が頭に思い浮かべた通りの人物かもしれない。普段は立ち寄ることすら稀なお菓子売り場にやって来たハンサムは、すぐに目当ての人物を見つけ出した。髪型についてはあまり詳しくないが、その子は頭の両側に団子を作って毛先を垂らしていた。

(やはりそうだ、あの髪型の子は間違いなくあの子だ)

途端に懐かしさを覚えたハンサムだが、すぐに声をかけることはしなかった。急に自分に話しかけられることになったら、さぞやあの子は戸惑うかもしれない。いや、そもそも彼女は自分のことを憶えているのかどうかが分からない。何しろ最後に彼女に会ったのは随分と昔のことなのだ、向こうの方は自分のことを忘れている可能性は充分に考えられる。そう考えたハンサムは少し離れたところからそっと様子を窺うが、彼女がこちらに気付くことはなかった。数種類のクッキーの箱を棚から取り出して、そのままかごに入れるわけでもなくただぼんやりと眺めていた。
その様子に躊躇したものの、結局ハンサムは意を決して一歩踏み出した。これ以上ここで立ち止まっていると他の人間に迷惑になるかもしれないし、もしかしたら不審者として通報されてしまうかもしれないという懸念を抱いたのだ。そんなことになるのは絶対にごめん被りたい、自分の職業を思えば尚更だ。

「あの……。もしかして……ファイツ、ちゃん……かな?」
「……えっ!?」

余程驚いたのだろう、彼女は大袈裟なくらいに身を震わせながらこちらを向いた。その際に落としたクッキーの箱を拾うこともなく、彼女は呆然とした表情でこちらを見つめている。その顔にはありありとした恐怖の色が浮かんでいた、誰がどう見てもそうだと分かる程だ。どうやら、自分は彼女のことをかなり怖がらせてしまったらしい。「そうですけど」と答えた彼女の声は、これまた酷く震えていたのだ。

「ああ、怖がらせてすまない。私はハンサムと言う。決して怪しい者じゃない。息子が幼い頃、キミと仲良くさせてもらっていた……ラクツの父親だ」
「……ラクツくん、の?」
「ああ」

これ以上彼女を怯えさせるわけにはいかないと、ハンサムは慌てて自分の名を告げた。息子の名を出したことが功を奏したのか、明らかに怯えていたファイツは驚いたように目を大きく見開いた。

「えっと……」

そう小声で言った後で、ファイツは無言でこちらを見つめた。出来るだけ彼女を怖がらせない顔付きにしようと思ったハンサムは、緊張しつつも何とか笑顔を作った。そうして互いに見つめ合ってからどれくらいの時間が経ったことだろう。しばらくの間じっと自分を見つめていたファイツは、突如として口元に手を当てた。

「ハンサム、おじさん……?」
「ああ、そうだ!私を思い出してくれたのかい?」
「は、はい……。すみません、あたしったら中々思い出せなくて……」
「いやいや。随分昔に会ったきりだからね、忘れていて当然だ」

息子の幼馴染が自分のことを思い出してくれた事実が嬉しくて、ハンサムは笑いながら床に落ちているクッキーの箱を拾った。それを手渡すと、「すみません」と丁寧に頭を下げられる。そして彼女はクッキーの箱の表面を軽く指で払ってから、そっと棚に戻した。そんなところは少しも変わっていないとハンサムは思った。

「……だが、キミは随分と綺麗になったな」
「えっ!?……あ、あの。そんなこと、ないです……」
「いやいや、これは社交辞令ではないよ。そんなに謙遜しなくてもいい」
「は、はい……」

こくんと頷いたファイツは、恥ずかしいのか顔を赤くして俯いてしまった。そんな控えめな性格も、そして感情がすぐに表に出る素直なところも、どうやら昔と変わっていないらしい。その反応を微笑ましいと思いながら、ハンサムは言葉を続けた。

「本来ならばこのような立ち話の最中に告げるのは失礼なのだろうが、キミにまず礼を言いたい。私の息子達が本当に世話になっている礼だ。キミはよく、息子達に作った料理をお裾分けしてくれるそうじゃないか。随分と遅くなってしまったが……。本当にありがとう、ファイツちゃん」

ハンサムが頭を下げると、ファイツは目を丸くしてぶんぶんと首を振った。とんでもないとばかりに、それはもう勢いよく首を振る。

「い、いえ!あたしこそ、ラクツくんにはお世話になりっぱなしで……!彼に勉強を教わってるお礼にお裾分けしてるだけですし、あんまり凝ったものは作れないですし……!あたしがお礼を言われる理由なんて、ないですよ……っ」
「そんなことはない。ブラックもラクツも、キミには感謝しているよ。恥ずかしい話だが……私は仕事ばかりしていて、家のことは息子達に任せきりでね。その所為で、息子達には随分と苦労をかけている」
「……そ、そんな……。刑事さんだなんて、すごく大変なお仕事ですし……。あの……いつも、お仕事お疲れ様です……っ」

そう言ってまたお辞儀をした彼女の態度に、ハンサムは目を細める。どうやら見た限りでは自分を必要以上に謙遜する癖があるようだが、それでもこの子が礼儀正しくて素直であることに変わりはない。

「ありがとう。私のことは、ラクツから聞いたのかい?」
「はい。ラクツくん、前に言ってましたよ。”父さんが誇りを持って仕事に励んでいることを、自分達は充分に分かっているから”って……」
「そ、そうか……。あのラクツが、そんなことを……」

その情報に、ハンサムは思わず目頭を押さえた。後ろめたさが完全に消えるわけではないものの、それでもどこか救われる思いだった。今ここにファイツがいなかったら、間違いなく感動して思い切り泣いていたことだろう。

「……いや、すまないね。この歳になると、どうにも涙腺が弱くなって困る……」
「いえ、そんな……」

ファイツはゆっくりと首を振ったが、不意にその動きを止めた。何かを考えるかのように、じっとこちらを見つめている。流石に気になったハンサムが「どうしたのかい?」と尋ねると、やや間が空いてからファイツはおずおずと話し始めた。

「その……。やっぱりラクツくんって、ハンサムおじさんの子供なんだなあって思っただけです……。ハンサムおじさんと口調がよく似てるから……」
「ああ、確かにラクツは堅い話し方をするな。きっと私に影響されたのだろう」
「ふふ、そうかもしれませんね……。ラクツくんって、”ごめん”じゃなくて”すまない”って謝るんですよ。おじさんの話を聞いてたら、そういえば喋り方がそっくりだなって思って……」
「そうか。だが、似ているのはそれくらいのものだろう。むしろ私に似たのはブラックの方で、ラクツは間違いなく病気で亡くなってしまった母親似だ。それでも、将来は私と同じ警察官になると言ってくれているがね」
「……そうなんですか?」
「ああ。私も激務だと一応忠告はしたんだが、本人が知っていると返すものだから強く反対はしていないんだ。正直、それを聞いて嬉しいと思ったよ。親冥利に尽きる、というやつかな」
「そうなんだ、ラクツくんって将来警察官になるつもりなんだ……」

独り言を言うかのようにそう呟いたファイツを見たハンサムは、「おや?」と首を傾げた。多分本人は気付いていないのだろうが、彼女の顔は赤く染まっていたのだ。それも”ラクツくん”と言った瞬間にだ。ハンサムの頭の中で、何かが閃いた。

「ファイツちゃん、キミは……」
「えっと……何ですか?」
「ああ、いやいや。何でもないよ、気にしないでくれ」
「……?」

思わず頭に浮かんだ疑問を口にしようとして、しかしハンサムは何とか思い止まった。”キミはラクツのことが好きなのかい?”と訊くなんて、デリカシーがないにも程がある。それに、これはあくまで自分の憶測なのだ。しかしそれでも、もしかしたらそうなのではないかという思いはどうしても捨てきれない。
もし自分の考えが当たっていたらどれ程いいだろうと、ハンサムは思う。こうして少し話しただけでも、ファイツがとてもいい子だということは分かる。次男がそれは異性にモテることは知っているが、それでも恋人がいたという事実は今までに一度たりともないのだ。もしかしたらこの子の好意も躱されているかもしれないと思うと、ハンサムはつい謝りたい気分になった。もちろんそんなことは実際にはしないし、恋人を作るも作らないも次男の自由にさせるべきだとも理解してはいるのだけれど。

「あ、あの……?ハンサムおじさん……?」
「ああ、すまない。少し考え事をしていただけなんだ。……ところでファイツちゃんは、ラクツとよく話すのかい?」
「学校ではほとんど話さないです。クラスも違いますし……。でもラクツくんの家にお邪魔させてもらってる時とか、えっと……。その……2人の時は、それなりに話すとは思います、けど……」
「うむ、そうか……。親の私が言うのも何だが、特にラクツは良く出来た子でね。だが兄とは違って人づき合いがあまり好きではない子だから、どうなのだろうと少し気になっただけなんだ。例えばキミといる時、ラクツは何か迷惑をかけてはいないかい?」
「い、いいえ!むしろ、あたしの方が迷惑をかけっぱなしなくらいです!ラクツくんってすっごくしっかりしてるから、あたしはいつも甘えてばかりで……!それに、ラクツくんはすごく優しい人ですから……。一緒にいて迷惑だなんて、そんなことないです!」
「……そうか」

必死にそう言ったファイツの態度を目の当たりにして、またもやハンサムは”この子はいい子だ”と思った。これでも長年警察官として幾人もの人間を見て来たのだ、人を見る目には自信がある。それに何より、こんなにも一生懸命に息子のことを評してくれるのだ。この子がいい子でないなら、いったい誰がいい子だと言うのだろうか。

「ありがとう、ファイツちゃん。どうか、これからもラクツと仲良くしてやってくれないだろうか」
「はい。もちろんです」
「……ありがとう。それじゃあ私はもう行くよ。長々と話し込んですまなかったね」

はにかみながら、だけどしっかりとそう言い切ってくれた彼女にまた礼を言って、ハンサムは背中を向けた。やはり何だか涙が出そうになって、しかしそれを無理やりにでも押し止める。これは自分の勘というより願望なのだろうが、やはりファイツは息子のことが好きなのだろうと思う。

(ラクツの方は……どうなのだろうか)

感情を露わにするタイプのブラックとは違い、ラクツはあまりほとんど感情を表に出さない。つまり、息子があの子のことをどう思っているのかがハンサムにはさっぱり分からないのだ。親なのにはっきりそうだと言い切れないのが何だか情けないが、分からないものは分からなかった。加えて事件に関係あることならまだしも、これは事件性の欠片もない事柄なのだ。……いや、もしラクツがあの子のことを実は好いているというなら、それはそれで事件かもしれないが。
勉強を教えるという目的があるとはいえ自宅に呼ぶくらいなのだ、あの子を嫌っていることは万が一にもないだろう。それが幼馴染の情なのか、はたまた別の何かなのかは多分本人にしか分からない。かと言って、それをそのまま息子に尋ねるわけにもいかない。そもそも訊いたところで素直に口にするとは思えない。あのくらいの年頃の子供は色々と難しいものなのだ。

(このまま黙って見守っているのが正解なのだろうが……。これは随分と歯痒いものだ)

ようやくお目当てのお酒売り場へたどり着いたハンサムは、どの缶ビールにしようかと棚をざっと眺めた。その中に”しあわせ”という文字を見つけて、思わずその缶ビールを手に取る。自分が飲んだことがない銘柄のビールだ。

(幸せ、か……)

この缶ビールを飲んだ人間は幸せな気分になる、それ故に”しあわせ”と名付けられたのだろう。それを謡う企業に騙されたわけではないが、たまには別の銘柄のビールを飲んでみるのもいいかとハンサムは思った。もしかしたら将来、次男にそれは可愛い恋人が出来るかもしれない。幼い頃毎日のように遊びに来ていたあの女の子が、ひいては義理の娘になるかもしれないのだ。それはなんて素晴らしいことだろうとハンサムは思った。もちろんこれは単なる想像でしかないわけなのだが、それでもそんな未来を想像してしまうだけで、どうしたって幸せ気分になるというものだ。気が付けば、あれ程感じていた寒さはすっかり感じなくなっていた。例えどれ程年月を重ねようとも、親は子の幸せを願う生き物なのだ。そうだ、今夜は1人ひっそりと、息子2人の未来に乾杯しよう。そう決めて、ハンサムは足を前へと踏み出した。